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25歳になったら、人生めちゃくちゃ楽になった。

年取って人生が楽になった気がするんですよね。」

よくトップ女優さんが女性誌のインタビューで使用するこのセリフ。

25になるまではまったくの他人事だったのが、25を迎える今年になって、ようやくじわじわと自分の中で腑に落ち始めた。

今日は全然そんなわけないじゃん!と思っていた過去の私に向けて、25歳になった私がこのエッセイを贈る。


25歳ってどんな歳?


よく20代という括りで語られるものは多いが、(20代でやっておきたい10個のこと、等)意外と25という歳は注目されない。

せいぜい、アラサーと呼ばれるのは何歳からなのだろうか?と本人が思考を巡らせるぐらいである。

私にとっての25歳は、社会人3年目を意味している。18歳で大学に入学し、22歳で卒業、社会人になる、という至ってストレートな人生がゆえに。

今思い起こしてみると、24歳まではどこか年齢や社会年次というものが頭から離れていかなかった。

私は人一倍自意識が強い人間で、「今この歳のうちにやっておかなきゃ!」とよく思うタイプだった。

そのうちのいくつかは間違っていなかったが、そのうちのいくつかは呪いになった。

そう、「この年でそんなことをするのは恥ずかしい」という呪いだ。

先ほども言ったように、いくつかは合理的な理由から正しかった。

例えばコスプレや、派手なメイク。

私は自分の容姿が好きなのに自信がないという面倒くさい人間だったのだが、自分が着飾った写真を撮るのは好きだった。

そんな私の容姿をある程度好いてくれていて、かつ自分と似たように着飾った写真を撮るのが好きな親友に恵まれ、さまざまなコスプレをしたし、その時は好きなだけ自分が可愛いと思うメイクを堪能した。

いわゆるギャルメイクというほど濃くはないが、つけまつげをつけたり、着色直径の大きな派手なカラコンをしたり。

だがしかし、今年の春頃に事件は起こった。

その時ほど派手なメイクをしているわけではないのだが、なんだかどうも、使用しているカラコンに違和感があるのだ。

大学4年間使用してきた、自称これがないと生きていけないカラコンが、なんだか似合わない。


「え、こんなのっぺりして見えるものだったけ?」

試しに、昔買ってはみたもののナチュラルすぎて使えんわ、としまいこんでいた別のカラコンをつけて着ると、なんだか以前よりしっくりくる。


「えーーーー、こんなことあるんだ」


少し驚きながらも、理由を考え、まあ、普通に顔が変わったからだろうな、というのが自分が出した結論だった。

そういえばこの頃自分の顔が変わった?と思うことが多かったのだ。

いや決して悪いことばかりでなく、どちらかといえばさらに綺麗に垢抜けたと言ってもいい(自分で言うなという感じかもしれないが)

