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いちいち、いちいち ハナミズキの祈り

 皆さんは些細な事に気が付いた時、それを伝えますか?

ある喫茶店での出来事

 例えばカフェでコーヒーを飲んでいる場面を想像してください。混雑の時間も少し過ぎ、お客も少なめ。自分の周りの席にもあまり人はいません。
 ウェイターの方が片づけをされていて何かごみを落としました。おそらくストローの袋でしょう。ですがウェイターの方はそれに気が付いていません。あなたはそれに気が付きました。どうしますか?

今回のテーマは、

「いちいち・いちいち言わない」


です。
 ちなみに喫茶店の例の場合私は帰り際にさっと拾ってゴミ箱に捨て、何もなかったように帰ります。それが何を意図しているかは別の話で。

成長すると”気付き”は自然と多くなる。でも、、

 人間には成長が必要です。それはどんどん早くなる強制スクロールのシューティングゲームのようです。スキルを磨いてパワーアップしながら対応します。そうやって成長を重ねると多くの気付きを得ることができます。

例えば、

  • 言葉の裏や真意を理解する

  • 態度やしぐさから相手の本音を見抜けるようになる

  • わざと的外れな話をして何を考えているかを探る

  • 価格交渉をする際に相手の懐事情が分かるようになる

などなど。

全部言うのは稚拙な証拠

 ですがそれらを全て「ズバッとお見通しじゃい」と伝えたがる人がいます。これは人として未熟な証拠。
 言われた方が皆「いや~藤原さんにはかないませんなぁ」となるわけではありません。仮に表面的にそう言ったとしても心の中では(ちっなんだよこいつ。めんどくせーな)と思っています。本当のことを言われるとムカつくのが自然な反応です。

 ではなぜそれを知っていながらも言いたくなるのかというと、自身の能力の高さ、その気付きの素晴らしさを誇示してマウントを取りたいからです。

 ですがもう一歩成長することができると「気付いているけど言わない」というスキルが必要だということが分かります。それは相手の未来や成長を信じる行為だと私は解釈しています。

 これは言い換えると「アホになる」「アホのふりをする」ということに似ています。
 周りからは「あの人、ちょっと抜けてるよね」と思われるぐらいが丁度どいいと言われるのは敵を作らないという意味もありますが、本当は相手を思いやる気持ちがあるからかもしれません。
 「賢い」とか「切れ者」なんて言われているうちはまだまだ青二才だと思ってください。

 あ、あと「俺はアホのふりができるんだぜ」と思っている人もまだまだ未熟ゾーン。その先に本当のスタート地点があると感じますのでもう少し頑張りましょう。「アホのふり」ができて当たり前という感覚です。

沈黙は金である

 誰が言ったか知りませんが「雄弁は銀、沈黙は金なり」という言葉があります。「銀(ギン)」と対比して「金(キン)」と読むのが正しいのですが、私は「金(カネ)」と呼んでも良いのではないかと考えています。特にカネの絡まる話では「語るに落ちる」ということは多くあります。

例えばこんな話。

語るに落ちている場合

お客様:景気はどうですか?
藤原:おかげさまで御社の仕事がメインとなってきています。いつもありがとうございます。
お客様:ほーそりゃよかった(※1)いやー藤原さん。今回の案件なのですが、どうしても予算がきびしくてねえ。
藤原:そうですか。御社もなかなか大変なのですね。
お客様:そこで相談なんですが、この額でお願いできないですかね。
藤原:(げ、想定の半分、、でも今更別の案件も探せないしなあ)なるほど。もう少し何とかならないですかね。
お客様:うちの方でも検討したんですがね、これが精いっぱいでして(※2)
藤原:(ぐぬぬ)次の仕事では弾んでくださいね。

 さて、どうでしょう。藤原やらかしてますよね(笑)それぞれのポイントでお客様が何を考えたかを見てみましょう。
※1:わが社頼りということか。なら多少の無理は聞くだろう。
※2:本当はもう少し余裕があるのだけど、この状況なら受けざるを得ないだろう

 どうでしょう。完全に交渉に負けてしまっていますよね。藤原が余計なことを言うからです。

高度スキル:気付かないふり

では同じ例で。

沈黙は金の場合

お客様:景気はどうですか?
藤原:おかげさまで。いつもありがとうございます。
お客様:ほーそりゃよかった(※1)いやー藤原さん。今回の案件なのですが、どうしても予算がきびしくてねえ。
藤原:そうですか。御社もなかなか大変なのですね。
お客様:そこで相談なんですが、この額でお願いできないですかね。
藤原:(想定の半分か・・・)なるほど。もう少し何とかならないですかね。
お客様:うちの方でも検討したんですがね、これが精いっぱいでして(※2)
藤原:(ぐぬぬ)そうですか。では一度持ち帰らせて検討します。

