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間違いではないもののリサーチ不足が目立つオタキング岡田の『五星戦隊ダイレンジャー』論

まさかこの私がかのオタキングこと岡田斗司夫氏の発言や考察・解説に関して反論・異論を唱える日が来ようとは思わなかった。
最初に言っておくと、私は別に氏のことは特別に好きとか嫌いとかいった個人的感情を抱いているわけではないが、かといって評論家として全面的に信用しているわけでもない
確かに知識や教養は豊富といえば豊富だが、やはり論点が常に昭和戦後の70年代までで止まっていて、どうにも時代に合わせてご自身の価値観を更新しようという気概が今ひとつ見受けられない。
何かにつけて「スターウォーズ」の善悪や倫理観を基準にして物を語っているところが多く、どうしてもこの人の語る漫画・アニメ論のほとんどが牽強付会に聞こえてしまうのである。

だから私は岡田氏の話はひろゆきやメンタリストDaigoと同じようにポジショントークというか話半分で聞いていて、そのほとんどは糞の役にも立たぬ薀蓄として聞き流していた。
そんな氏が何の冗談かスーパー戦隊シリーズ、しかも私がリアルタイムで見ていた思い入れがそれなりにある『五星戦隊ダイレンジャー」についてコメントしていたのだ。
それが上記の動画であり私も拝見したのだが、やはりというかこの人はスーパー戦隊シリーズについてはと学会の山本弘と同じ半可通のファン未満なのだなと思えてしまう。
少なくとも『秘密戦隊ゴレンジャー』から全てのスーパー戦隊シリーズをしっかり視聴している熱心なファンはこんな人の戯言など右の耳から左の耳で聞き流しているであろうが。

色々突っ込みどころはあるのだが、その中でも突っ込みたいのは「ダイレンジャー」が「ヒーローものの最終回答を出した作品」という意見であり、これはもう完全に的外れである。
もしこれが「ダイレンジャー」の上辺だけを見た上で適当にネットで流れている意見を聞き齧ってこの意見が出たというのであれば、まだリサーチ不足で大目に見ることができただろう。
しかし、もしスーパー戦隊シリーズの全作品や東映特撮の歴史をきちんと見ていった上でこの程度の意見しか出ないのならば救いようがない、批評家・評論家としてのセンスは皆無だ。
まあそもそも特撮なんて日本の狭い一ジャンルにそんな高尚なことを語れる批評家・評論家なんて求めても仕方ないが、仮にも「オタキング」を名乗る人が底の浅い見解でいいのか?

動画の最後で氏は「ダイレンジャーにはおそらく戦争体験世代がいないのではないか?」ということを口にしていたが、それは大間違いで「ダイレンジャー」は第二次大戦世代のスタッフが数名はいる
例えば鈴木武幸プロデューサーや小林義明監督・いのくままさお監督はもろにその世代だし、また脚本家の故・杉村升氏も終戦後間もない1948年の生まれだから戦争の狂気をまだ肌身でそこそこ知っている世代だろう。
そんな世代の人たちがまだいた時代の1990年代前半のスーパー戦隊シリーズはまだ70・80年代戦隊の残滓を引きずっており、まだ完全に新時代の戦隊シリーズのニュースタンダード像は確立していなかった。
何より95年の『超力戦隊オーレンジャー』では岡田氏の言う「世界征服に基づく善悪の戦い」を一応描いた最後の戦隊だったのであるが、氏はそのことも調べた上で意見しているのだろうか?

確かに「ダイレンジャー」が当時はスーパー戦隊15作目ということもあり(『バトルフィーバー』から数えて)、王道に見せかけた変化球という一風変わったものを見せようとした作品ではあった。
しかしそれは決して唐突に生まれたものではなく、あくまでも「ゴレンジャー」から「ジュウレンジャー」までの歴史の蓄積があった上で時代の必然として誕生したものである。
陰陽思想や「気力が滅びれば妖力も滅びる」というテーゼ、そしてその末に行き着いた無限ループで戦い続けるあの最終回が当時としてはそれなりに衝撃だったが、それは決して作品としての成功を意味するものではない
何より岡田氏の意見の中にはある1つの視点が欠落しているわけだが、それは「ダイ族とゴーマ族の戦いが正義の味方と悪の組織との戦いだとどこにも明示されていない」ということだ。