すっぴんのクオリティが10代後半から明らかに上がっていた。

目は大きくなって二重もしっかりして、顔の肉が落ちて丸顔から卵型に。

昔は「自分の目、小さいな〜、化粧でどうにかするか〜」と思っていたのだが、なんか今は平均より目がデカイなと思う。

というか自分が思うだけではなく明らかに周りにもそう言われるようになった。

これはおそらく、「アイプチしてたら二重になってた」のピボットバージョンと言えるのではないだろうか。

これまで私は目が大きくなるようにと、日々かっさでマッサージをするような人生を送ってきたのだ。

逆にいえば目くらいデカくなってもらわないと困る。

即効性のある変化ではなくとも、加齢などの事情ともマリアージュして、気づいたら自分の顔がより自分好みになってきたのだ。

まあ、つまり何が言いたいかというと、顔は変わる。

整形などしなくとも様々な要因でよくも悪くも顔は自然に変わっていく。

そして多くの人は、濃いメイクやデカいカラコンは若いうちの方が似合う可能性が高い。

なぜなら、加齢によって顔が伸びて大人っぽくなることで大きすぎる黒目は違和感を生み出すし、派手な色合いはしっとりとした大人の肌だと浮いてしまうから。

もちろん日々の努力で自分に似合うモノや方法を見つければ、加齢にとらわれる必要などないかもしれないが。

別に似合わなくても自分が好きな格好してるのだ!と思える方は全然そのままでいいと思う。

だが私の場合は、あくまで目的は美しい自分を見るためなので、せっかくだから好きな格好が似合いたい。

だからそれらが似合ううちに気が済むまで経験しておいてよかったなと思う。

これからもその時の自分に似合う最高の美しさを追求しながら緩やかに老いていきたい。


他人基準から自分基準に


さっきからの話とも繋がってくるのだが、まさしくこれが一番の変化だと言えるだろう。

私は「最高に美しい自分が見たい」と言ったが、「見せたい」ではなく「見たい」なところがキモなのである。

一般に10代というのは自我が芽生え、そして社会的比較が活発になる年代。

自分の可能性をもっと試してみたいと自分に期待しながらも、他人と比較することで落ち込みやすい時期とも言える。

そして現代の日本では否が応でもそんな環境を強いられる。

例えば勉強、例えば受験。そしてその次は就職だろうか。

矢継ぎ早に達成しなければいけないものを背負わされるし、そのベクトルに沿うために犠牲にしなきゃいけないものもある。

日々自分の「やりたい」よりも「やらなければならない」を優先しているのだ。

しかも、その「やらなければならない」はあくまで他人基準。

頼んでもないのに大人は比べたがるし、子供は素直が故に巻き込まれる。

25にもなればわかる。

それらはあくまでベクトルの1つにしかすぎないと。

別に高学歴・高収入だからといって幸福度が必ずしも高いわけではない。

まあでも比例している可能性は高いので、目指したいものがない人はとりあえず一度他人基準に乗っかってみることはアリだと思う。

そしていらないと思ったら手放す。

なぜなら、手にしないと本当の意味でいらないかどうか判断できなから。

自分の満足できるものを探すために、とりあえず、でいいのだ。

私がこの考えに至ったのは、最近「ミニマリズム」という概念に触れたから。

ミニマリズムとは「最小限を目指すために取捨選択して生きること」と言える。

最近もっぱら断捨離にハマっている私は、「捨てること」の大切さとその過程で見えてくる「価値観」に魅了されている。

モノは不安だから溜まるとよく言われている。

「もしかしたら使うかもしれないから・・・」と捨てられないのはそのモノが必要になった時に手元にないことに対する不安といえる。

でも私は、若いうちはポジティブな理由でモノが溜まることが多いことを主張したい。

そのポジティブな理由とは「何が自分に合うかわからないからとりあえず」。

自分にはこれは似合わないだろうな、とか、自分だったらお金出してまで買わないな、とか、そんな風に思うものを人から貰う時もある。

その時はそう思っていたものが、数ヶ月、時には数年の時を経て自分にしっくりきたりする。

はたまた人に貰ったから、という理由で捨てられないだけのものでも、整理している時に見つけ、自分がその当時愛されていたことを実感できたりする。

たとえば私にとっては高校時代にお世話になった里親さんから貰ったアナスイのネックレスがそうだった。

貰った当時の私は17歳で、お金がないなりに厨二病だったのでチグハグなファッションをしていた。

そんな私をキチンと見ていてくれ、なおかつセンスのいい里親さんは、誕生日の日、私の下校する時間に合わせてベッドの上にアナスイの袋を置いてくれていた。

憧れのブランド。心が躍った。

紫の石がキラキラと輝く蝶のネックレスは、宝物になった。