 基本的には最初の例から発言を削除しただけです。どうでしょう。最初のものよりずいぶん交渉らしくなったのではないでしょうか。実際にはさらに態度や仕草、声色など様々な情報から心を読み取られてしまいます。怖いですね。

ベクトル反転「言わずにいてくれたかも」

 様々なことに気が付いているけれど言わない。そういうことってどれぐらいありますか?「結構たくさんあるかもぉ~」と思った人は要注意です。そんなレベルではないぐらいあなたは「言われていない」と思ってみて下さい。
 自分の気付きが10だとしたら、周りの人はあなたに100の事を我慢していると考えてみます。

 「そんなことはない!」もしかするとそうかもしれません。ですがここでお伝えしたいことは「そうかもしれない・・・」と思える想像力を鍛えましょうというお話。
 試しに「自分のことなんてどうでもよい些末な事だ」と思ってみます。
 そうすると見えてくるのは「自分がこれだけ言わずに我慢している」ということは「周りの人も我慢していて『言わずにいてくれて』いるのではないだろうか」ということ。

 もしそうだとすると自分の考え方や発言、行動に至るまで足りないものがまだまだあると思えます。
 こういった気付きを得る心の動きを私は「ベクトル反転」と呼んでいます。この「ベクトル反転」がどれぐらい起きるかというのがその人の器の大きさと比例しているのではないかと考えています。多角的な視野を持っているというと分かりやすかもしれません。

「ぐっと我慢」は自分への投資

 ではより多くの気付きを得るにはどうすればよいでしょうか?

 そのためには「自分の発言を我慢する」です。

 勘違いしてはいけないのは「言わなければいけないことを言わない」ということではないということ。ここで伝えたいのは「いちいちな発言を我慢する」という意味です。

 人は40歳を超えたあたりから「何を言うか」よりも「何を言わないか」の方が大切になってくると感じます。それは自分の地位や経験が他の人よりも勝り、ある一定の説得力が身に付いているという証拠でもあるのです。

 力のない人に叩かれても痛くありませんが、力を持ったものに叩かれると痛い。時には痛いだけでは済まないということもあり、場合によっては命にかかわることもあるのです。「パワハラ」や「モラハラ」と言われているものはこういうパワーバランスのギャップが生み出すことが多いのではないでしょうか。
 何かしらの力を持ったものは次にその使い方を試されるということかもしれません。

どれぐらい気付けるかは積み上げた我慢の量できまる

 その理屈だと多くの気付きを持つ人は多くの我慢を積み上げた人と言えます。子育てなんかはとても分かりやすい例ではないでしょうか。
 子供は自分たちの思うようにはなりません。なりませんが責任を放棄するわけにはいきません。
 例えば何かいけないことをやった時。ダメなことは当然ダメと言わなければいけないのですが、ダメと言ったからと言って制止できるかというと決してそんなことはありません。

 同じことを何度も繰り返し伝える。伝え方を工夫する。それでダメでも何度も言う。いろんなタイミングで言う。子育てはこの繰り返しです。
 そうした中でふとした瞬間に伝わっていたことが分かったり、できなかったことができたと分かるとそのことに感動し、誰にともなく感謝し、子供たちを誇らしく思います。

 ここで我慢して伝えた自分を誇らしく思うのは未熟な証拠。ドラマやアニメではそういった「苦労が報われる表現」が散見していて少しがっかりします。
 周りの協力なくして成しえなかったことは確かにあります。だとしても、やはり成した者の偉大さというものは存在します。
 一方でうまくいったときはみんなのおかげ、失敗したら自分の責任。そう思える器を持つことが次へとつながっていくポイントなのではないでしょうか。
 誰もがそういう気持ちでいられたら楽しい仕事ができそうですよね。自分のことなどはどうでもよいと思ってみるのです。これはアドラー心理学の「一つ上のコミュニティーへの貢献」と同じだと考えています。

人は誰かを笑顔にするために生きている

 そもそも何故成長しないといけないかという話はラジオでもしていて、それは自立するため。つまり「自分に関わる全ての人を笑顔にするため」ではないかという結論に至りました。

