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映像作品に高度な演技力が必要という真っ赤な嘘

同じ映像作品でも映画とテレビドラマの違いについて調べて見たところ、こんなことが書かれてあった。

一般に、映画の方がテレビドラマよりも製作にコストと時間が大きくかかっている。また、映画とテレビでは画面の大きさが違うのでカメラワークや演出方法が異なる。
例えば、テレビではバストショット(俳優の上半身のアップの映像)が多く、また途中にCMが入り中断されるので、視聴者の興味を途切らせない演出が使われる。一方、映画では横長の画面にあわせたロングショットが多く、そのため俳優には高度な演技力が必要であるとされる

概ね間違ってはいないのだが、最後の「一方、映画では横長の画面にあわせたロングショットが多く、そのため俳優には高度な演技力が必要であるとされる」というのは真っ赤な嘘である。
どうにもこの辺りの違いをわかっていない人が多いのだが、よく東映特撮では(かつての私も含めて)役者の演技が棒読みなのを「大根演技」「学芸会」と評することも少なくない。
それこそテレビドラマでは「木村拓哉は何を演じても「キムタク」でしかない」と言われるし、同じようなことは例えば「宮内洋は何を演じても大体が宮内洋」ともいえる。
ただ、これに関して最近は「それは受け手の側が映像作品における演技論がいかなるものかを知らないで文句をつけているだけではないか?」と自戒も含めて思うようになった。

映画ファンなら絶対に押さえておきたい必読書『映画術』の中でヒッチコックは映画における演技論についてこのように語っている。

わたしの気に入らなったのは、ポール・ニューマンの演技だ。きみも知ってのとおり、ポール・ニューマンはアクターズ・ステュディオ出身の俳優だ。何も表現していない、いわば中性のまなざしが、わたしには、シーンを編集するために絶対必要だったが、ニューマンはそんな、何も表現しない中性のまなざしで見る演技をいやがった。工場のシーンで、ポール・ニューマンは(グロメクを殺した直後に)グロメクの兄に会う。そのとき、彼はグロメクの兄のほうに、単純に無意味に目をやることができず、アクターズ・ステュディオ方式で、例のごとく顔をちょっとそむけながら、思いいれたっぷりに演技してみせた。編集でなんとかそこは手直しできたけれども、結局シーン全体をカットしてしまった。

『映画術』323〜324頁

そう、ヒッチコックは決して「考える演技=いかにもハッタリを効かせたようなクサい芝居」を役者にさせなかったことで有名な人である。
例えば映画史に残る傑作『サイコ』のシャワーシーンですらも叫ぶところ以外女優はほぼ裸で立っているだけで、叫び方も紋切型である。


『サイコ』の名シーン

このショットを今の若い人たちが何の予備知識もなしに見たら「ジャネット・リーは大根演技しかできない三流の役者である」とでもいうのであろうか?
同じようなことは例えば小津映画や北野映画にもいえて、例えば『東京物語』の原節子が顔を覆って「とんでもない!」と嗚咽を漏らすショットも同様のことがいえる。


『東京物語』のラストで嗚咽を漏らす原節子

このショットを例えば蓮實重彦が批評し再評価されるまでは「原節子だけではなく、小津映画の役者たちは大根演技で棒読みだ」という誹謗中傷が常であった。
しかし、映画をみて詳しくなっていけばいくほど、それが完全な的外れでしかないことがわかってきて、このシーンはこれ以外に撮りようがない。
北野映画でも役者はほとんど演技をせず棒立ちな瞬間が多々あるのだが、それは画面の運動としてのバランスを重視して意図的に演技をさせないのである。
同じようなことはクリント=イーストウッドにもいえて、イーストウッドは決して役者にわざとらしい芝居をさせないし、何だったら見たこともない素人を起用することもあるのだ。

映画において役者の演技は実はそこまで大きな問題ではないのだが、我々一般人が役者の演技をそのように評価してしまうのは「メソッド演技法」というストラスバーグの悪影響であろう。
それこそ私が戦隊シリーズ随一で大好きな『星獣戦隊ギンガマン』(1998)に関しても、演技に関して以下のようなことが書かれてあった。

『ギンガマン』のキャストさんたちは、正直言って、あまり……うまい、いかにも役者さんって感じではないんですよね……なので、初めは特にそれが気になるんです。役者さんは、声が大きく出る。滑らかな声。も大事な資質かなと思います。そうでないと、そこで既にシンドイ。負担を上乗せしてやる事になる。そして、セリフまわしや声色のコントロールもしにくい状態。伝わり難いことになる。演じる上でのセンスも大事だけど、その辺も一つのポイントかなぁと思います。

正直云って演技もセリフも下手です。しかし実に真剣味が感じられ、好感が持てるのです。『ウルトラマンダイナ』の防衛組織・スーパーGUTS(ガッツ)の隊員連中に爪の垢を煎じて飲ませたいくらいであります。

書き方は違えど、どちらもリョウマを演じている前原一輝氏たちの演技が棒読みで下手であるというが、私はむしろあの演技や台詞回しじゃなければダメだと思っている
どうもこの人たちも含めて、映像作品において役者の演技を評価する時の基準が「メソッド演技法」であり、自然さを意識した演技をダメだと非難する向きがあるからではなかろうか。
しかし、このメソッド演技法はあくまでも「舞台」で生の芝居を前提として多くの観客に届けるためにああいう演技にしているだけであり、映画やテレビドラマのような映像作品に必ずしも通用するものではない
なぜそのようなイメージがつくのかというと、やはり黒澤明がそういう芝居をさせていたからだろうし、例えばロボアニメだと長浜ロマン三部作が正にそんな演技をさせていたように思う。

北野武監督はだから役者の演技論に関してあまり細かい注文をつけることはなく、基本的によほどのことがない限りはぶつけ本番の一発で終えてしまうのだという。
よほど目線や仕草が変だったり違和感があったりする場合を除いて演技をさせないのだという、その方が変に芝居がクサくならずに映像を楽しんでもらえるという配慮からだ。
だから映像作品において高度な演技が要求されるというのは真っ赤な嘘であり、それこそ是枝監督の最新作『怪物』でも安藤サクラをはじめ瑛太も他の役者も普通の芝居であった。
第三幕なんてほとんどを子役2人の遊びだけで成立させていて、いかにも大仰な感じがない台詞回しその他も本当に単なる等身大の少年以上のものではない。

舞台での演技と映像作品における演技は違うのだということをきちんと認識してから見ないと、こういう勘違いを起こしかねない。
要するに映像として違和感がなければそれでいいのである。

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