ロシア革命――概要
この記事の内容は、様々な資料をもとに書かれています。
内容の中には一部ないしは全体を通して、資料に基づく偏見や誤りがある可能性があります。また、筆者自身による偏見や誤りがある可能性も当然否定できません。
できる限り公平かつ事実に基づいて記事を書きたいと考えていますが、この点を踏まえていただけましたら幸いです。
今回のテーマはロシア革命です。以前に別サイトで書いた記事の転載です。
ロシア革命前夜
1851年にロシアでモスクワとペテルブルクとの間に鉄道が開通しました。鉄道事業を開業したのはヨシフ・ギンヅブルク男爵という銀行家でした。
ギンヅブルク家はロスチャイルド家と繰り返し婚姻関係を結び、ロシアのロスチャイルド家と言われていたユダヤ系の大物金融資本家でした。
ギンヅブルク家の資金により、1891年にシベリア鉄道の建設が着工され、1916年にはハバロフスクに繋がる区間が完成し、シベリア鉄道が全線開通しました。鉄道ばかりでなく、ギンヅブルク家は金鉱開発や穀物事業などでも支配的な地位にありました。
ロシアのロマノフ王朝も、後の臨時政府も、ソヴィエト政府も、経済的に支援していたのはギンヅブルク家であり、ロスチャイルド家でした。
戦前のヨーロッパと日本ではロシア革命にフリーメイソンが関係していると言われていました。ドイツの政治家フリードリッヒ・ヴィクトルは『フリーメイソンと世界革命』の中で二月革命に関わった社会革命党のアレクサンドル・ケレンスキーはイギリスとフランスの援助を受けていたと指摘しています。
このなかでロシア十月革命を起こしたボルシェヴィキ政権の指導者だったレーニンも、またレフ・トロツキーやカール・ラデックもフリーメイソンのメンバーだったと記しています。
ヴィクトル博士を始めとする海外の情報を元に日本でもロシア革命はフリーメイソンによって起こされた革命だったという言論が敗戦まで論じられていました。
戦後に出版された多くのロシア革命に関する著作はこのことについて全く触れることがなくなりました。最近になって渡部昇一によって紹介されたヒレア・ベロックの『ユダヤ人』によってふたたび日本でも知られるようになってきました。
レーニンは1902年にロンドンでトロツキーと出会います。当時のレーニンはイスクラと呼ばれる地下出版物をロシアに密輸する活動をしていました。現在ロシア社会民主労働党と呼ばれている地下組織はレーニンを支持するボルシェヴィキと、マルトフを支持するメンシェヴィキとに分裂を起こしていました。当時のトロツキーはこの頃はメンシェヴィキとして活動していました。
レーニンが指導するより過激なボルシェヴィキにはルイコフやカーメネフ、ジノヴィエフといった革命家がいました。ヨーロッパで活動していたメンシェヴィキやボルシェヴィキのメンバーの多くがユダヤ系のロシア人でした。
後にソ連の権力を掌握するスターリンはユダヤ人ではなくグルジア人でしたが、フリーメイソンとして彼らと共に活動していました。トロツキーの著作を読むと、スターリンをあまり快く思っていなかったことが伺えます。
二月革命
ロシアの二月革命は国際女性デーにロシア政府に対する食糧配給に対する抗議から始まりました。5日前にペトログラード最大の産業プラントで起こったストライキがきっかけとなり、デモは女性を含む多数の労働者によって行われロシア帝政の打倒が叫ばれました。
これがきっかけとなりドゥーマと呼ばれる議会は臨時政府を樹立し、ニコライ2世に退位を迫り、更に弟のミハイル大公が皇位につくことを拒否したため、ロマノフ王朝が滅びました。
一方でこの時ロシアで活動していたメンシェヴィキは社会主義者を中心に評議会(ペトログラード・ソヴィエト)を作り、ニコライ・チヘイゼを議長とし臨時政府とは別に政権を樹立しました。評議会は主に社会革命党、メンシェヴィキ、ボルシェヴィキから構成されていました。
臨時政府はゲオルギー・リヴォフを首相にしましたが、陸海軍相に就任したアレクサンドル・ケレンスキーが兵士や労働者からの人気を得て実権を握っていきました。
二月革命が起こると、流刑地からカーメネフ、スターリン、ヤーコフ・スヴェルドロフらが、また一時ニューヨークでブハーリンと共に活動していたトロツキーがペトログラードに集結しました。
ヨーロッパで活動していたボルシェヴィキはカール・ラデック、ヤーコフ・ガネツキー、アレクサンドル・パルヴスがドイツと交渉し資金援助を得ることに成功しています。彼らの支援を受けてレーニンやジノヴィエフら一行は封印列車によってスイスを脱出し、北欧を経由してロシアへの帰国に成功しています。