こんなことをいうと「嘘だ」という人も多いだろうが事実である、「ダイレンジャー」本編のどこにもダイ族とゴーマ族の戦いが勧善懲悪だなどとは一言もいわれていないのである。
唯一4話で導師がこの戦いの起源を説明した上でゴーマをこのままのさばらせれば人類の未来はゴーマの意のままだと示したが、これとて実は導師が5人に信じ込ませるためのイメージ戦略でしかない
実際ダイレンジャーの5人は決して戦士らしいバックボーンを持っているわけではなく、単に気力があって戦士としての素質があるだけの等身大の若者であり、思想信条としての「正義」は持っていないのだ。
ましてやこの戦いが元々は六千年前の中国で起こった戦いを現代日本に持ち込んで行っていることになるわけで、そんなの無辜の日本人達からしたら傍迷惑でしかない。

中国で起こった戦いなのだから中国で済ませればいいものを現代日本を舞台にしてやっている時点で無理があり、他国の戦争をわざわざ日本に持ち込むなという話である。
しかしそれを導師は無理矢理「ゴーマは悪であり倒すしかない」と有無を言わせず亮たちに押し付けて、しかも終盤では大神龍というデウス・エクス・マキナを用いて無理矢理解決しようとした。
そんな無茶を押し通して「この戦いは永久に決着がつきません。ですからさっさと退散して50年後も戦いましょう」では何のために亮たちは命がけで戦ってきたのかという話である。
だったら最初から戦わない方が遥かに得策であるし、わざわざ導師がゴーマから離反してダイレンジャーを組織して戦わせてきた意味も全て無に帰してしまうであろう。

岡田氏はそもそもが矛盾だらけで破綻している本作を「革命的な作品」と評していたがそれは大間違いで、正確には「革命作になり損なった失敗作」ではないだろうか。
今YouTubeでちょうど終盤に差し掛かっているため、是非各自で確認して欲しいのだが、終盤の展開は無限ループだったことが問題ではなく、戦士たちが最後まで導師の言いなりから脱却できなかったことだ。
導師は要するに5人に嘘をついており、実はダイレンジャーとゴーマが戦わなくてもいいようにいざとなれば他の手段も辞さないというネガティブシミュレーションをしていた
そして終盤では大神龍が出現して「馬鹿馬鹿しい争いはやめろ」と言われ、さらに休戦協定を結んだ上で導師は子竜中尉ら穏健派と共にゴーマを内部から改革しようとしたのだ。

だからその計画を実行する段階になったらダイレンジャーなんて用済みだったのだが、言葉足らずで上手く行かなかった時のことを考えていなかった導師はそれに失敗してしまった。
導師の思惑が最終的に失敗した時、ダイレンジャーたちは改めて「なぜ自分たちはゴーマと戦うべきなのか?そもそもこの戦いが正しかったのか?」という問いと向き合うべきだったのである。
しかし5人はゴーマと和解する方向にも、そして自分たちを犠牲にしないように戦いを終結へ持っていくこともできず、結局「導師の仇討ち」という復讐以外での動機でしか動けなかった
それはヒーロー作品としては間違いなく「失敗」「敗北」を意味するものであり、『鳥人戦隊ジェットマン』が切り拓いた新境地のその先を行くものにはならなかったのである。

ただ、岡田氏の指摘する「世界征服を企む巨大な悪とそれを迎え撃つヒーローとの戦いが成立しなくなった」というのはその通りであり、これには大きな理由があった。
それは冷戦が表向きの終結を迎えてベルリンの壁が崩壊したことで、現実に「巨大な悪と正義の味方」の構図が存在しなくなり、故に旧来のヒーロー像と悪の組織も説得力を持たなくなったのである。
その冷戦時代の構造を再び描こうとして失敗に終わったのが上記の「オーレンジャー」だったわけであり、最低でもここまで見て初めて「ダイレンジャー」がどんな作品だったかが窺えるであろう。
つまり脚本家の杉村升氏をはじめ当時の作り手は来るべき平成の世にどのようなヒーロー像と悪の戦いを作り出せばいいのかわからず、試行錯誤と迷走を繰り返した時期だったのだ。

