【社会問題を"教材"で終わらせないために】

世の中には様々な社会問題があり、そのことについて私たちは報道や勉強会などで「学んで」いる。学生達はそれらを学校でも「学んで」いる。私も大学で「教えて」いる。社会問題を「学ぶ」あるいは「勉強する」という行為は果たしてどれほどの意味があるのだろうか。そう思ったのは、問題を知っている自分の当事者意識の薄さに気が付いたからだった。

鑑賞される悲痛な歴史

先日シリアについて難民支援をする方からお聞きした時、私の住むカンボジアで起きた内戦の状況と重なることが多々あった。内戦は1国の中で行われているわけではなく、他国の支援を得て続いているのである。人々は、カンボジアで起きた事実を後から「歴史」として「学び」、心を痛める。自分は、知らなかった、なぜ知らされなかったのか、二度と繰り返してはならないと、資料館に訪れる「観光客」は感じるのだ。

私自身も例外ではなく、その一人であることに気がついた。様々な戦争資料館で勉強し、私は、平和ボケをしていた。

そうだ、シリアは現在進行形だ。

戦火がなく、暴力のない状態を平和の中でも、「消極的平和(negative peace)」という呼び方をされることがある。これに対して、国際協調と調和がある状態を示す「積極的平和(positive peace)」という。

平和ボケしていた私は、具体的にいうと消極的平和ボケをしていたのだ。シリアでまず求められているのは、暴力を止めることだ。では、シリアから遠くにいる私はこの問題にどう向き合うのか。戦火にいない私は、地球市民として積極的平和に向けた活動をしたいと考えた。

地球市民を知るきっかけとなった平和維持活動

私がカンボジアを知ったのは、おそらく1992-1993年に日本が「平和維持活動(PKO)」に参加して民主的な選挙の実施に関わった頃からである。文民警官、国連ボランティア、国連職員として、多数の日本人がカンボジアに向かった。なぜ外国の内戦に日本が行くのだろう?これからどうなるのだろう。中学生の私は不安ながらも強い関心を持ってみていた。「日本はまた戦争に行くのか」「戦地に人を送るな」という批判が多くあった。

私はその時、「カンボジアのような国で平和教育をしたい」と思ったのだ。

カンボジアの大学での平和教育

そして、今カンボジアの大学で経営学を教えている。

カンボジアの学生には経営学の中で、過去の経済関連データを見せ、平和であることが及ぼす経済への影響についても触れることがある。データで見るとわかりやすいくらいに急速に経済発展をしている。そして、輸出品目も変わって行く。

学生から面白い質問が来る。

「なぜあなたは給料の低いカンボジアにわざわざ来たのですか」

それはね、と、平和維持活動に参加した日本人のことをあげる。そして、その中で一人、名前をあげる人がいる。国連ボランティアとしてカンボジアに向かい、銃弾に倒れた当時25歳の青年、中田厚仁さんの話だ。

「誰かがやらなければならないことがあるなら、僕が行く」

彼はそういって、当時はもっとも危険といわれたコンポントム州に行ったそうだ。

中田厚仁さんは、ご家族の仕事の都合でポーランドで過ごした時期があり、そこでアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所を訪れたことをきっかけに平和に関心を抱き、国際連合で働くことを希望したという。

そして、中田厚仁さんのカンボジアでの活動をみた私が、今度は国際連合で働くことを希望したのだ。中学生の私にとってはかなり高額な国連の本を本屋で買ったのが記憶に残っている。

結果的には、私は任期が決まっている国連ではなく、カンボジアの現地での直接採用という方法で、現地に長く携わることにした。


中田厚仁さん他界から25年目のカンボジアの平和

2018年、カンボジアは総選挙を迎えた。最大野党が最高裁判所から解体を命じられ緊張感はあったが、選挙では暴力は起きなかった。中田厚仁さんがなくなってから25年たち、私は中田さんの石碑のあるお寺で「平和になりました」と報告したのだ。

中田さんがご存命であれば、今彼は何をしていただろうか。当時、中田さんと一緒にカンボジアの選挙で働いていた方と偶然お会いする機会があった。その方は今でも世界の選挙に携わっている。その方は、中田さんのことをこう振り返る。

「彼は『僕は世界平和のために働いてるんです』と純粋な笑顔でいうんです」

多数決と思考停止

先ほど民主的選挙という言葉を出したが、授業でのチームワークも規模さえ違うが、本質的には同じことが起こっている。カンボジアの学生の発言を見る限り、民主的という言葉が「多数決」に置き換えられているような印象を受ける。

多数決をするためには、意見を出して、そこで上がったもので多数決をする。しかし、どういう意見が上がっているのか、その意見自体には多様なものが出ているのか。「優秀な」一部の人の意見で、即決定されていないだろうか。

国のリーダーは国民から選ばれていることが多い。歴史的にはそれが独裁者あるいは歴史的犯罪者として扱われるような人物であっても選挙で選ばれることがある。そして、リーダーは常に「優秀」なものから選ばれるのである。


授業の中での積極的平和

私は自分の授業を振り返ると、グループワークがとても多くある。これはカンボジアではまだ珍しいスタイルだ。なぜグループワークをするのか。

他の学生がいてもいなくてもいいような授業や一人優秀な人がグループにいれば、その人に任せておく方が楽で良い点数を取れる授業の仕組みに私は疑問を持っていた。優秀な人がいると、他の学生は声を上げようとしなくなる。本当は、もっと意見は出てくるはずなのだが、思考停止しやすいポイントである。

グループというただ集められた集団からチームになって行くと、摩擦は起こる。その摩擦を避けて何も言わない、臭いものには蓋をするという状態では、チームに参加している人たちの存在は無視されてしまう。

授業の中で、積極的平和を作り出すためには、摩擦が起こるようなシーンが必要となる。摩擦が起き、その後に協調、そして調和して行く

消極的平和から積極的平和へ

そこをしないままに「揉め事はいけない」というところで思考停止するのはどうだろうか。問題は常に起きている。社会問題をただ教材として鑑賞するだけでは、消極的平和の現状を追認しているに留まってしまう。

教室からできる積極的平和がある。そして、その範囲を徐々に広げて、国際的な積極的平和を実現したい。競争力よりも共生力を身に付ける教育が必要となっている。

まずは、それを自分から。





「誰もが自分の経験、知恵、学びをシェアできる世の中に。」というビジョンを持って、学びの場を作りをする資金に使わせていただきます!