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いつまでも少女でいたい『贅沢貧乏』

やあ、僕だよ。
図書館が今年最後の開館だったから慌てて返しに行ったらいつもより人が多かった。
明日からしばらく閉じてしまうと新しい本を借りるのもままならないものね。

まあ、僕はKindleUnlimitedの積読を消化しようとしてるので関係ないと言えばないのだが(でも一冊借りた)。

それにエンタメは本だけじゃない。

アニメだって映画だって何でもあるじゃないか。
年末だからと手前味噌なことをのたまい、だらだらと消費する日々はなんと贅沢なことだろう。  

そういえば今日の一冊は慎ましい生活をしながら目いっぱい「贅沢」する本だ。
最近の僕の贅沢についても書こうと思うよ。 

今日も楽しんでくれると嬉しいな。
さ、始めるよ。

本作あらすじと感想

著者森茉莉氏は森鴎外の娘である。
華美な文章は鴎外に似ているが、この本に収録されている短編はどれも素直で読みやすい内容だ。

これを映画化するならやっぱり群ようこ氏原作が得意なあの監督に頼みたい。
なお、講談社版と収録内容が違うようで、こちらは表題「贅沢貧乏」の他に「紅い空の朝から…」、「黒猫ジュリエットの話」、「マリアはマリア」、「青い栗」が収録されている。

いずれの短編も「マリア」が主人公で、エッセイとして取り上げられることの多い作品だが、「マリア」の視点が非常にファンタジーなので小説を読んでる気にさせられる(それこそ森鴎外を読んだ時の気持ちと似てるかもしれない)。

「マリア」にかかれば日常はロマンチックに溢れている。
ロマンチックでない出来事には徹底抗戦し、自分の中の「美」意識を優先させるその姿勢は僕の大好きな自分ワールドを持っている人そのものだ。

「贅沢貧乏」や「森茉莉」で検索すると彼女に憧れる女性は非常に多い。
傍目から見るとボロい「スウェタア」に身を包み、(他人から見れば)ガラクタをうっとりと眺めて「貴族」の心を忘れない「マリア」は「珍妙な」生き方に見えるのに、だ。

このスカアトに白いブラウスと、濃紺の襟附カアディガンを取合せて、谷内六郎の描く表紙の女の子、といつた感じである。中老の御夫人には違ひないが、中身は少女で、十三四歳の心境だから、さういふなりがぴつたりしてゐる。

「贅沢貧乏」より

本質的には、老若男女みんな「少女」になりたいのだ。
自分が好きだと思ったものを最優先する無敵の「少女」に。

だから森茉莉氏に憧れる。
僕もまんまと彼女の魅力にやられてしまった。

夫のちょっとした失敗

僕からしたら立派な大人に見える(どころかある種の哲学すら持つ)夫なんだけれど、こないだ年内中に申し込むはずだったあれこれを申し込みそびれていた。

確かに申込案内のカレンダーには終日受付しているように書かれていたが、そもそも検定や資格関連の施設など最新の資料を同封しているか怪しいところがある。
僕は再三、「早めに行った方がいい」と夫にさり気なく言い続けていたし、「郵送資料だけでなく最新情報を調べた方がいいんじゃないか」と提案していた。

出不精な彼は結局、その日の午前までやっていた受付に午後向かい、申し込みそびれ、すごすごと帰ってきたわけだが。

こういう時の僕は普段夫に小言を言われている意趣返しとばかりに「それ見たことか」とふんぞり返るのだけれど、夫は「全然まったく気にしてないし」と見目には飄々としているから少しくらい落ち込めばいいのにと悔しい思いをする。

「俺は今でも自分を18歳だと思ってるから」

精神年齢が低いことを笠に着て、色んなことを後回しにする言い訳をする夫は実にチャーミングだ。

そもそも精神年齢ってあやふやな言葉もない。
18歳の頃から考え方が変わっていない、精神が成長していない、と定義するなら僕だって概ね13歳から変わっていない。

とはいえ、「今思えば変わっていないよなぁ」と思っているだけでそれこそタレブさんの言うところの「こじつけ」なのかも。
事実として存在するのは、13歳の気持ちや癖や習慣が抜けていないこともあるということだ。

子どもが産まれたらそんなことも冗談ですら言ってられなくなるのかと思うと少し寂しくなった年末の僕である。

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