二月革命の結果、それまで各地に散らばっていたユダヤ人革命家たちは、ペトログラードに集結し、ロシアを掌握するための準備に取り掛かりました。
七月蜂起
1917年7月1日にペトログラードで兵士と労働者によるデモが主催され50万人もの人々が集まりました。
7月中旬には臨時政府打倒を掲げるデモが発生しました。評議会では社会革命党とメンシェヴィキが臨時政府との協調路線を守ろうとしましたが、当初はデモを抑制しようとしていたボルシェヴィキはやがてデモ隊に押される形で臨時政府打倒へと傾いていきました。
デモ隊と臨時政府との間で銃撃戦が発生しましたが、臨時政府側が盛り返し、ボルシェヴィキは壊滅状態になりました。これによりリヴォフは辞任に追い込まれ社会革命党のケレンスキーが臨時政府の首相となる結果となりました。
トロツキー、カーメネフら多くのボルシェヴィキ革命家が逮捕され、レーニンとジノヴィエフはスターリンらの助けを借りてフィンランドに脱出しました。
十月革命
9月に臨時政府の最高司令官であるコルニーロフがクーデターを起こし、クーデターは失敗に終わりましたが臨時政府に動揺が走りました。
釈放されたボルシェヴィキ革命家たちはこの機に乗じて10月に中央委員会で武装蜂起を宣言し、ペトログラード・ソヴィエトにて軍事革命委員会を設置しました。軍事革命委員会の多くがボルシェヴィキで組織され、社会革命党の左派と無政府主義者がこれに加わりました。
軍事革命委員会は10月24日には重要拠点を制圧し、10月25日の夜には冬宮に攻め込み、26日未明には占領を完了しました。
冬宮はほぼ無抵抗で占領され、ケレンスキーはフランスへの亡命を余儀なくされました。こうして世界で初めて共産主義者による独裁政権がロシアに誕生することになりました。
ロシア革命を起こしたボルシェヴィキの中央委員会は政治局と書記局に分かれています。革命前夜の10月10日の中央委員会の最高幹部は政治局にはレーニン、ジノヴィエフ、カーメネフ、グリゴリー・ソコリニコフ、トロツキー、スターリンらが、書記局にはフェリックス・ジェルジンスキーやスヴェルドロフ、アドリフ・ヨッフェらがいましたが、その多くがユダヤ人でした。
ジェルジンスキーは後に国家保安総局長官となり、後に内務人民委員部、KGBとなるこの組織で、秘密警察(チェーカー)を組織し、反体制派の摘発を開始しました。
十月革命後に、ボルシェヴィキ政権はヨッフェを団長とし、ドイツとの間に平和条約であるブレスト=リトフスク条約を結びました。こうしてボルシェヴィキ政権は第一次世界大戦のヨーロッパ戦線から離脱し、ロシア内戦へと進んでいきます。
赤軍の司令官であるトロツキーとロシアの右派勢力である白軍との内戦は1922年まで続き、日本もシベリアへの出兵を余儀なくされました。
ニコライ一家惨殺
二月革命で退位を余儀なくされたロマノフ王朝のニコライ2世一家はシベリアのトボリスクに流されたのち、十月革命が起こるとエカテリンブルクに移されました。
ニコライ2世とその家族はイパチェフ館に78日間幽閉され、外部との接触を遮断されました。1918年6月にゴロシチョキンはレーニンとスヴェルドロフにニコライ2世の処刑を進言し、両者の同意を取り付けます。
全ロシア中央執行委員会議長であるスヴェルドロフの命令により、7月17日未明、ユダヤ人で警護隊長のユロフスキーは、ニコライ2世と妻のアレクサンドラ、四人の皇女と第一皇子アレクセイ、そして四人の従者を殺害しました。
ゴロシチョキンとユロフスキーらは遺体をトラックでエカテリンブルクから北へ16kmの所に運びました。ゴロシチョキンらはトラックが立ち往生したためにその場で遺体に硫酸をかけた上でガソリンを使って燃やし、コンクリートで埋め立てました。
レーニンの死
革命によって政権を奪取したボルシェヴィキ政権は秘密警察を動員して反対派を悉く弾圧、殺害していきました。
1918年1月、レーニンがペトログラードで襲撃されました。この時は傍にいた亡命時代からの協力者でスイス共産党のフリッツ・プラッテンがレーニンを銃撃から守りました。しかし同じく8月にはモスクワで社会革命党のファニー・カプランによる二発の銃弾を受けて負傷します。
