【ドイツのマルクス主義者】アウルグト・タールハイマー
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今回はアウルグト・タールハイマーの英語版Wikipediaの翻訳をします。
翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。
翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。
アウグスト・タールハイマー
アウグスト・タールハイマー(1884年3月18日 - 1948年9月19日)は、ドイツのマルクス主義活動家、理論家である。
生い立ち
1884年、ドイツ・ヴュルテンベルク州アファルトラッハ(現オーバーズルム)で、ユダヤ系労働者階級の家庭に生まれる。ミュンヘン、オックスフォード、ロンドン、ストラスブール、ベルリンの各大学で学ぶ。
政治的経歴
第一次世界大戦前はドイツ社会民主党の党員であった。党機関紙の一つである『人民の友』を編集し、1916年からは独立社会民主党(USPD)の機関紙である『スパルタクス通信』に携わる。タールハイマーは、ドイツ共産党(KPD)の創設メンバーとなり、その主要な理論家として認められていた。彼は『赤旗』と、フランツ・メーリングが死後未発表のまま残した原稿を編集した。
タールハイマーはヴュルテンベルク州の地方政府の一員であり、1923年の危機の際には財務大臣を務めた。彼とハインリッヒ・ブランドラーはその責任を問われ、1924年にモスクワに召還された。そこでコミンテルンやマルクス・エンゲルス研究所で働くことになる。1927年、タールハイマーはモスクワ中山大学(※孫文とアドリフ・ヨッフェの共同声明において創設されたソヴィエトの大学)で一連の講義を行い、それが哲学の教科書として出版された(英訳は『弁証法的唯物論』[ニューヨーク、1936年]として出版された)。また、ニコライ・ブハーリンとともにコミンテルンの綱領草案に取り組んだ。エルンスト・テールマンの指導に不満を持ち、1928年にドイツでドイツ共産党に復帰する。しかし、その1年後、ブランドラーとともにKPDから追放され、彼らはドイツ共産党反対派(KPO)を結成することになる。
共産党反対派は、ソ連の外交政策は批判したが、国内政策は批判しなかった。タールハイマーはこう述べている。 「コミンテルンの政治が誤りである以上、ロシアの政治も誤りであるという結論を導き出したくはない」(『主流に抗して』1931年4月)。タールハイマーは強制集団化とスタハノフ主義(※超過達成した炭鉱労働者アレクセイ・スタハノフをモデルとした生産向上運動)の両方を支持した。
タールハイマーは1932年からパリに亡命した。
1935年初めからタールハイマーは、ジェイ・ロベストンが主宰するアメリカ共産党(反対派)の機関紙『ワーカーズ・エイジ』に国際ニュースのコラムを定期的に執筆するようになった。
タールハイマーは1936年、スペインのバルセロナに赴いた。ここで彼は、第一次モスクワ裁判を非難するマルクス主義統一労働者党(POUM)をめぐって、アンドレウ・ニンと口論になった。すぐに再びフランスに戻り、亡命中のドイツ共産党反対派と活動する。1937年7月、バルセロナのドイツ共産党反対派のメンバー6人がスターリニストによって逮捕されたとき、彼はブランドラーとの共同声明を発表した。
その後の人生
1940年、ドイツによるフランス征服の後、タールハイマーはキューバに逃亡した。1948年、ハバナで死去した。
作品紹介
『1923:機会を逸したか?ドイツ十月伝説と1923年の本当の歴史』(1931年) マイク・ジョーンズ訳。ロンドン:マーケンプレス、1993年
『ファシズムについて』(1979年) ニューヨーク: テロス・プレス
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