 今回の「いちいち・いちいちを言わない」という話もそのためのスキルとして身に付けておくべきことなのではないかと考えています。
 繰り返しますが「言うべきことを言わない」ではなく「些末なことをいちいち言わない」です。

誰かを守るためにはスキルが必要である

 力を持ったものは次にその使い方を試される、という話をしました。
 新しい道具を買ったからといって腕が上がるわけではないということに似ているかもしれません。もちろんこれまでの作業より格段に質が上がることもありますが、その道具の使い方を間違ってしまえば逆に質が低下する可能性もあるわけです。

 その道具を何度も使い、クセやコツをつかんでやっとスキルが身についていきます。力を持ったらそれを使う時間を積み上げる必要があるのです。
 そうやって積み上げた時間があるからこそいざというときに誰かのために役立てることができるわけです。

主人公は自分。誰かの犠牲になってはいけない

 ここまでに何度か「自分というものを捨ててみよう」という話をしました。ですがあくまでも主人公は自分であるべきです。誰かの犠牲によって成しえたものもこの社会には多くあると思いますが、条件や場面、環境が変われば誰もが主人公であり、犠牲となるために生きている人はいないのです。例えば会社では中間管理職で謝ってばかりだけど、ご家庭では一家の主だったりしますよね。

 仮に自分は誰かの犠牲になるべき人間だと感じる方がいらっしゃったとしたらそれは何かの責任から逃げて「わたしなんか」「自分みたいなものが」と見ないふりをしているのではないかと思います。
 つまり自分が主人公であると認識することは、自分に関わる人たちに対して何かしら役に立つ義務があるという覚悟をすることだと思うのです。

 そのために自分を捨ててみる。捨てることで今までとらわれていた「自分らしさ」という枠を取り払い、見えなかったものを見、知らなかったことを知ることで何が一体人様の役に立つというのかということを感じる必要があると思うのです。その第一歩が「いちいち言わない」ということ。

 人生の最初の20年近くは学生という肩書で自己中心的に生きてきたのです。そろそろその時期からは脱して真剣に人の役に立つとはどういうことかを考えなければいけません。
 論語にある「30にして立つ」は自分との離別という捉え方ができるかもしれませんね。

それが愛なんだ

 言わなかったこと。それはある種の祈りなのではないかと感じることがあります。相手に対する期待であり希望だと思います。伝えることも相手を思ってのことかもしれません。気になることも多くあるかもしれません。でも相手の未来と成長を期待してあえて言わないという選択肢も加えておくわけです。

 これはベクトル反転すると「言わずにいてくれた」ということは自分に対する愛がある=自分の存在を認めているということに気が付くのではないでしょうか。

 実践する場合には役割を分担し、我慢する人としない人がいても良いかもしれません。
 子供を育てるのに父親と母親が必要なのは役割が分担できるからともいえます。お父さんが叱っているときはお母さんがフォローに回る。お母さんが叱っているときはお父さんがフォローに回る。そうやって役割を演じることは子供たちの健やかな成長を願う「愛」があるからこそではないでしょうか。

あなたの会社ではどうでしょう

 会社では誰が父親的で誰が母親的かを気にしておくと良いかもしれません。時にそれは固定ではないと思います。父親的だと思って厳しく接していた人の母親的な優しさに救われることもあるでしょう。
 そしてあなたは上司や部下、先輩、後輩からみて父親的でしょうか?それとも母親的でしょうか。

時に愛は

 自分を捨て誰かの成長を心から願うとき、そこに愛と呼べるものが存在するのではないかと思います。そして、

時に愛は力尽きて崩れ落ちていくように見えても

オフ・コース「時に愛は」

それは誰が悪いというわけではありません。人それぞれ様々な状況があり様々な考え方や生き方があります。自分の愛が届くかどうかは自分では決められないものなのです。
 ですがそれでも人と人が出会い短い時間でも何かを一緒にやっていくのであれば、そこに敬意を払い、愛を持って接することがその瞬間で最大の結果を生み出すことにつながると思います。

 子供たちが笑顔で人生を楽しんでくれれば、それ以上の幸せはありません。それはつまり自分が笑顔で生きていくことが自分に関わる全ての人に笑顔をもたらすことと同じと言えるのではないでしょうか。

いちいち言わないという我慢が様々な気付きを与えてくれるのだと思います。

僕の我慢がいつか実を結び
果てない波がちゃんと止まりますように

一青窈「ハナミズキ」

今回のお話は2022年11月11日(金)のチャンネルユニコでお話します(アーカイブも残します)お楽しみに♪


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