でもその時はもったいないからとつけられなくて、その後は今の自分には似合わないかなとつけなかった。

そしてついこの間、掃除している時にまた目が合うことになった。

一気に思い出が蘇り、気がついたら涙が頬を伝っていた。

それはしっかりとストーリーを帯びた、この世にひとつしかないネックレスだった。

少し壊れていることに気づき、自分なりに直して、そしてまたそっとしまった。

着ける日がくるかもしれないし、こないかもしれない。でもそれでいい。

いつかまたこのネックレスを手にした時の胸のあたたかさを未来の自分にも感じてほしいから、「とりあえず」持っておくのだ。

ここまでしっかりとしたストーリーがなくたって、その当時の自分にとってはいつか使うかも、似合うようになるかも、と期待を込めて持っているモノはたくさんあるはず。

そしてそれでいい。

アイデアにも拡散と収縮があるように、最初から絞ろうとするのではなく、最初はとりあえずでたくさん持つのが自然。

そして、時が来れば、収縮に入ればいい。

そうやって収縮の過程で向き合うモノは、自分という人間を教えてくれる。

自分の手の中にあるから、納得して手放すという過程を踏むことができる。

ないものは、手放しようがない。

そこには納得がない。

だから私は、他人基準で生きてしまう人は、「とりあえず」それで進んでみてもいいと思う。

でもそれがずっと自分基準と重ならないのであれば、きっと心なり体なりが教えてくれる。

それまではマジョリティに安心しながら、試行錯誤を重ね、自分基準が芽生えてきたら少しずつ手放してみる。

それが後悔のない人生なんじゃないのかなあと、25歳になった私なりの哲学だ。

25歳になってから楽になった 3つのこと


ここからは自分が実感した楽になったことを具体的に羅列していきたい。

死ぬほどどうでもよくなった男ウケ


異性愛者の女性ならば一度は悩むであろう、この問題。

結論から言うと、25歳にもなるとマジでどうでもいい。(※私の場合)

ここまでの過程はそこそこ汎用性があると思うので書き記していく。

①モテたことないからモテたい期

私の場合は中学〜高校がまさしくこの時期だった。

環境や年齢によって多少の誤差があるだろう。

いわゆる少女漫画や女友達との会話の影響で、自分のために彼氏が欲しいと思っていた。

要は憧れであり、理想である。

「彼氏ができればときめいたり幸せな気持ちになったりするんだろうなあ・・・」

と、想像上の彼氏という存在に思いを馳せ、めちゃくちゃ勝手に期待していた。

我ながら若くて瑞々しい愚かさがかわいい。抱きしめてあげたい。

まあ中学の時は厨二病を極めていたのでこれといってモテなかったが、高校デビューして「AKBにいそうだね(※褒め言葉かは人による)」と言われるような見た目になったおかげか、高校一年生の時に一個先輩の彼氏ができた。

諸葛亮孔明並みに策士だった当時の私は、わざわざ彼が通る場所でポニーテールをして待ち構えたりしていた結果、なんやかんやで見た目が好みだった先輩をゲットしたのである。

付き合ってから思った。

「現実甘くないなー」って。


いやもちろん当時の元彼が悪いわけではない。要は夢見がちだったのである。

相手もただの人間なのに、この世に存在しない「理想のカレピッピ」と比べて悲しむは怒るわでどっちかというとちょっと申し訳ない。

そして別れた後は「ビッチ」ってちょっとかっこいいな、と田舎の高校生によくありがちな性的逸脱を試みた。

まあ自分で言うのもアレだが、そこそこ男好きする顔だし、胸も豊満なJKだった私は、鬼のように膣モテする。

最初は自己肯定感が低くて「こんな私に声かけてくれてるのに断るなんて・・・」と思っていたので月に5回生理がくる女になったりしていた。

しかしながら転機は訪れる。

②真面目な交際の素晴らしさを覚える期

全員にあるとは言わないが、諦めずに付き合っていればいつか出会えるとは思う。

そう、自分を大切にしてくれる彼氏、に。

自分を大切にしてくれるとは、私自身という人間をしっかりと真正面から見つめ、尊重してくれる、そんな意味合いである。

私のことが好きだから。愛しいから。私に喜んでほしい。

独りよがりではない、対話を前提とするその尊重の姿勢は、私の心を潤した。

「そうか。自分が嬉しいのは不特定多数の異性から膣モテすることじゃない。自分の好きな人に大切にされることなんだ。」

開眼

当時若干21歳にして、愛というものを悟った。

③モテるのがしんどい期

ごめん、自慢に聞こえたらマジでごめん。

別に自慢ではないのだが、私自身は高校デビューしてからよくナンパもされるし、職場でそんな関わってない人から好意を持たれたり、ちょっと仲良くなった男の人に最寄駅で待ち伏せされたりすることがあった。

最後まで読んでくれたらわかると思うのだが、自慢ではない。
(そもそもナンパは自慢にはならないし、後者の2つは下手したらストーカーである)

