見出し画像

物語をつくってみたい

「物語をつくってみたい」という思いが、年齢を重ねるごとに、膨らんでいるような気がする。このまま膨らませ続けたら、いつか弾けて、自分が粉々になってしまうんじゃないかーーもはや最近は、そんな恐怖さえ感じる。

たったひとりの「おもろかった」が、宝物の記憶に

物語の作り手側に興味をもったきっかけは、正直覚えていない。ただ、小学校生活が折り返しを迎える頃には、私はすっかり妄想っ子だった。眠れないとき、校長先生の話が長いとき、母の買い物に付き合わされたとき、頭の中で現実離れした物語を繰り広げては、その世界観にどっぷり浸っていた。

はじめて頭の中を、ストーリーとして形にしたのは小学校4年生ごろ、国語の授業でオリジナル絵本をつくることになったときだ。私は何を思ってか、カマキリが主人公の絵本をつくり、先生に提出した。

提出した絵本は、次の授業で教卓の前に並べられ、「ほかの子の作品を自由に読みましょう」という時間が設けられた。私はいろんな子に自分の絵本が読まれる光景を妄想し、ひとりニヤニヤしていたものの、いざ蓋を開けてみると、カマキリの絵本は驚くほどに人気がなかった。横に置いてある猫やうさぎの絵本ばかりが、手に取られていく。

「そうだよなぁ、カマキリだもんなぁ……」

そんなことを思っていたら、同じクラスの男の子が、カマキリの絵本を手に自席に戻っていった。しかもその男の子は、読み終えた絵本を教壇前に返却すると、そのまま私の席の前に来て、「おもろかったで!」と伝えてくれた。

そのとき、私は動揺のあまり、ろくな返事ができなかった気がするが、とにかく「おもろかった」の一言が嬉しくて、体がぽかぽかしたのを今でも覚えている。たぶんあのときが、人生で初めて「自分作った物語で、人を楽しませられるのっていいな」と思った瞬間だった。

物語は「友人のため」から「自分のため」に紡ぐものへ

そこから、自主的に物語をつくったりはしなかったものの、自然学校での出し物や、友達の誕生日など、必要に駆られた際には、脚本や架空の新聞記事を書いたりしていた。高校では友人に笑ってもらおうと、授業中に短歌やポエムをしたためていたこともある。

学生時代の私にとって、物語は「友人のために書くもの」だった。誰にも読まれず、ただ自分のために書く物語は筆が進まなかったが、友人が喜ぶ姿を想像すると、いくら時間がかかろうと、楽しみながら頭の中を言葉に落とし込むことできた。要は、他人に喜ばれることこそ、私の物語を描くエネルギーだったのである。

しかし、大学生を経て社会人になると、「自分のためにも物語を描いてみたい」という思いが芽生えはじめた。日々仕事に追われ、プライベートの楽しみといえば、ご飯を食べるか寝るかの二択。そんな社会人生活のなかで、いつの日か、自分の人生に「何か」が欠けているような気がするようになっていた。

何かが足りない、でも何が足りないんだろうーーそう思いながら、日々を過ごしていたある日、SNSで同世代のアーティストを目にした。誰にも振り回されず、自己表現をして生活をしている彼女は、私の目にはとても自由で、その姿に純粋に憧れた。

そして気づく。「あぁ、私、何かを自分が思うがまま作ってみたかったんだ」と。私が人生に足りないと感じていたのは、何かを自分で作り上げる経験だった。

だからこれを機に、物語を書いてみようと思う。面白くないかもしれないけど、もしかしたら書けなくて「もう物語なんて書かない」と言い出すかもしれないけど、まずは一歩、踏み出してみようと思う。

そして、その物語は「柴田れな」という名前ではなくて、まったく別の名前で書くつもりだ。なぜなら、現実世界の私や仕事の私から完全に切り離して、物語を作ってみたいから。他人の目や自分の過去に縛られず、ただただ自由に、思うがままに、物語を紡いでみたい。

物語をつくるために。今後のお知らせ

だから、週2回で更新してきたこのnoteを、2月からは週1回で運用することに決めた。

更新頻度を保ちながら、物語も書く方法はないかと、2か月ぐらい毎日悩んだのだけれど、仕事もエッセイも物語も、すべてを両立できる未来がどうしても見えなくて、「こなすぐらいになるなら」と、泣く泣く出した結論だ。心の残りはあるけれど、後悔はない。

改めて、物語を書く名前は、ここでは公表しません。でも、ここではないどこかで、私の書く物語とみなさんが出会えることがあれば、嬉しいです。今後も週に1回となりますが、柴田れなのエッセイをどうぞよろしくお願いします。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?