レーニンの二度目の暗殺未遂事件よりも少し前に、ペトログラード・チェーカー議長モイセイ・ウリツキーが暗殺されており、翌年には中央執行委員会議長のスヴェルドロフも亡くなっています。病死したとも言われていますが、当時の日本の外務省はスヴェルドロフも社会革命党に暗殺されたとしています。
1919年にレーニンは第三インターナショナル(コミンテルン)を組織しました。レーニンは十月革命で手中に収めた政権を存続させるためには、ヨーロッパでも共産主義運動を行う必要性があると考えていました。この後ロシア革命による火種はヨーロッパ各地へと飛び火していきました。
しかし、レーニンは銃撃の後遺症により健康を害し、1922年には政治の前線から退き、1924年に脳梗塞により亡くなりました。
後継者争い
レーニンの死後、ボルシェヴィキ政権ではジノヴィエフ、カーメネフ、スターリン、トロツキーによる後継者争いが始まりました。ジノヴィエフはレーニンの副官として亡命時代から常に取り巻きのように行動を共にしていた人物です。
全ロシアソヴィエト大会で中央執行委員会の議長を務めたカーメネフは、意見の近いジノヴィエフと共に行動し、ボルシェヴィキ政権を取りまとめました。
スターリンは秘密警察の中心メンバーであったジェルジンスキー、ゲンリフ・ヤゴーダ、メンジンスキーと緊密な関係を築き、更にジノヴィエフとカーメネフと連携しました。
ジノヴィエフ、カーメネフ、スターリンの三者が協力して、永続革命論を提唱するトロツキーを政権の中枢から排除することに成功しました。
トロツキーを追い落とした三人でしたが、今度はジノヴィエフとカーメネフが失脚します。スターリンは秘密警察を掌握し、更にブハーリンやルイコフといった協力者を得て、ユダヤ人のトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフを政権から追い落としました。
1926年に、トロツキー派とジノヴィエフとカーメネフの一派は合同反対派を結成しましたが、既に大勢は決しており、翌年の1927年にトロツキー、ジノヴィエフ、カーメネフら反対派の中心メンバーが共産党から除名されました。
ジノヴィエフとカーメネフは復党を許された時期もありましたが、トロツキーは1929年に国外追放されました。
国外のトロツキーと国内のジノヴィエフとカーメネフの一派が連携してレニングラード第一書記のセルゲイ・キーロフを暗殺し、更にスターリンの暗殺を企てているとして、ヤゴーダ率いる秘密警察はスターリン反対派を摘発していきました。
1936年に第一回モスクワ裁判が開かれ、ジノヴィエフとカーメネフら16名が有罪となり銃殺刑に処されました。この裁判以後1937年から38年までの二年間、大粛清が最高潮に達します。
トロツキーと第四インターナショナル
ロシアを追われたトロツキーはトルコに亡命した後、ヨーロッパ各地を転々とした後、メキシコに拠点を置きました。1938年に第四インターナショナルを結成し、スターリンが牛耳っていたコミンテルンに対抗し活動を続けました。
トロツキーは息子がフランスでソ連の秘密警察に暗殺されたことを受けて自らの危険を察知してメキシコの自宅を要塞化までしましたが、1940年にソ連のスパイによって暗殺されました。
トロツキーが創設した第四インターナショナルの結成メンバーにはマックス・シャハトマン、マーティン・アーバーンなどのユダヤ人がいました。第四インターナショナルでは後に西ドイツで書記局の指導者となったエルネスト・マンデル、フランスの国際共産党の指導者ピエール・ランベールなど多くのユダヤ人が指導的役割を演じています。
マンデルはスパルタクス団のメンバーとしてドイツ革命にも参加しており、トロツキズムの有力な指導者として著作も多く書き残しています。ランベールは戦後に入って国際共産党員として活動しました。十月革命を起こしたボルシェヴィキ政権と同じく第四インターナショナルでもユダヤ人が指導的役割を果たしています。
まとめ
ロシア革命はアメリカやヨーロッパの金融資本家や社会主義者の支援を受けて成功したユダヤ人による革命でした。前回に欧米の中央銀行の設立の歴史を見てきましたが、ロシア革命に際してのアメリカの動きなどについても紹介出来たらと思います。
さいごの一言
最後までお付き合いいただきありがとうございました。ご感想などありましたら、気軽にコメントください。
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