コロナ禍で感じた価値観の変化

正確な時期を図ることはできないけど、令和に入ってからうっすら感じていた時代の変化がこのコロナ禍の一年でさらに大きく表れてきたと思うので覚え書き。

まず、他人の目を気にしないことが多くなったっていうのが個人的に感じた一番の変化。

私は今20歳で、令和元年には18歳の大学一年生だったので、環境の変化がもしかしたら大きいかもしれないけども。

それにしても、大学入学当初は世間からの見栄えや人から見たときの表面の良さを大事にしていた。うっすらと、個性が評価される時代になりつつあるのを感じていたから、他人に「普通」扱いされたり「無個性」扱いされるのが怖くて、薄っぺらい個性を必死で演出していた。俺は人とは違うんだぜ的な。

でも、コロナ禍になって、誰とも会わなくなって、人との新しい出会いもなくなってしまった。

誰がどこで何をしているかも、何を考えているかもSNS以外ではわからない世の中になってしまったから、見栄えなんて気にする必要なくなった。

そんな社会になって、良かったことと悪かったことがある。

良かったことは、私がどこで何をしていようが誰の目にも入らないし、誰も気にしないので、足を止めて自分と真剣に向き合うことができたこと。だって皆何もしていない(というかできない)のが普通だし、とりあえず動くか!と思って動きまくっていたのを強制的に止められて、部屋の中で思考することしかできなくなった。それによって、アウトプットや行動だけでは得られないものや気づけないことを沢山手に入れられた。誰も見てないから、忘れかけてた本当に好きな物にも正直になれた。

反対に悪かったこととしては、誰にも注目されないから、世間体のためにやっていたことは全てやめてしまい、自分が何も持っていないことに気づかされた。コロナ以前から自分の好きなことを貫いていた人は、ちゃんとそれなりに評価される世の中に、気づけばなっていた。

私が恥ずかしいから封印してきたものや否定されてきたものの一部は世間の常識になっていたし、同じものを同じ時期に見て同じことを感じ、そして私とは違って自分を貫いた人が、何かを生み出し尊敬されている。

所詮、私の個性なんて後から塗りたくったメッキみたいなもので、雨にさらされればすぐ剥がれてしまうだけなんだって悔しかった。

しかもそうした本物の個性は、生まれつきの才能か相当な努力でしか得ることができない。前者は、個性そのものの才能もあるし個性を隠さない才能という意味でもある。後者は、別に性格や才能にものすごい特徴がある訳ではないけど色々な才能を少しずつかけ合わせて個性を作り出している。

つまり、本物の個性を出すには自分にとことん素直になる必要がある。他人を気にしない、自分の価値観を信じる強い心も。

そしてその素直さを世界は評価するようになってきたなあと思う。

コロナ以前にベビーシッターのバイトをしていたのだけど、すごく元気が良くて姉弟と思えないほど個性的な小学生三人から学校の話を聞きながら、私の小学生の時と比べ素直さと各自の個性を評価するように変わってきているんじゃないかなあと思った。あくまで話を聞いて感じただけの主観だけど。

私の小学校時代にもそんな世の中だったらよかったなあと思いつつ、やっぱり自分のシャイでへそ曲がりな性格的に段々と自分の個性を隠してしまっていたのかもとも思う。

そして第二の変化として、世界がより合理性を重視するようになった。

これまでの人間の生き方ってちょっと不思議で非合理的な面も多かったけれど、コロナで全てがインターネット上で行えるとわかった今、それぞれの個人の最大公約数の幸福をより追求するように、制度が技術に追いついてきた。はんこ廃止なんかはその代表例だよね。

ただ、非合理的な行動によって生まれていた偶然の出会いなんかはなくなってしまって、それは人生的にはすごく大きな損失だと思う。これは、ネットが代替するのか、それともこれからこうした偶発性を目的としたオフラインのものがあえて生み出されるのかはこれから注目したい。

インターネットで何でもできる今、本当の意味で性別や年齢や国の境目がなくなってきているのではないかな。そして、人類に普遍的な物がますます見出されるんではなかろうか。

今日、大学一年生でアフリカに行ったときの写真を見返していて、「なあんだ、皆文化の違いなんて感じないほど根本は同じで、しかもここの人達の方が幸せじゃん」と現地で感じたのを思い出した。

「ひねもす片手はオンライン 全てはWiFi次第 かくいう生身はオフライン」という東京事変の歌詞が印象深い。


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