スーパーロボット大戦30周年企画・ロボアニメレビュー12作目『機動戦士ガンダム』(1979)
さあいよいよ来ました、ロボアニメ史並びに日本アニメ業界にとって大きな転換点となる「機動戦士ガンダム」…この作品を語るのは私にとって1つの大きな壁であります。
というのも、私がガンダムシリーズで最初に見て、シリーズ全体を見た今でも一番好きな作品である「機動武闘伝Gガンダム」は本作がなければ生まれないものだったからです。
私自身は「Gガンダム」を子供の頃に楽しませてもらった世代ですが、しかし富野ガンダムファンや富野信者、いわゆる「富信」が「Gガン」をひたすら目の敵にしてこき下ろしたのを長らく見てきたからです。
もちろん全員が全員そうではなく真っ当なファンもいるのですが、そういう「富信」からの口撃、批判を超えた誹謗中傷を実際に受けたことがあるので凄く苦手だったのです。
ガンダムシリーズはいわゆる特撮のウルトラシリーズ、ライダーシリーズ、そしてスーパー戦隊シリーズのいずれとも異なる独特の進化・派生の仕方をしたシリーズとなっています。
何が恐ろしいってシリーズの7割弱が富野ガンダムあるいはそれに準じた宇宙世紀の世界観・ストーリーであるところで、むしろ「Gガンダム」のように独立した世界観・ストーリーの作品は少ないのです。
そしてその中でも原点にして頂点とでもいうべきこの「ファーストガンダム」は偉大なる原点ではありますが、ちょっと褒められすぎではないかとずっとわだかまりがありました。
また、スパロボシリーズでも原作再現がほとんどなく、強いていえば「俺を踏み台にした!」や黒い三連星ネタ、ジオングなどのネタ的要素ばかりで、1年戦争それ自体が原作再現されることはほとんどありません。
そのような印象もあったこと、また見てみると意外に地味だったこともあって「どこが凄いの?」という感じて、過大評価だったのではないかと思い、最初見たときにその魅力がわかりませんでした。
結果として、本作の魅力を理解するに至ったのは本当にわずか数年前にロボアニメの歴史を体系的に見て、全体で俯瞰した数年前のことなので、未だに全てを理解しているわけではありません。
しかし、流れから見ていると「確かにこれはアニメ史上に残る傑作だ」と納得させうるものはあり、改めて「面白い」と感じられるに至りました…富信そのものは未だに大の苦手ですがね。
そんな私から見た本作の魅力はそれこそ「ジェットマン」の評価記事でも触れましたが、とにかく「人間ドラマ」に重点を置いたこと、そして「ボルテスV」までで完成した70年代ロボアニメの壁を打ち破ったことです。
よく本作の評価で言われる「勧善懲悪ではなく人類同士が争う〜」だの「スーパーロボットではなくリアルロボットだから」だの「主人公たちが素人だから」だのといった評価は私にはピンと来ません。
それらは結局本作の人気が爆発した時の評価である気がして、私にとっての「ファーストガンダム」はまた違うものであり、だから原体験世代ではないズレた評価であることは最初に言っておきます。
では私なりに感じた「ファーストガンダム」の魅力がどこにあるのか、以下の要素を論いながら述べていきましょう。
(1)ガンダムは本当に「リアルロボット」なのか?
よく本作の魅力として語られる「リアルロボット」、すなわち「初めて戦争の兵器として使われるMS(モビルスーツ)」という評価ですが、まずこれが私にはピンと来ませんでした。
地球連邦という公共機関が生み出したという点では「コンバトラーV」「ボルテスV」「ダイモス」がやっていることですし、その演出手法も「マジンガーZ」の直系です。
アムロという少年が偶然に巻き込まれでガンダムに乗った設定になっていますが、そのガンダムを開発したのはアムロの父・テムレイであり、70年代ロボアニメで散々使われた出撃になっています。
また、「アムロいきます!」(劇中ではそんなに言っていない)も「マジーンGO!パイルダーオン!」「ゲットマシン発進!」とそんなに大きく変わりません。
また、ガンダムAパーツ、Bパーツとコアファイターの合体シーンはまんまゲッターロボの合体シークエンスを少しリアリティのあるものにした程度です。
必殺技を叫ばないヒーローという要素も当時は画期的だったかもしれませんが、今見るとあくまで差別化を図るためであり、今見るとむしろ新鮮味はあまりありません。
その他ビームサーベルでの斬り合いやバズーカ発射、ビームライフルの発射など、その全てがとても「リアル」とは程遠い古典的スーパーロボットの演出手法でした。
特に後述するアムロとランバ・ラルの一対一のチャンバラに関しては時代劇のそれを取り入れた殺陣をロボットアニメでやっているにすぎません。
