日本の核兵器計画
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今回は日本の核兵器計画の英語版Wikipediaの翻訳をします。
翻訳のプロではありませんので、誤訳などがあるかもしれません。正確さよりも一般の日本語ネイティブがあまり知られていない海外情報などの全体の流れを掴めるようになること、これを第一の優先課題としていますのでこの点ご理解いただけますと幸いです。翻訳はDeepLやGoogle翻訳などを活用しています。
翻訳において、思想や宗教について扱っている場合がありますが、私自身の思想信条とは全く関係がないということは予め述べておきます。あくまで資料としての価値を優先して翻訳しているだけです。
日本の核兵器計画
日本の核兵器開発計画は第二次世界大戦中に行われた。ドイツの核兵器開発計画と同様、さまざまな問題に悩まされ、結局、広島と長崎への原爆投下、そして1945年8月の日本の降伏の前に、研究所の段階を超えることはできなかった。
今日、日本の原子力インフラは、核兵器を自由に製造することができる。日本の非軍事化とアメリカの「核の傘」の保護により、核技術の非武装化という強力な政策がとられてきたが、北朝鮮による核実験を前に、日本の政治家や元軍関係者の中には、この政策の撤回を求める声もある。
背景
1934年、東北大学教授・彦坂忠義の「原子物理学理論」が発表される。彦坂は原子核が持つ巨大なエネルギーを指摘し、原子力発電と兵器の両方の可能性を説いた。1938年12月、ドイツの化学者オットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンは、ウランに中性子を照射してバリウムという元素を検出したことを『自然科学』誌に発表し、同時にこの結果をリーゼ・マイトナーに伝えた。マイトナーと彼女の甥のオットー・ロベルト・フリッシュは、この結果を核分裂であると正しく解釈し、フリッシュは1939年1月13日に実験的にこれを確認した。世界中の物理学者たちは、連鎖反応が起こりうることを即座に理解し、核兵器開発の可能性を各国政府に通告した。
第二次世界大戦
日本の原子計画の中心人物は仁科芳雄で、ニールス・ボーアの側近であり、アルベルト・アインシュタインと同時代人であった。仁科はクライン=仁科の公式を共同執筆していた。仁科は1931年、基礎研究を推進するために1917年に東京に設立された理化学研究所に、高エネルギー物理学を研究するための独自の原子核研究所を設立した。仁科は1936年に最初の66cm(26インチ)サイクロトロンを、1937年にはさらに150cm(60インチ)、220トンのサイクロトロンを建設した。1938年には日本もカリフォルニア大学バークレー校からサイクロトロンを購入した。
ドイツの4ヵ年計画による日独同盟により、日本とその軍部はすでに原子力技術で欧米に追いつくために原子力科学を追求していた。そのため、仁科は日本に量子力学を導入することができた。
1939年、仁科は核分裂の軍事的可能性を認識し、アメリカが日本に対して使用されるかもしれない核兵器の開発に取り組んでいることを心配していた。
1939年8月、ハンガリー生まれの物理学者レオ・シラードとユージン・ヴィグナーは、「新型の極めて強力な爆弾」の開発の可能性を警告するアインシュタイン・シラード書簡を起草した。アメリカはアメリカ国内で核分裂兵器の研究を開始し、それはやがて大規模なマンハッタン計画へと発展し、日本がサイクロトロンを購入した研究所は兵器研究の主要拠点のひとつとなった。
1940年の初夏、仁科は汽車の中で安田武雄中将に出会った。安田は当時、陸軍航空局技術研究所の所長であった。仁科は安田に核兵器製造の可能性を話した。しかし、日本の核分裂プロジェクトが正式に始まったのは、1941年4月、東条英機陸軍大臣の「核兵器の可能性を調査せよ」という命令に従って安田が行動してからである。安田は命令系統を理化学研究所所長の大河内正敏子爵に伝え、理化学研究所はそれを仁科に伝えた。
⬛B調査
一方、日本海軍技術研究所は、独自の調査を進めており、核兵器に関する助言を帝国大学東京校の教授に依頼していた。1941年の真珠湾攻撃前、日本海軍技術研究所の伊藤庸二大尉は、日本海軍が核分裂を使用するための研究を開始した。東京帝国大学の嵯峨根遼吉教授と相談した結果、彼の研究は核分裂が海軍の潜在的な動力源になることを示した。
