自分の持っているものを言語に変換する作業
最近、私の中でハッキリとした目標ができた。
それは何かを書きたい、言語化をこれからもつづけていきたいというものだった。
生まれて初めて「自分がやりたいこととは何なのか」を知った。
だけれど「何かを書きたい」と言葉にしてみると、なんかやる気が起きなくて
そんなに楽しそうだと思えなくなった。
最近、言語化の作業をすることよりも仕事やお出かけするのに追われていて、こうやって集中して書くことができなかったからもあるんやろうけど。
帰り道、なんでなんだろうなーってボケーっと考えてたら
「何かを書くこと」が私のやりたいことじゃなくって
「言語化」が私のやりたいことなんよね。
何がちゃうんやって言うと
無の状態から何かを作り出すことを「何かを書くこと」ともいえるやんか。
小説だとか、脚本とかがそれにあたるんやと思う。
だけど私の得意分野はあくまでも「言語化」で
自分の持っているものを、言語に変換することが得意で楽しいと思っている。
それは無の状態から何かを作り出すこととは違う。
小説家ではなくて、プログラマーやライターがそれにあたるんじゃないかな。
私は創作は一切できひんけど、言語化の作業は得意だし好きでずっとやれると思っている。(一切徹夜できひん人間やのに、論文とかやったら徹夜できたり、しんどいほどその状況を書き起こそうとしたりね。)
改めてそう考えると、やっぱり言語化としての書く事を続けたいなと思った。
ちょっと話は変わるけど、私にとって「言語化」は生活ツールでもあんねん。
別にnoteに書かなくてもおさーんのLINE@や、サークルにバチバチ書いて、自分の考えを整理する。
私はおさーんにもよく言われてるけど、論理的じゃないことを信じ込んだり、意味の分からんところで落ち込んだりっていうのがよくある。
この2年でだいぶ改善したり成長したほうやと思うけど、それは言語化する習慣があったからこそだったと思う。
言語化をすることは、今自分の持っているものを言語に変換して、可視化するってことだと思うんやけど
言語に変換する段階で、ある程度「あれっ、今の自分言ってることおかしない?」って気付くことができるから
自然と論理的思考になっていったりする。
また、バーって書いて可視化した後に「あ、これおかしいわ」って気付いて、noteの後半から「私の思ってることおかしかったわ・・・」って話にもなりがち。
この作業が私の間違った思い込みや、無駄な落ち込みを無くしてくれる。
何度もこれに救われた。
自分の持っているものを言語化するのも楽しいし、言語化の段階で論理的思考をすることができるのであれば
そんなんメリットしかなくない?
きっと人の頭の中ってさ、言語化していくと本当に膨大な量になると思うねん
だからいくら言語化しても時間が足りひんやろなって思う。
終わりのない尽きない作業やけど、これからもやり続けたいな
サポートして頂けると、これからも頑張れます。