そもそも第一話で立ち上がった段階で、ガンダムはザクのノズルを右手で掴んで引きちぎる力技を見せており、「Gガンダム」第一話のシャイニングフィンガーなどはほぼこのアクションのセルフパロディです。
この戦闘シーンに「Gガンダム」の「我が心明鏡止水」のBGMをつけて同時再生すると立派にスーパーロボット作品になるのであり、根っこはあくまでも70年代ロボアニメの残滓が強くあります。
それくらい「ガンダム」という作品でよく言われるエポックメイキングな点は戦隊シリーズにおける「ジェットマン」がそうであるように、取り立てて70年代ロボアニメから飛躍したものではありません。
むしろ過去作が積み上げて来たものを丁寧に吸い上げつつそれらを解体し、その上で80年代以後につながっていくロボアニメへの突破口を切り開こうとしたのではないでしょうか。
戦艦や戦闘機を用いたメカニックやビジュアル自体が「スターウォーズ」で確立されたもののアレンジですし、本当のリアルさを求めるなら酸素がない宇宙での爆発自体がおかしいことになります。
だから、本作のロボアクションはそんなに目新しいものを使っているわけではなく、70年代ロボアニメや「2001年宇宙の旅」「スターウォーズ」といった先達のSF作品に毛が生えた程度です。
それでも受け手に新鮮に映るのはビジュアルそのものではなく、後述する文芸的要素、すなわちドラマの部分にあります。
(2)メインで描かれているのは「SF考証」でも「政治劇」でもなく「人間ドラマ」
本作のメインで描かれているのは「SF考証」でも「政治劇」でもなく「人間ドラマ」であり、「ヤマト」や長浜ロマンから続くドラマ性重視の作劇として本作はその1つの完成形に達しました。
面白いのは本作のホワイトベース隊が「プロと素人」「公と私」の双方を取り込みつつ、いわゆる「望んでなった」のでも「望まれてなった」わけでもない設定だということです。
これこそが大きな差となっており、「闘将ダイモス」までは基本的に「望まれてなる」か「望んでなる」かのどちらかで、主人公たちはあっさりと覚悟を決めて戦っていました。
それが素人の集まりであろうとプロ集団であろうと大きな差はなく、一度覚悟を決めて戦うことになればもうそれで最終回まで描かれることになるのです。
しかし、本作のホワイトベース隊はアムロをはじめほぼ全員が未経験のど素人ばかりであり、唯一の正規軍人は艦長のブライト・ノアとリュウ・ホセイくらいしかいません。
そしてそのブライトはまだ研修を終えた新人艦長であり部下を指導した経験は一度もなく、リュウもまた単なる専門バカというか、軍人としての戦い以外何もできないのです。
この設定は「ジェットマン」だとまんま研修上がりの新人女性長官である小田切綾、そしてスカイフォースの正規戦士として戦う以外にさほどの能がないレッドホーク/天堂竜というのと似ています。
他は全員民間上がりの素人ばかりで、初期2クールは特に絆や連隊といえるほどのものもなければ、完全に自立した個人でもないという「人間以上戦士未満」の集まりでした。
そんな彼らが最初はただただ「生き延びるため」という私的動機で動いていたのに対して、徐々に連携しながら動くことを覚えていきチームワークを意識した公的動機で動くようになります。
これは正に「ダイモス」の一矢が提唱した「私的動機から公的動機へ」をさらに素人という設定にすることでうまくクリアし、ロボアニメの歴史を大きく変えたのです。
また敵側のジオン公国の内輪揉めやシャアのザビ家に対する個人的復讐なども前作「ダイターン3」のそれをやや陰湿にしたものであり、時代劇の文脈に則っています。
だから、本作が描いているのは70年代ロボアニメが敢えてやらなかった登場人物同士の生々しい価値観の相克とそこから生じる軋轢と成長という極めて王道的な人間ドラマです。
ミノフスキー粒子だの専門用語はいっぱい出て来ますが、根っこにあるのは真っ当なヒーローものであり、単にそれが同じ人類同士に変わったというだけではないでしょうか。
だから、本作で描かれているアムロたちのヒーロー像やシャアたちジオン公国のキャラクターも特別なものではなく、むしろとてもシンプルなキャラクターです。
ただし、内面の生々しい人間の弱さ、業をしっかり描いた上でそれをヒーローものとしての成長に結びつけることでうまく設定を消化しました。
SF要素だの政治劇だのといったものはあくまでもそれを盛り立ててそれらしく見せるための飾りであり、メインはあくまでシンプルな「人間ドラマ」です。
その点において本作はそれまでのロボアニメ作品と差別化を図ることができました。
(3)「ヤマト」「ボルテスV」を超えた本作の「悪」の本質