その結果、仁科が委員長を務める核物理応用研究委員会が結成され、1942年7月から1943年3月にかけて10回の委員会が開かれた。日本海軍がミッドウェーで敗れた後、伊藤大尉は、1942 年 6 月末までに「B 研究」(「仁計画」とも呼ばれる。 )12月までに、プロジェクトの奥深くで、原子爆弾は原理的には実現可能であるが、「日本の科学者たちは、戦争の結果を左右するような原子エネルギーの応用を時間内に実現することは、アメリカでさえ困難であると考えていた」ことが明らかになった。そのため海軍は関心を失い、代わりにレーダーの研究に集中するようになった。
⬛二号研究
1942年、陸軍は落胆することなく、委員会が報告書を発表した直後、理化学研究所に実験プロジェクト「二号研究」を立ち上げた。その目的は熱拡散によるウラン235の分離であり、電磁分離、気体拡散、遠心分離などの代替法は無視された。
1944年春までの仁科研究は、クルシウス管に使用する六フッ化ウランが不足していたため、ほとんど進展がなかった。以前は銅管内に供給されていたウランが腐食し、プロジェクトはU-235同位体を分離することができなかった。
1945年2月までに、少数の科学者グループが、理研の複合施設内の初歩的な分離器で少量の物質を生成することに成功した。分離器プロジェクトは1945年3月、米空軍の東京大空襲による火災で分離器の建物が焼失し、終了した。重水は入手できなかったが、仁科の分離装置を担当した竹内柾は、ウランを5~10%のウラン235に濃縮できれば、軽水で十分だと計算した。
この実験の間、陸海軍は福島県から朝鮮、中国、ビルマまでウラン鉱石を探した。日本も同盟国ドイツに資材を要求し、1945年4月、560kg(1230ポンド)の未加工酸化ウランが潜水艦U-234で日本に送られた。この酸化ウランには「U-235」というラベルが貼られていたとされるが、これは潜水艦名の誤記であった可能性があり、正確な特性は不明のままである。兵器級ではなく、航空燃料用の合成メタノール製造の触媒として使用される予定であったとする情報もある。
この攻撃はまた、クルシウス管を効果的に破壊し、日本が原爆を製造して戦争を有利に進め、核兵器で欧米に対抗する可能性をも失わせた。
歴史家ウィリアムズによれば、「ドイツの原爆計画を妨げたのと同じように、高品質のウランが十分になかったことも、結局のところ、日本の原爆製造の試みを妨げた」。これはマンハッタン計画情報グループの結論であり、日本の核物理学者は他国の核物理学者と同様に優秀であったと報告している。
⬛F号研究
1943年、日本の別の海軍司令部は、京都帝国大学の荒勝文策の下で核研究計画「F号研究」を開始した。荒勝は、ケンブリッジのキャベンディッシュ研究所でアーネスト・ラザフォードに、ベルリン大学でアルベルト・アインシュタインに師事するなど、海外留学経験があった。仁科に次いで、荒勝は日本で最も注目された原子物理学者であった。彼のチームには、1949年に日本人初のノーベル物理学者となる湯川秀樹もいた。
戦争初期、海軍研究所の化学課長であった北川指揮官は、ウラン235の分離作業を荒勝に依頼した。作業は遅々として進まなかったが、終戦直前、彼は超遠心機(毎分6万回転)を設計し、必要な結果が得られると期待した。日本が降伏する前に完成したのは、機械の設計だけであった。
荒勝と仁科の会談の後、1944年春、日本の核兵器開発が進展しないため、陸海軍技術実施委員会が結成された。これにより、1945年7月21日、F号研究の科学者たちの唯一の首脳会談が行われた。この会合の後、49号館と呼ばれる同位体分離研究が行われていた施設が破壊された結果、核兵器研究は終了した。
日本降伏の直後、9月に日本に派遣されたマンハッタン計画の原爆調査団は、F号研究が朝鮮と九州の電解アンモニア工場から月20グラムの重水を入手したと報告した。実は、実業家の野口遵が数年前に重水製造計画を立ち上げていた。1926年、野口は韓国北東部の興南(フンナム)に韓国水力電気会社を設立し、肥料用のアンモニアを生産する工業団地を建設した。しかし、ノルウェーのヴェモルクにあるノルスク・ハイドロ社の生産量に匹敵する可能性のある重水製造施設があったにもかかわらず、日本は京都で重水を減速材とする中性子増倍研究を行わなかったようである。
⬛戦後への影響
1945年10月16日、仁科はアメリカ占領軍に理化学研究所の2台のサイクロトロンを生物学・医学研究に使用する許可を求め、すぐに許可された。しかし11月10日、ワシントンのアメリカ陸軍長官から理化学研究所、京都大学、大阪大学のサイクロトロンを破壊するよう指示が届いた。理研のサイクロトロンは解体され、東京湾に投げ込まれた。
