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やらねばならないに囚われた元エリート(笑)の僕がいっぱいやめた話 後編『やめてみた。本当に必要なものが見えてくる、暮らし方・考え方』

前回の記事が前編。
後編は何を「やめてみた」のかの話をするね。

それは本当に「やらねばならない」のか?

僕は電車に乗れなくなったことがある。
そもそも満員電車も嫌いだったし、いずれそうなる気もしていた。その時の仕事は気に入っていた(とその時の僕は思っていた)から、辞めるのは嫌だったが、電車に乗れなくては仕事にならないのでどうしたもんかと思った。
タイミングよく、在宅勤務の出来る大手メーカーに転職できそうだったので軽い気持ちでその会社を辞めた。

転職先は給料もさることながら、福利厚生も世界トップクラスの待遇だった。外資系企業なので人事考課の方法も理に適っていて、結果に繋がる努力をきちんと評価してくれる。
それだけではない。有名企業に勤めることで、態度をがらりと変える人間が確かに存在するのを肌で感じた。そういった人間を見るのは正直、気持ちがよかった。

しかし、僕はそこをすぐ辞めた。
何故なら、やめるべきは電車通勤ではなかったからだ。
その会社に迷惑をかける前に、一度、「やらねばならない」リストを見直せばよかった。
見直していたら、仕事を休む選択肢に辿り着けたと思うのだ。

思い込むのを「やめてみた」

僕が思い込んでいたことを自堕落な過去から引用する。

その頃の僕の心の中の口癖は
「仕事から帰ってきたらビールを飲まなければならない。」
(どんなに早く帰ってきてもアルコールが回っている中では趣味も勉強も出来やしない。)
「朝起きたらタバコ吸わないと落ち着かない。ご飯食べた後も。」
(朝にタバコを吸うために三〇分早起きをしていた。短いお昼休みに職場の近くの喫煙所が廃止されたことでタバコを吸うために片道一五分使ってタバコを吸いに行っていた。)
「セックスしないと愛されていない。」
(セックスと愛は関係ない。)




依存のせいでぼろぼろになった僕の過去記事から引用した(九月二四日の僕、ありがとう)。

「やらねばならない」を遂行するために「やらねばならない」を増やす。時間はどんどんなくなり、数少ない「やりたい」は埋もれ、やがて忘れる。
本当に「やらねばならない」のかどうか判断すらつかない有象無象のせいで疲れ、「マシだな」は「やりたくない」(あるいは物理的に「やれない」)に変わっていく。それをごまかすためにまた「やらねばならない」が増えていく

最近だと汚部屋に陥る現象のことをセルフネグレクト、だなんて呼ぶそうだ。言いえて妙。確かにあれは自分に対する虐待であった。

夫の勧めで外に出るようになってから、改めて「やらねばならない」リスト見直しに着手した。
実は人生における「やらねばならない」ことなどほとんどない。特に「やりたい」こともない僕のそれは、犯罪と自殺くらいだ。
犯罪と自殺をしないために、少しだけ仕事や家事云々をする。うん、これなら出来そう。これは「マシだな」の種類だ。「やりたくない」ことでも「やれない」ことでもない。
かくして僕は「マシだな」の生活を再開するに至った。

タバコも酒もスマホアプリも「やめてみた」

不要なものをそぎ落とす作業は楽しい。そぎ落とした瞬間は寂しくなるが、しばらくするとそれに費やした時間分の新しい何かが舞い込んでくる
それが「やりたい」のか「やりたくない」のかきちんと精査し、自分の生活を洗練させていく。不思議だが、精査していると幸せの感情に敏感になり、不幸せの感情を鈍らせる(このメカニズムを解説した本や記事にいつか出会えるといい、僕だけなのかな)。

本来であれば、こんな作業せず「やりたい」ことを見つけたい。
しかしながら僕はそんなに優秀でない。夫曰く「お前はそんなに大した人間じゃない」のだ。
実に曖昧な、存在しない理想の自分を崇めるのを、僕は今度こそやめる。タバコよりよっぽど依存性が高いが、僕はやめてみせる。
憧れは理解と最も遠いところにあるし、すぎた崇拝は本当の自由を得られなくするのだ(やはり漫画は素晴らしい!)。

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