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推し、燃ゆ/宇佐見りん【読書メモ】

2024/7/15 読了
地元の図書館で借りた

感想メモ

芥川賞受賞作品。 受賞当時から話題になっていたこともあり、ずっと読みたかった一冊でした。
私自身も「推し」がいる身として、「推し」という概念をどのように純文学として落とし込んでいるのか気になっていたのですが、なるほど読んでみるとこれは芥川賞。(語彙力)
タイトルだけ見た第一印象とは大きく違う作品でした。

きついまぶしさで見えづらくなった画面に0815、推しの誕生日を入力し、何の気なしにひらいたSNSは人の呼気にまみれている。

(p4)

とか

向かいのラーメン屋の濃い豚骨のにおいが夜風とともに入ってきて

(p45)

とか 「SNSが盛り上がっている」ことと「扉が開いた」という描写をこんな表現で描けるんだなと驚きました。

「推し」とはなにか

だけど推しを推すことがあたしの生活の中心で、絶対で、それだけは何をおいても明確だった。中心っていうか、背骨かな。

(p37)

推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。

(p112)

わかる。わかるぞ。
「推し」がいる人すべてが主人公のあかりに共感できることはないと思います。(人には人の推し活)。
他の方のレビューを眺めていると、あかりに対して「自分とは違う」とか「全然理解できなかった」とかの感想もあって本当に人それぞれだなと思いました。
でも私個人としては、あかりの推しへの向き合い方やコンテンツの見方は自分とよく似ていて、なんだかやはり重ねてしまうところがあります。
自分の「推し」が炎上する一件がこの物語の発端ではありますが、ストーリーの中で「推し」とあかりの人生が交差することはありません。 「推し」と繋がった友達とは対照的です。
こちらの人生や生活や環境が少しずつ変わっていっても、それが「推し」の人生に関与することはないです。残酷なほどにね。 こちらはこんなにも「推し」の一挙一動に人生が動かされているというのにね。

ただ、わからないなりに、それが鳩尾を圧迫する感覚は鮮やかに把握できた。これからも推し続けることだけが決まっていた。

(p23)

私もまだ覚えているぞ。この感覚を。私の鳩尾にインタビューでもしたのかしら。

愚問だった。理由なんてあるはずがない。存在が好きだから、顔、踊り、歌、口調、性格、身のこなし、推しにまつわる諸々が好きになってくる。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の逆だ。その坊主を好きになれば、着ている袈裟の糸のほつれまでいとおしくなってくる。そういうもんだと思う。

(p29)

やっぱり私の鳩尾にインタビューされてたみたいです。
芥川受賞作家にこんなことを言うのも愚の骨頂ですが、オタクの感情と行動の言語化がうまい。

「意思」と「肉体」、「重さ」

あかりはいつも「重さ」を感じています。

寝起きするだけでシーツにしわが寄るように、生きているだけで皺寄せがくる。誰かとしゃべるために顔の肉を持ち上げ、垢が出るから風呂に入り、伸びるから爪を切る。最低限を成し遂げるために力を振り絞っても足りたことはなかった。いつも、最低限に達する前に意思と肉体が途切れる。

(p9)

あかりは「例外」に対応することが苦手です。 「推し」の炎上も、あかりにとっては人生の「例外」であり、自分の「背骨」を揺るがす「例外」なのです。
「意思」と「肉体」の分断についてももっと掘り下げていきたいけどタイムアップ。
高校生のころたまに保健室で過ごした自分に少し重なるような気がしたりしなかったり。 お姉ちゃんのひかりにも共感できる。ひかりから紡がれる言葉は私の言葉のようでドキッとします。 思うに私の中にあの姉妹が共存している。

最後に

きっと十代の頃にこの作品に出会っていたら私は人生の一冊にしていただろうし、中高生の頃に出会っていたらこれで原稿用紙何十枚という読書感想文を書いていたと思います。
あかりはどうしても過去の(現在も?)自分に重ねてしまうし、あかりを批判するような、馬鹿にするようなレビューを見るとちょっとだけ胸がきゅっとなります。
「推し」を推すことが重なるのではなくて、あかりそのものに自分を投影してしまいます。
私にとっての背骨になりそうな作品でした。

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