見出し画像

自殺について

※特定の人物のことを指しているものではありません。

 私は大抵いつも死にたいと思って生きているのですが、それは生きていることが面倒という意味合いの方が強いです。
 若いころはもっと過激で「生きたくない」よりも「死にたい」の方が強かったのですが、年を取るにつれ、生きていて自力ではどうにもならないことに対する免疫力が付いたようなイメージでしょうか。それでもなお、まぁいいかとまでは行かないのですが。
 生きるのは面倒くさいけれど、痛いのは嫌だし、死んだあとの自我の所存が解明されていないのでリスクもある。それに、後始末をさせる家族がいることを考えると、理性が働く。今のところ、日本では健康な肉体が合法的に死ぬ選択肢は用意されていない。
 私は、自分の臓器が必要とする誰かの元に行くならそれでいいと思うし、そのような制度が整ったら使いたいです。
 多様な存在が認められようとしている中で、死ぬことに対して寛容でないのはなぜなのでしょうね。人が死ぬことに責任が持てないからでしょうか。人が生きることにも等しく責任が持てないのに、生きさせることを推奨するのはなぜでしょうか。現世に逃げ場のない人間にとって、生きてほしいと願われるのはとても無責任なことだと感じます。それを伝える権利があるのは、生きてほしい人のこれからの人生を背負う覚悟がある人だけです。そうではない人の言葉は、主張するのはその人の自由ですが、きっと届けたい人には届かないです。
 ひととき、自分のカタルシスを得るために薄っぺらい言葉をかけるくらいなら、相手が生きる上で抱えている障壁を取り除いた方がいいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?