仁科はこの破壊に対する抗議の手紙の中で、理研のサイクロトロンは核兵器の製造とは何の関係もないと書いているが、大型サイクロトロンは公式には二号研究の一部であった。仁科は、サイクロトロンが原子力利用の基礎研究に役立つと提案することで、プロジェクトの中にサイクロトロンを位置づけた。彼は、終戦までに日本で核兵器が製造される可能性はないと考えていたので、このことに何の疑問も感じていなかった。
⬛日本の兵器実験の報告
1946年10月2日、『アトランタ・コンスティテューション』紙は、戦後韓国で第24犯罪捜査分遣隊の捜査官だったデイヴィッド・スネル記者の記事を掲載し、日本軍がソヴィエト軍に占領される前に興南(フンナム)付近で核実験に成功したと主張した。彼は1945年9月にソウルで、興南で防諜を担当していた若林大尉という偽名を名乗る日本人将校から情報を得たという。戦時中、日本が核物理学に関心を寄せていたことに関するあらゆる情報を厳しく検閲する責任を負っていた連合国軍最高司令官総司令部SCAPの職員は、スネルの報告を否定した。
1947年から1948年にかけての調査では、そのような研究について知っていたであろう、あるいは知るべきであった日本の科学者からコメントが求められた。多数の日本人科学者が日本から朝鮮半島に渡り、そのまま帰らなかったという証拠がないことから、スネルの話にはさらなる疑念が投げかけられている。スネルの発言は、1985年に出版されたロバート・K・ウィルコックス著『日本の秘密戦争:原爆製造のための時間との戦い』でも繰り返されている。この本には、ウィルコックス氏が、日本軍が興南からの新たな証拠であると述べた内容も含まれていた。これらの具体的な報告は、『ミリタリー・アフェアーズ』誌に掲載されたエネルギー省職員ロジャー・M・アンダースによる書評、『イシス』誌に掲載された2人の科学史家による論文、『インテリジェンスと国家安全保障』誌に掲載された別の論文で否定された。
戦後
広島と長崎に原爆が投下されて以来、日本は反核の立場を堅持してきた。戦後憲法は攻撃型軍隊の創設を禁じ、1967年には非核三原則を採択し、核兵器の製造、保有、導入を禁じている。にもかかわらず、日本が核保有国になるかもしれないという考えは根強い。1964年に中国が初の核実験を行った後、佐藤栄作首相は1965年1月に会談したリンドン・ジョンソン大統領に対し、「中国共産党が核兵器を持つなら、日本も持つべきだ」と発言した。この発言はジョンソン政権に衝撃を与え、特に佐藤首相が「日本の世論は今のところこれを許さないだろうが、国民、特に若い世代は『教育』できると信じている」と付け加えたことに衝撃を受けた。
佐藤政権の間、日本は核の選択肢について議論し続けた。より大型の戦略兵器とは対照的に、戦術核兵器は防衛兵器と定義される可能性があり、それゆえ日本国憲法によって許可されることが示唆された。後の中曽根康弘首相が依頼した白書は、小型で純粋に防衛的な核兵器を保有することは憲法に違反しない可能性があるが、外国の反発や戦争の可能性を考慮すると、「現時点では」核兵器を保有しない方針がとられるだろうとの見解を示した。
⬛核不拡散条約
ジョンソン政権は佐藤の意図を憂慮し、日本の核拡散防止条約(NPT)署名を最優先事項のひとつとした。1967年12月、日本国民を安心させるため、佐藤は非核三原則の採択を発表した。これは、日本は核兵器を製造せず、保有せず、日本国内での使用を許可しないというものであった。国会で採択されたものの法律ではないこの原則は、それ以来、日本の核政策の基本であり続けている。
佐藤の政策顧問の一人であった若泉敬によれば、佐藤は宣言を行った直後に、この宣言があまりにも制約的であることに気づいたという。そこで彼は、1968年2月の国会演説で「四つの原子力政策」(「四柱核政策」)を宣言し、原則を明確にした。
原子力の平和利用の促進
世界的な核軍縮への努力
1960年の日米安全保障条約に基づくアメリカの拡大抑止への依存と従属
「日本の安全保障が他の3つの政策によって保証されている状況下での非核三原則」への支持。
アメリカの保証がなくなったり、信頼できないと思われたりした場合、日本は核武装するしかなくなるかもしれない。言い換えれば、核という選択肢を残したのである。
1969年、日本の外務省の政策立案研究は、日本が核拡散防止条約に調印したとしても、国際情勢などによって核兵器が必要になった場合に備えて、核兵器を開発・生産する経済的・技術的能力を維持すべきだと結論づけた。
日本は1970年にようやく核拡散防止条約に調印し、1976年に批准したが、それは西ドイツが調印し、アメリカが「東京が民生用原子力発電計画において独自の再処理能力を追求することを妨害しない」と約束した後のことであった。