ただ内容を鑑みて、そういう愚痴を言うのは基本的に自分と似たような経験をしている女性に限っている、普段は。

ただここであえて書かせていただいたのは、昔はモテたいと確かに思っていたけれど、実際モテてみると自分にとってはしんどかった、と言いたかったからである。

自分でも拗らせているなと思うのだが、私は当時の自分の見た目があまり好きではなかった。

どんな見た目かというと、暗めの茶髪ロングに少し濃いめのメイク、アナウンサーを安っぽくしたような服装。

なんで好きじゃないのにそんな格好をしていたのか?それは当時は自分にそれが似合うと思っていたから。

私自身、かなり女性っぽい丸顔(たぬき顔とか猫顔とか髪型によって見え方は違うっぽい)で、骨格はバリバリストレートで巨乳でムチムチ。

本当は憧れていたモードやトラッドなどの系統は、到底似合わないと思っていた。

まあでもここまで具体的に書かせていただいたからわかると思うが、男ウケはまあまあする。

いかにも自分でもいけそうなムチムチしたアナウンサーの下位互換みたいな女は、めちゃくちゃモテる男からは膣モテし、それ以外の男からは膣モテor本命モテする。

実際、黙っていれば男ウケには困らなかった。(※黙っていれば)

そしてここで胸に関しても持論を展開させて欲しい。

なんで貧乳って言ったらいけない空気はあるのに巨乳は言っていいみたいなのあるの?普通にどっちもセクハラぞ?

あと、巨乳って普通に肩こるし、年取ったら垂れるし、グラビアアイドルにでもならない限り、そんな得ないと思う。

そして昔から胸で興奮されるのに飽き飽きしてる私は、巨乳好きの男が普通に全員無理になった。(私にアプローチする場合は脚フェチかお尻フェチの設定でお願いしたい)

そんな胸で喜ばれたり興奮されたりしても、「え、それ巨乳だったら誰でもいいってこと?キモ」ってなるて。

あと貧乳であることを男ウケ目線で悩んでるみんなに言いたい。

胸がないあなたがいいって、ある意味究極の愛ですよ。

普通に生涯の伴侶だったら、胸で興奮する男より興奮しない男の方がよくね?多分浮気する確率も低いよ。

そう、話は戻るが、当時の私は自分で選んでその格好をしながらも「私みたいな容姿の女が好きな男キッモ!!!絶対女は自分より下であってほしいと思う割に自分が努力しようという意思は弱いしマザコンだしタバコ吸ってるし将来性ないだろ!!!」とクソミソに思うという矛盾を抱えていたのであるッ!!!!!

これでは将来の伴侶を見つけるどころではない。

まとめると、私がそんな見た目をしていたのは、最初はモテたいからで、徐々にそれしか似合わないだろうと思うようになっていたから。なのにそんな見た目の私に好感を抱く男が大嫌いだった。

チッチッチグハグ♪

だがここで「実は巨乳より貧乳の方が生涯伴侶見つけやすい理論」を思い出してほしい。

この理論を男ウケはするが自分の好きじゃない格好をしている私問題に代入すると、

実は男ウケのいい格好をするよりも男ウケするかはわからないが自分が好きな格好をする方が生涯伴侶を見つけやすい

と応用して解を出すことができるのだ。

まあ目的が相手の人格はどうであれ実家の太い三◯商事の男と結婚して、浮気現場を押さえて多額の慰謝料をゲットし、それを投資で運用して億り人になりたい、とかであればもしかしたら巨乳のアナウンサー系統をしたたかに目指した方がいいかもしれない。

まあでも私と同じように、相思相愛の生涯の伴侶を見つけたい、が目的なら、男ウケのいい格好をすることはもはやリスクとも言える。

(ここで誤解がないように言っておくが、これはあくまで私のように違和感がある人の背中を押すために言っていることであって、本人が望んでそういった女性らしい格好をしているのはとても素敵だと思う。)

そんなこんなで今まで述べたような理屈で自分を納得させ、私はついに自分の好きな格好を志すことに決めた。

まずは決死の覚悟で髪を切ることに。

中学生ぶりのショートカット。長澤まさみにしてください〜!!!!!