そうして行き着いた結果が「善と悪が表裏一体の存在ならば、そもそも悪の組織が根本から無くなることはない」という身もふたもない結論を出したのが「ダイレンジャー」だったということである。
そして気力も妖力も元が1つである以上持っている力の差はないわけであり、更に世界征服をしたところでその先に何を成し遂げたいのか?を描かないと正義の味方と悪の戦いは成立しない。
つまり「世界征服」の戦いが古臭くなって説得力を持たない以上どうすればそこから先を描けるか?という話になるが、実はもう一足早くこの問いに答えを出した作品があった。
それこそが当時大人気であった「ドラゴンボールZ」のサイヤ人編〜ナメック星編(フリーザ編)までの話であり、あれはもう「地球の覇権を握る」なんてレベルの話ではない

ベジータたちサイヤ人ならびにフリーザ一味は戦闘民族として次々と侵略し、高く売れないと判断すれば自分たちの持っている力でいつでも星を破壊できるのである。
彼らは世界征服なぞ最初から興味はなく、もし話し合いが通用せず利用価値がないと判断したら「殺す」「滅ぼす」以外の考えを持っていない、最初から話し合いが通用しないのだ。
そしてスーパー戦隊シリーズにおいてそんな規模の話を描いたのがそれこそ1998年の『星獣戦隊ギンガマン』であり、あれはもはや「ドラゴンボールZ」のサイヤ人編〜ナメック星編の規模感があった。
宇宙海賊バルバンはそれまでの敵組織とは違い最初から「世界征服」に興味はなく、ダイタニクスに地球を食わせて星の命という宝石に変えて宇宙を荒らし回ることが目的である。

初代ギンガマンの封印が強固だったために魔獣ダイタニクスの復活に3クールを要したが、もし第一章の段階で魔獣ダイタニクスが復活していたら地球はギンガマン共々終わっていたであろう。
世界征服なんて生ぬるい、単独でいつでも星を破壊できるサイヤ人クラスの戦闘力を持ったバルバンと同じくらいの戦闘力を持つ銀河戦士との血で血を洗う死闘が「ギンガマン」の戦いであった。
そしてそれはお互いにどちらかが滅びるまで永遠に続くものであり、しかもどちらも「星の力」を使っているため、最終的には「その力をどう使うのか?」という心の問題になってくる。
だからこそヒーローは今一度自分たちの持っている力を誇示せず驕らず謙虚に邁進し続けなければならず、また最後は司令官がいなくても戦えるようにならなければならない。

「ダイレンジャー」で限界が示されたスーパー戦隊シリーズの正義と悪の戦いを「ドラゴンボールZ」のサイヤ人編〜ナメック星編のスケールで描きニュースタンダード像としたのは「ギンガマン」である。
そしてその2年後の『未来戦隊タイムレンジャー』はその「ギンガマン」が切り開いた血路の更に先を行く新境地となり、大人の世界における複雑な善悪の物語を描いたのだ。
岡田氏は「ダイレンジャー」がヒーローものの最終回答と言っていたが、すでにスーパー戦隊シリーズにはその先を行く作品があって、新境地は開拓されているのである。
ただ、「タイムレンジャー」まででもう文芸的にやり尽くせるところまでやり尽くした感はあり、そこからの更なる革新は難しいものとなっているわけであるが。

別に岡田氏がスーパー戦隊シリーズを語るなと言っているわけではない、しかし語るのであればもっと細かくシリーズの歴史を見て、最低でも「ゴレンジャー」〜「ジュウレンジャー」までを見て意見していただきたい
今の時代ならば東映特撮FCなりYouTubeなりいくらでも過去作品を見られる環境はあるのだからそこを活用すればいいものを、適当に聞き齧った又聞きの浅薄な知識で論じるのはご法度である。
改めて思うことだが、こういうウケ狙いのためなら原典を歪めて語ってもいいとする曲学阿世な連中を見ると、スーパー戦隊シリーズの持つシンプルさの奥に隠れた深い文芸性が論じられる日はまだ遠いなあ。

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