見出し画像

146/* 愛を以って向き合うならば。

大人になるということは、待つ力が期待されるということだ。

失敗を経て成長していくことを、
過ちを認め大きくなっていくことを、
人が成長していく様を。

口を出したくなる気持ちをぐっと堪えて待つ力が期待されるということだ。

人は誰だって都合がいいから、自分の過去を美化して記憶にとどめたがる。そして、他人に当てつける。でもね、そもそも親友だろうが恋人だろうが家族だろうが、人と人とは違っていいんであって、それを自分の価値観に当てはめて、罵倒したり、詰ったりするのは、違うんじゃないかな。

小さな女の子の命が、虐待という悪意に曝されて失われるという事件がありました。その真実はあまりに残酷で、決死の覚悟で絞り出された小さな苦痛が、大人たちの事情や価値観という型に嵌められてしまったと考えるにつれ、痛む胸に拍車がかかります。

僕が思うに、加害者である父親に足りなかったのは、「待つ力」だったんじゃないでしょうか。子どもの失敗や過ちも、それを経て少しずつ成長していくその姿を、彼は待つことができなかった。だから、自分が今まで築き上げてきた価値観に必死に押し込めようとして、自分が積み上げて来たプライドを守ろうとして、彼自身が許されようのない過ちを犯すことになってしまった。

僕自身も今に到るまで、数かぎりない失敗や過ちを繰り返して来ましたが、今こうして何の悔いもなく前に向かって歩いていられるのは、僕の成長を待ってくれる人たちが周りに沢山いたからなんじゃないかと思います。

「待つ」というのは、優しさでもなんでもありません。叱咤激励、喜怒哀楽、さまざまな感情が入り混じっても、ぐっと堪えられる力。叱ってもいい、手を取り合っても、時に目を背けたっていい。それでも、誰かを信じて待つことができるのであれば、その関係に未来はあるような気がするのです。

大人である以上、社会人である以上、常に答えを出すことが求められます。暫定的でも、生半可でも、とにかく答えを急かされることがあるでしょう。長く長く考えて、悩んで、報われないと嘆いて、時に姑息な生き方に憧れてしまうこともあるかもしれない。それでも、誰かに愛を以って向き合おうと決意したのであれば、待たなければいけないんです。堪えなければいけないんです。

それができないのであれば、人は人の上に立つべきでないのかもしれません。

サポートいただく度に、声をあげて喜びます。