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自己と向き合って苦しむほうが、きっと夢中で楽しくなれる

オールユアーズの木村さんの記事を読んだ。

真っ直ぐな言葉だ。そして、僕がかかえているモヤモヤを見透かされたような気がしてしまった。もしかすると、こんな言葉にグサッと刺される人は多いんじゃないだろうか。

SNSを開けば、成功したひと、勢いのあるひと、声の大きいひとたちが近くに感じられて、自分の小ささや、何もできない自分に無力感を感じてしまう。 
(記事より引用)
でも僕自身、いつも自意識と自己承認欲求の中に悩み、すぐに答えを知りたがり、他人のことを羨ましくなったり、自分の小ささを日々実感しながら生きております。
(記事より引用)

同年代でも、世間から評価され発言力を持った人々がたくさんあらわれて。あれよあれよと新しいものを生み出していく。その反面で何者にもなりきれない自分を、キラキラした人たちの影へと追いやってしまう。

正直、何者でもない僕が書くnoteに一体なんの価値があるんだろうと、思ってしまうことだってあるわけです。

それでも、何もしないまま不貞腐れているだけの人にはなりたくないし、読んでくれている人や、自分のために、向き合うしかないなと思うわけです。

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でも、もっと正直な話をすると、

僕はいま抱いているこのモヤモヤすら、言語化はおろか、捉えきれない心許なさの中にいて、

自分がいま何に対して焦っていて、
何と比べて自信を卑下して、
どんなものになろうとしているのかすら、

わかっていないのが現状です。

ここでもう一度、木村さんの言葉を引用すると、

自意識過剰でどうしようもない僕に対して、なにか言ってやれることがあるとすれば、「いま自分がやれることを思いっきりやってみる」ということにつきます。
(記事より引用)

「いま自分がやれることを思いっきりやってみる」

本当にこれしか、ないんだろうなあと。

ここでとても大切なのは、「自分がやれること」を「思いっきりやってみる」ということ。

「自分がやれること」ってなんだろう。
「思いっきりやってみる」ってなんだろう。

ここを考え続けて動き続けることが大切であって、自分が比較すべきは、SNS上の他人ではなくて、「自分がやれることを思いっきり」やり続けた将来の自分なのかもしれないな、と思い当たりました。

それを考えたときにようやく、悩んで立ち止まっている自分は違うし、ビビって踏み出せない自分も違うなと思えてくるような気がします。

これってすなわち、「自分の敵は自分」ということであって、SNS上の他人との比較の果てには、ヒントはあるかもしれないが、答えは存在しないということだ。

苦しくても、最終的に向き合わなければならないのは、じぶん。

他人と比較して苦しむより、自己と向き合って苦しむほうが、きっと夢中で楽しくなれる。

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