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妊娠を手放しで嬉しいって思えなかった人おりゅ?『幸福路のチー』

『幸福路のチー』ソン・シンイン
ネットフリックスで視聴。台北の「幸福路」出身の主人公チーは1970年代生まれ。賢く、想像力の豊かなチーはキャリアのために渡米し、アメリカ人の夫と結婚するが価値観の違いが二人の溝になっていく。
そんな時大好きだったおばあちゃんが亡くなり、久しぶりに「幸福路」に帰ってくるチー。同級生たちの現在とチーの現在が交差し、蘇ってくる色鮮やかな思い出とともに「今誰と共にありたいのか」を考える。
現代女性の苦悩、現代台湾史、家族、仕事、生と死、幸福。どんなテーマで観るかは僕らに委ねられている。
『おもひでぽろぽろ』よりハードでリアルな話なのだが、明るい色使いが巧みなので暗くなりすぎない。
元喫煙者の僕からするとビンロウはすごく魅力的に映ったのだけれど、とんでもなくまずいらしいのでどこかのタイミングで勧められた時にだけ挑戦してみようかな。


***


妊娠検査薬で陽性が出た次の日、僕はハローワークの向かい側の公園でベンチに腰かけていた。
いつもならブラックコーヒーを買いがちな僕がその日ばかりはカフェオレを買った。

夫はおお、と一言声を上げて、僕の顔を見て複雑な顔をした。
初めて失業保険を貰いながらゆっくりと就職活動をするつもりだったので、大した経歴もない、妊娠中の三十代が太刀打ちできるような市場は日本にないことを知っての顔だろうか。

公園には年配の男性が一人と、犬を散歩する柔和な女性が一人だけいた。女性は男性に微笑みながら近づき、男性も気づいて会釈をする。犬が懸命に尻尾を振り、男性にまとわりつく。
郊外の公園に来る人間なぞ、近所の住人くらいだろうに僕はわざわざ電車を乗り継いでここまで来てカフェオレを握りしめている。
ぬるくなってしまうのが嫌で一口飲んだら、甘くて驚いた。まずくも美味しくもない。しかし別に構わない、暇を埋めるための代償行動にしかすぎないのだから。

昨日の夜も、朝起きてからも、これからどう生きていけばいいのかの問いが頭の中で巡り続けている。

転職できずに失業保険が終わるのはほぼ確定だろう。ではその先は?
夫の給料だけではとてもやっていけないが、現在の生活レベルを極端に落とすことは可能だろうか。
以前の、在宅で出来ていた仕事に戻るか。でも同業界で前の会社と同条件で就職することは困難だ。
破綻的な生活をついこの間までしていた僕たちが、免疫力のごく低い、四六時中泣きわめきすぐ死ぬ生き物を育てられるのだろうか。育てるとしたらどの部屋を中心にするべきなのだろうか。引っ越すべきか。
引っ越しをするとしたら金銭の工面をどうつけるのか。僕の給料はしばらく見込めない。
僕はいつ就職できるのだろう、失業保険が終わる前に就職出来るだろうか。

うら若き僕なら泣いてしまうような事柄ばかりを延々と並べては崩し、積み上げては崩していた。
冷静な僕が「答えの出ないものについて考えるのはただの無駄だ」とテレビやYouTubeのコメンテーターばりにふんぞり返っていたので、その時の僕は泣かなくて済んでいた。
堂々巡りの思考はやまなかったが、おかげで上手いこと暇を潰すことが出来た。
もうまもなく、就職相談の予約時間になろうとしていた。

傾聴の姿勢と和やかな空気に気圧されて、つい妊娠している可能性について話してしまった。
僕は懸命に、万一妊娠していても就職したいことを彼女に訴えた。事実、妊娠中の就職活動の実態について知りたかった。
彼女は僕の必死さにも落ち着いた態度を崩さず、まずは妊娠中でも就職活動を継続できること、それから熱心に企業選びについて色んなことを教えてくれた。
いくつかの資料を頂き、履歴書と職務経歴書の修正までしてもらった。

その後面談と資料を振り返ると、正直、彼女の熱心さとは不釣り合いな、内容の薄さではあったが、妊娠に動揺していた僕にとっては大変励みになった。就職活動で頼ることはないだろうが、ああいったキャリアカウンセラーは必要だ。僕みたいなメンタルの弱い人間にとっては。

ハローワークの帰る道すがら、夫の複雑な顔を思い出した。
思い出してから、夫の顔は複雑な表情をする直前、笑おうとしていたのではと気づいた。
僕の顔を見て、夫はすぐさま自分の表情を修正した。僕の顔が複雑な表情だったから、彼は複雑な気持ちを共有してしまったのである。
これは悪いことをした。一生に稀な喜ばしいことを素直に喜ばせてあげられなかった。

僕は僕の人生の主役だけれど、誰かの人生のわき役でもあるのだから、それが大切な人であればなおさら、きちんとわき役を全うするべきだ。
仕方がないのでお詫びのしるしに寿司専門チェーン店のパック寿司(彼は人生のあらゆるものの中で寿司が一番好きだ。僕は二番目)を買っていこうと立ち寄った。

陳列されている赤や黄、茶に緑、桃、黒。
いつもの僕なら美味しそうだなと眺めるところだが、その時は不思議と食べたくなかった。
それどころか気持ち悪くすらあった。ふと後方を見ると、あとから親子連れの客や、学生たちが店に入ろうとしている。
このまま後の客に順番を譲ると、気持ち悪さに待つことが出来ず、しかも二度とこの店に入れなくなりそうだったので適当に見繕って慌てて店から出た。

これは確実にそうだと確信した。
日本の妊娠検査薬がまさか誤るわけがないと思ってはいたが、急に実感した。
僕は、妊娠したのだ。

寿司を頬張る彼の姿を見て、ほうっと落ち着く時間が欲しかった。
そうして、今日のことについて面白おかしく話してやりたいと思う。

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