⬛核不拡散条約の延長
1995年、クリントン政権は日本政府に核拡散防止条約の無期限延長を支持するよう迫ったが、日本政府はこの問題について曖昧な立場を選んだ。ある元日本政府高官は、「われわれは、核のオプションを永久に放棄すると宣言しない方がよいと考えた」と回想している。しかし、最終的にはワシントンや他の国々からの圧力によって、日本は無期限延長を支持することになった。
1998年、二つの出来事は、日本が非核政策を転換しないにしても、少なくとも再考すべきだと主張する日本の人々の支持を強めた。このような政策を主張したのは、保守的な学者、一部の政府高官、少数の実業家、ナショナリストグループなどであった。
日本が核拡散防止条約への加盟を選択した理由の一つは、さらなる核拡散に反対する国際的なコンセンサスに背いた国に対して厳しい罰則を科すことを予期していたからである。また、日本や他の国々は、インドの核保有が中国との局地的な核軍拡競争を引き起こすことを恐れていた。
二つ目の出来事は、1998年8月に北朝鮮のテポドン1号ミサイルが日本上空を通過したことである。額賀福志郎防衛庁長官は、北朝鮮のミサイル基地に対する先制攻撃は正当化されると述べた。小渕恵三首相は日本の非核兵器主義を繰り返し、日本は核兵器を持たず、この問題は議論に値しないと述べた。
しかし、小泉純一郎首相は「核兵器を持つことができるにもかかわらず、持たないというのは重大なことだ」と付け加えたことで、日本が核兵器を持つ権利があることに同意したことを示唆したと考えられている。
これに先立ち、安倍晋三は、核兵器が最小限度に抑えられ、戦術兵器である限り、日本国憲法は必ずしも核兵器の保有を禁止していないと述べ、福田康夫官房長官も同様の見解を示していた。
⬛事実上の核保有国
現在、日本には核兵器を製造する計画は知られていないが、日本は必要であれば1年以内に核兵器を製造する技術、原材料、資本を持っていると主張されており、多くのアナリストはこの理由から日本を事実上の核保有国とみなしている。このため、日本は核兵器保有まで「ドライバー1本」、あるいは「地下に爆弾を抱えている」とよく言われる。
1970年代までアメリカの施政下にあった沖縄県には、アメリカが膨大な核資産を保管していた。沖縄には約1200個の核弾頭があった。
原子力産業の副産物として、かなりの量の原子炉級プルトニウムが生成される。1970年代、日本政府は平和的商業利用のための「プルトニウム経済」を形成するために、再処理されたプルトニウムを使用するようアメリカに何度も訴えた。これによってカーター政権内では、再処理に伴う核拡散のリスクについて重要な議論が始まったが、同時に日本のエネルギーの必要性と平和的原子力技術利用の権利も認められた。最終的には、日本が原子力関連の活動から生じる副産物を再利用することを認める合意に達したが、高速増殖プルトニウム炉に関する努力はほとんど失敗に終わった。
2012年、日本には1000発以上の核弾頭に相当する9トンのプルトニウムが保管されており、さらに35トンがヨーロッパに保管されていると報告された。日本は六ヶ所再処理工場を建設しており、さらなるプルトニウムを生産する可能性がある。日本は、研究用原子炉や高速中性子炉の研究計画で使用するため、アメリカとイギリスから提供された相当量の高濃縮ウラン(HEU)を保有しており、2014年時点で約1200~1400kgの濃縮ウランを保有している。日本はまた、兵器使用に適した高濃縮ウランを製造するために使用される可能性のあるウラン濃縮プラントを保有している。
日本はまた、アメリカの大陸間弾道ミサイルICBMであるLGM-118Aピースキーパーにいくらか似た設計のM-V三段式固体燃料ロケットを開発し、ミサイル技術の基盤を得た。現在は、より打ち上げやすい第2世代固体燃料ロケット「イプシロン」を保有している。日本には再突入ロケット技術(OREX、HOPE-X)の経験がある。東京都顧問で元中将の志方俊之氏は、2003年から2010年までの5回目のM-V「はやぶさ」ミッションの根拠のひとつは、帰還カプセルの再突入と着陸によって「日本の弾道ミサイル能力が信頼に足るものである」ことを実証したことだと述べた。日本の核抑止力は、おそらく弾道ミサイル潜水艦による海上ベースとなるだろう。2011年、石破茂元防衛大臣は、日本が核の潜伏能力を維持するという考えを明確に支持した。
