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ラッキーオールドサンとお爺ちゃん

最近はもっぱら、ラッキーオールドサンばかり聴いている。こうしている今も、聴いている。そしてこの前、彼ら(ラッキーオールドサンの2人)が結婚したという話題を耳にした。なんだか、長い青春を聴かされているようだと思った。

ドライブで海が見えてくるとサザンを流したくなるように、日が長くなってきた春の手前に、ラッキーオールドサンはとてもよくあう。そういえば僕の夏フェスデビューは何年か前のフジロックで、その時聴いた「The Specials」と「The Stone Roses」は鮮烈で、瞬く間に夏の風物詩となってしまった。正確にはその年のフジロックは凄まじいラインナップで歓喜していたのだけれども、なぜかこの二つのバンドだけが夏の思い出となった。

今でも鮮明に思い出せる。少し冷えかけた苗場の夜に渦巻く熱気の中、ズンズンと腹の底にまで響くベースの音。胸の高いところを揺さぶるようなドラムの音。耳から入って脳みそを反響するギターの音。僕の場合ボーカルは目から入ってくるような感覚だ。体全身で音を受け止めながら、ボーカルの存在感と声を目に焼き付けようとしていた。

記憶はあらゆる感受性をもって蓄積されていくように思う。だから僕は、記憶に残したいと感じる景色や出来事があったときには、極力たくさんのきっかけを作ろうと試みる。鼻から大きく息を吸い込んで匂いを感じてみたり、目でみたり、手で触ったり、耳を澄ましてみたり。写真に残すこともその一つだ。とにかく後になって思い出そうとしたときのために、少しでも多くの手がかりを身体中に植え付けようとする。

そうすると、ひょんなところで記憶と記憶がつながることがある。漂白剤の匂いでバイト時代を思い出したり。記憶というのは面白いもので、普段はとんと思い出せもしないくせに、きっかけさえ掴むと芋づる式に周辺記憶が蘇ってきたりする。苦い記憶であったにせよ、どどっと記憶が蘇るのは気持ちが良い。

本音や本性と同じように、大切な記憶も実は普段思い出せないような奥深いところにあるんじゃないかと思う。記憶は思い出すたびに、その時々の感情で少しずつ補正されてしまうから、大切にとっておきたい記憶ほどずっと奥の方にしまい込んでいるのではないかな、と。そう考えてみると、僕にも思い当たることがいくつかある。それは、大好きだったお爺ちゃんのことについてだ。

僕はとにかくお爺ちゃんっ子だった。昔の写真をみても、いつでもお爺ちゃんの膝の上にいる。とにかく大好きで、帰郷するたびに色んなところへ連れて行ってもらったはずなんだけど、実はあんまり思い出せないのだ。お爺ちゃんが亡くなる瞬間のことも、僕にとっては衝撃では収まらないほどの出来事に違いなかったのに、衝動的な記憶まで思い出せないのだ。僕がまだ幼かったこともあるだろうが、僕にとってはすり減らしたくない記憶なのかもしれない。

とまあこんな具合に話が脱線してしまうのは僕の悪い癖だが、ラッキーオールドサンとお爺ちゃんとは、僕の中でどこかで何かが繋がっていたのかもしれないと考えることにしよう。

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