出来上がってみると、(まあもちろんまさみにはならなかったけど)想像よりもずっと似合っていたからもうびっくり。

切ってくれた美容師さんがうまいというのもあったと思うが、「なんで今までしなかったんだろう!」と思うくらいには似合って見えた。

そしてとてもワクワクした。

本来の自分に一歩近づいた気がしたから。

皆さんも経験があるかもしれないが、髪を切ると新しい服が着たくなる。

ちょうどミニマリストを目指していた私は、これ良い機会にと、クローゼットの中を整理し始めた。

毛玉だらけの服、通販で買ってみたけど意外と似合わなかった服。もう着たいと思えなかった服。

その一着一着にお礼を言い、やれメルカリだのやれリサイクルショップだのに持っていった。

空いた隙間を埋めるように、より自分に似合う、運命的な服が欲しいと思った。

ネット通販などでの安物買いの銭失いは止めよう。

セールだの広告だの、冷静になってみれば、どこかの会社員が考えた販売戦略に踊らされているのだ。そりゃ疲れるさ。

毎日違う服を着なきゃいけないわけじゃない。

究極的に言えばめちゃくちゃ臭くて小汚くなければ他人に迷惑などかからない。

これからは自分の好きなように生きよう。

25歳になる今年、ようやくそう思えた。

本当に必要な情報って、実は少ない


SNS、百害あって一利なし

皆さん、SNSやってますか?

かくいう私は、学生時代は「あのTwitterの!」と言われるくらいSNSをどっぷりやっておりました。

そんな私、なんと齢25にしてSNSやめました。

まーーー、周りから「まさかあなたがやめるなんて!」と言われまくり笑

自分でもそう思うけど、実は結構昔から「25歳までにSNSやめたい」と連呼してた。

正直社会人になったらやめようかなと悩んでいたけど、仕事柄、流行を追ってた方がいいかな、とズルズルと続けてた。

あとぶっちゃけ、フリーランスとかで活動するのにSNSあった方が便利かな〜とか。

でもまあいったんやめてみよう、と思ったのは以下の理由から。

①社会比較の源泉掛け流しだから

さっきも少し話に出したけど、社会比較っていうのは、要は他人と比べちゃうってこと。

これは本当に様々な研究で人間のストレス要因になることが明らかになっている。

SNSを開けば、自分より優れている人、いい生活をしてる人・・・正直キリがなさすぎる。

私の場合もやっぱり良くない刺激を受け取るなーと自分でも気づいていたものの。

でもやめたらSNSで繋がっている人と関われなくなるかも・・・

それは寂しいしなー・・・

と、文字通りズルズルズルズル・・・

してたんだけど、まあアカウント消すのはやりすぎだけど、ひとまずアンストしてみようかな?と思い立ち、やってみると案外平気。

クセになってただけだったんだなと実感した。

ちなみに、自分が親しいと思ってる人は普通にLINEなどで連絡をくれたのでSNS開いて「自分って友達少ないのかな?」と刺激されていた時よりなんなら孤独感は減少することに!

その時に「あ、もう本当にこうやって話せたら十分だな。むしろ大して仲良くない人がどうしたとかどうでもいい情報に刺激受けてたんだな。」と改めて痛感した。

同じ「結婚した」でも、知人程度の人なら焦るけど、友人であれば心の底からおめでとうと言えて、こちらも幸せになる。

そういう違いがあるものだなとしみじみ思うよ。

②受け取る情報量を減らしたかったから

①の理由とも少し被るけど、こちらの理由も大きい!

ミニマリストの考え方に触れるようになってから、自分が刺激に敏感なタイプだと改めて思うように。

巷ではHSPと言われていたりするものとも近いかも。

意識していなくても外からの刺激に反応して疲れちゃう自分がいたので、なら刺激を減らせばよくない?と思い立ち、

部屋の中はとにかく捨てるなり隠したりシンプルにして、必要以上に情報を受け取らない工夫をしたり、

ノイキャンのイヤホンをつけて生活したりなど、とにもかくにも自分の生活の至る所をシンプルにしていった。

その結果、SNSなどは情報量が多すぎて刺激が強いから自分の健康に良くない、と思い切ってやめることができた。

情報収集が結構得意な方だったけど、それもなかなか限度があるな、疲れるな、と思っていたのでちょうどよかった。

欲しい情報があれば検索したりして見つかる時代に、わざわざ情報に晒されにいく必要なんてない。

わからないことや知らないことは素直に「なにそれ〜?教えて!」で気軽に生きていきたい。

あとSNSではないけど、いらないのに受け取っていたメルマガは全部配信停止した!