2014年3月24日、日本は700ポンド(320kg)を超える兵器級プルトニウムと高濃縮ウランをアメリカに引き渡すことに合意し、2016年から返還が始まった。日本が周辺国を通じて「核兵器製造可能国」の地位を享受している限り、実際に核兵器を製造する理由はないだろうと指摘されている。
橋下徹前大阪市長・知事は2008年、いくつかのテレビ番組で、日本は核兵器を保有すべきだと主張したが、それ以来、これは私見であると述べている。
石原慎太郎元東京都知事は1999年から2012年まで、日本の核兵器保有を主張していた。
2016年3月29日、ドナルド・トランプ米大統領候補(当時)は、日本が独自の核兵器を開発すべきであると示唆し、中国、北朝鮮、ロシアなど、すでに独自の核兵器を保有している国から日本を守り続けるには、アメリカにとって費用がかかりすぎるとしている。
2022年2月27日、安倍晋三元首相は、日本はNATOのような核共有体制をアメリカと検討すべきだと提案した。これには、抑止力のためにアメリカの核兵器を日本国内に置くことも含まれる。この計画は、2022年のロシアのウクライナ侵攻を受けたものだ。多くの日本の政治家は、非核保有国に対して核兵器を使用するというプーチンの脅しを、ゲームチェンジャーだと考えている。
日本独自の核開発計画は、国民の支持が低いため発展する可能性は低いが、中国と北朝鮮の脅威は、国内的に安全保障上の懸念を高めている。世論が果たす役割は中心的なものであり、研究によれば、脅威認識(主に中国の軍事力の増大)が、核開発計画に対する日本の世論の支持を強めている。日本は長い間、核兵器に対して否定的な見方をしており、以前は核武装や抑止力に関する議論さえも、強い「核のタブー」によって不人気だった。しかし、安倍首相が在任中にこの話題を政治の主流に押し上げたことで、このタブーは破られつつある。
日本の核武装において、国民性は重要な要素である。第二次世界大戦以来、平和憲法は日本の軍事的進出能力を大幅に制限し、積極的な軍隊を持つことや他国と戦争をすることを制限してきた。こうした制限と、第二次世界大戦前の帝国主義下で犯した犯罪や残虐行為に対する日本の謝罪と和解を旧植民地(特に韓国と中国)が強く望み、日本が適切な償いを拒否したことが相まって、日本では与党自民党の保守派が台頭し、平和憲法の改正を促し、安倍晋三元首相のもとで、日本国民の自国に対する誇りを取り戻すことを目的とした「健全なナショナリズム」を推進した。改正派は、国家としての誇りを高め、集団的自衛権を認め、「軍事活動に対する制度的制限」を取り払う「新しい国家アイデンティティの創造」を目指した。
アメリカの安全保障の信頼性が日本の核政策を形成するため、日本が独自に核兵器を開発するのを防ぐには、アメリカの強力な「核の傘」が必要である。しかし、1960年代以降、アメリカの安全保障に対する日本の信頼は、ニクソンの「グアム・ドクトリン」からトランプ大統領の同盟国に自国の安全保障をより多く提供することを求めるようになったアメリカの外交政策の変化に影響されてきた。日本が核兵器を開発することは核拡散防止条約(NPT)に違反し、東アジアにおけるアメリカの力を低下させる可能性があるが、日本が核兵器を開発することにアメリカが満足する歴史的な前例がある。日本が民主主義国家であり、ワシントンの友好国であり、国家能力が高い限り、アメリカの同盟関係は維持される可能性が高い。第二次世界大戦後、アメリカの抑止力にもかかわらず、フランスとイギリスが独自の核兵器を開発したときもそうだった。
コメント
ネット上では様々な原爆関連の陰謀論がありますが、この種の陰謀論を無批判に受け入れる前に、ある程度日本やアメリカ・ヨーロッパにおける核開発の歴史をおさえておく必要があるのではないかと考えています。
最近では当時の日本政府が広島や長崎に核攻撃を行ったという陰謀論も存在し、一定数の支持を集めていたりもします。このような陰謀論がどのように事実に反しているのかを検証したり、あるいは仮に事実であったとしても、それまでの情報の多くを反証する作業が必要になってくることでしょう。
関連記事も含めてその一助となればと思っています。
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最後に
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筆者の大まかな思想信条は以下のリンクにまとめています。https://note.com/ia_wake/menu/117366
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