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それは単に性格上のものではなく願望あるいは想像からという話

それは壮大な地図の補完と共有、ついでに。

3月某日。
ハノイ市内の飲食店が一斉閉鎖するなんてまだ知りもしなかった頃。
Anzaki先生と対談の機会を得ることができた。

今回の対談場所であるやんちゃKimMa店に入ったのが平日の19時ちょうど。この時、まさか閉店時間(22時)まで3時間しっかり喋り倒すなんて予想もしていなかった。

ちなみに、一体何故やんちゃなのか。
単純に個室があることもそうだが、最大の理由はこの記事の冒頭で触れられている"いくら煮卵"がどんなものなのか、気になって仕方がなかったからだ。
結論。神がかり的に美味かった。
いくらx鶏卵という"たまご"界の両雄によるタッグ。塩分濃縮特化であるはずのそれをちょい乗せのワサビが絶妙にフォロー、口当たりがくどく感じないように工夫がなされていた。
席について速攻でビールと同時に注文したのは勿論、最後の締めの炭水化物(Anzaki先生はカルボナーラうどん、私はガパオライス)と同時に再度注文した。挙げ句の果てには、帰り際にスタッフに「誰があのメニュー考案したんだ」と尋ねた。「うちの日本人です」との回答。只者ではない(何が)。

話を本題(物書き同士の対談)に戻そう。
Anzaki先生とはお互いの執筆体制やこれまでの投稿記事など、途中何度か話の掘り下げをしつつ語り合った。恐らくどの件も単独で記事にできる位には話を膨らませていたと思う。

その中でも、大きな気付きのあった一幕がある。
お互いの作風について話していた際、「案山子先生は自分の身近な人の事大好きですよね。"記憶の記録"シリーズ読んでると特にそう感じますよ」との評を頂いたのだが、「いや、厳密には、少し違うんだ」と、その心の内を明かすことになった。

実は私は、どちらかと言うと他人に対する関心や執着が薄い(と思っている)。"記憶の記録"シリーズを書き始めたきっかけも、自分にとってかけがえのない大事な人への感情や記憶といったものを書き出して、かつそれを記録するためだ。より深く、より永く、その人を好きでいられるように。

この流れから私達が気付いたのは、「作者自身の性格と作風は必ずしも一致しない」という一つの真理(?)だ。

例えば、1人の小説家がいたとする。どの作品も、弱きを助け強気を挫く勧善懲悪な物語を描くのが得意だとする。この時、その小説家は作風通りの人物像なのかどうかと言えば、答えは「どちらも考えられる」。
いや、厳密には以下の3通りが考えられ、かつ他にもあるかもしれない。

①自身の性格や価値観がそのまま作風に表れている
②「自分はこう有りたい」という心の内の渇望が作風に(ry
③「もしあの時こうしていたらどうだろう」という実体験のifが(ry

つまりこの小説家は実際の人となりも歩く正義感かもしれないし、本当はおとなしいけど内に秘めたものがあるかもしれないし、過去に勇気を振り絞れなくて何か苦い経験をしたかもしれないし、あるいは全然違う何かがあるかもしれない……という。

なお、これは文章以外にも当て嵌まるとは思う。

思わぬ発見に驚かされたり、頭の中でとっ散らかっていた情報や記憶が整理されたり、こんな有意義な時間はなかなか無いかもしれない。
次回は他のNote作家も誘ってみたいところだ。@1~2人くらい誘ってもいいだろうか……?

#雑記  #独り言 #海外生活 #ベトナム #ハノイ #記憶の記録

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