なんやかんやでそういうものを処理するのにも意思や時間を使うからね。

「よかったら見てください」もチリツモで刺激の暴力になりうるってことを学んだ。

年齢という数字にとらわれる無意味さ


「年齢はただの数字!」

とどこかの誰かさんが言っていたが、全くその通りだと思う。

マジでただの数字だから気にしない方がいい。

そう思えるのに私は25年かかりました。

なんでかと言えば、これまでは年齢によって人生のステージが区切られまくる生き方をしていたからだと思う。

たとえば義務教育。

義務教育に留年って概念ほとんどないし、高校ですらやっぱり留年ってイレギュラー。

長い人生で言えば別に1年や2年ずれたことでなーーんにも影響なんてない。なんていう広い視野は当事者の子供はなかなか持てないもの。

あと基本的に周りの大人も騒ぎすぎだと思う。

大学生くらいになるとだんだん状況も変わってくる。

いわゆる浪人生(1浪なんてたくさんいるし、なんなら2浪も3浪もいる)や、留年もわりと身近になってきて、相手の時空が歪んでても「へえ」で終わる。

社会人になるともっとそう。

医学部を中退して29歳の同期がいたり、博士号を中退して27歳の同期、当たり前のように院卒の同期は24歳。

もうちょっとやそっとのズレとかどうでもいい。

一応社会人年次という概念があるけど、歳が近くて本人同士が仲良くなればもうそんなものはごちゃ混ぜ。

そういう意味では義務教育よりは社会の方が楽かも。

海外ではギャップイヤーが当たり前にあるし、20代後半で大学に行く人も、全然いっぱいいる。

そもそも飛び級だってある。

こんな規定通りの教育がもてはやされているのは日本くらいのもの。

それって子供のためじゃなくて管理する大人側が楽だからでは?と思うのは邪推なのかな〜!

たまに◯◯歳まで、みたいな求人とかあるけどシンプルにナンセンスだよね!

たとえば30歳までの求人だとして、26歳で全然能力のない人間を採用するより、31歳の能力がある人を採用する方がよっぽど合理的じゃない?

同じことは恋愛でも言える。

31歳の自分と相性のいい素晴らしい女性よりも、26歳の自分と全く合わなそうな女性を選ぶような男、シンプルに見る目ない。

要は年齢はあくまで参考にする数字ではあっても、本質を示してはいないということ。

年齢という自分ではどうしようもないことにいちゃもんつけてくるナンセンスな社会や人間はグッバイ!って感じ!!!

もちろん子供が欲しい、というのであればできるだけ若い方が、とかいう人もいるでしょう。

平均的にはそうだけど、人間は数字や平均では割り切れない複雑な生き物だと私は思う。

実際にこういう話もあって。

よく事故が起こるヘリがあったから、その要因を調べたら、全てのパイロットの平均値のサイズで作ったそのヘリは、パイロットの誰ともフィットしてなかったことが原因だったそう。

たとえば、160センチの人と180センチの人に170センチの人向けのものを使ってもらうようなもの。

平均値は数字のレトリックのようなもので、実際には存在しない誰かのためのものかもしれない。

数字は確かに共通言語として有能だけど、人間を数字ですべて表せると思うのはとんだ傲慢だと思う。

誰かの作った平均値になんて踊らされないで、目の前の人に真摯に向き合っていくことでしか本質的な判断ができないと思うのは私だけかな。

まあ言うが易しで、実際にそれができる人はほんの一握りだから、もしできない人間に何か言われても決して落ち込まないでほしい。

それはその人が思考停止してるだけだから!

最後に


たくさんたくさん吸収して大人になる。

赤ちゃんだった頃は受け取る情報を取捨選択することはできなかったかもしれないけど、25歳になったらちょっとずつできるようになってきたかもな。

25年も生きたんだから、自分のことは少しはわかるようになってきたはず。

いらないもんは納得して手放そう。

ビバ!25歳!







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