本作をヒーローものとして見た場合の文芸としての真骨頂は本作が示した「悪」の本質が「ヤマト」「ボルテスV」を超えたことにあります。
「ヤマト」は最終的に「戦うことではなく愛するべきだった」と男女の愛をロマンとして示すことによって、地球を再生し癒しました。
続く「ボルテスV」ではその「愛」という個人では解決できない「戦いの仕組みを作った社会そのもの」と健一たちは戦うことを示しています。
その2作を本作は21話「激闘は憎しみ深く」で何が本作の世界における「悪」なのかを示して超えて見せたのです。
ブライトが初めて人間としての脆さ、弱さをアムロたちの前で露呈させたのですが、唯一の正規軍人だったリュウが死に、アムロたちは組織としての求心力を失いました。
そしてセイラとアムロは本作における悪が「戦いそのもの」にあることをはっきりと打ち出し、これが「ボルテスV」との大きな違いとなったのではないでしょうか。
ボルテスの場合「社会そのもの」だからその社会システムの根幹を成す親玉というか獅子身中の虫を倒せば戦うが終わるという風にゴールがはっきりしています。
しかし、アムロたちホワイトベース隊はその獅子身中の虫と呼べるジオン公国、もっと言えばザビ家の根深い業に気づいたとしても、ゴールが見えないのです。
仮にザビ家を滅ぼしたとしてもこの地球連邦とジオン公国の戦争がなくなるほど問題は簡単ではなく、かといって肉親の情愛といったもので解決することもしていません。
むしろ肉親の情愛は悲惨な末路を辿ったアムロの両親との別れで否定しており、アムロたちはとにかく悲しい思いをすることになっても戦争が終わるまで戦い続けるしかないのです。
正に「血を吐きながら続ける悲しいマラソン」であり、だからこそアムロたちホワイトベース隊には「哀戦士」という言葉が相応しいのではないでしょうか。
つまりジオン公国でもザビ家でもない、社会でもないもっと漠然とした「戦争そのもの」こそアムロたちが戦うべき巨大な敵の正体だったのです。
ではその壁はどうすれば乗り越えることができるのか、それが後述するある要素になります。
(4)ニュータイプ論の賛否
本作が物語後半〜終盤で見せた解答、それは「ニュータイプ」であり、戦争を止めたければエスパーに近い存在に進化してお互いにわかり合えというのです。
私はそもそもガンダムシリーズにおけるニュータイプ自体が嫌いなのですが、それはアムロ、ララァ、シャアを英雄のように祭り上げてしまったことにあります。
これに関しては当時から非難轟々だったそうですが、戦争を解決させるためには人類が進化して賢くなるべきだという安易な結論を出してしまったのです。
このニュータイプという設定は富野監督が思いつきで出したものだったらしく、本人も相当に不味かったと反省しているそうですが、まあそれは当然だなと。
流石に物語を「ニュータイプ」で片付けてしまうのはまずいのか、最終回ではセイラに「人がそんなに便利になれるわけ…」と言わせています。
しかし、私はこの後「Zガンダム」以降で延々と続く「ニュータイプ(ないし強化人間)同士の争い」の醜さを知っているからこそ、これがいい設定だと思えなかったのです。
確かにニュータイプという設定自体は放送当時は斬新だったのでしょうが、私から見ると「オールドタイプの人間には何もできない」といってしまったことにあります。
富野監督をはじめスタッフの意図がどこにあるのかは知りませんが、ニュータイプという設定は物凄いスノビズムを感じてしまい、賢い奴が偉いという歪んだ選民思想に見えてしまうのです。
その後「逆襲のシャア」に至ってシャアが「だったら人類に今すぐ叡智を授けてみせろ」と言ってみせたように、ニュータイプ論は行き着くところ退廃的な思想になってしまいました。
だからこそおそらく後発の「ガンダムX」がそうした選民思想に頼らずとも生きていけるような世界を目指そうという風にしたのではないでしょうか、クオリティは別として。
私は正直ニュータイプ論に関しては画竜点睛を欠いてしまった蛇足設定としか思えず、21話で完成した本作のテーゼに対してむしろ横から冷や水を浴びせたようにしか見えません。
アムロたちはニュータイプ論なんてものに頼らずとも心身ともにたくましく成長したわけであり、本作を歴史に残る傑作だと思うのはアムロとホワイトベース隊の「人との繋がり」にあります。
そう、「ジェットマン」もそうであったように、本作の名作たる所以はあくまでもホワイトベース隊が1年を通じて疑似家族のように「団結」していく過程にあるのです。
アムロはブライトを父、ミライを母、セイラを長女のようにして育っていき、憎まれ口を叩いていたカイたちとも通じ合うようになっていきます。
コアファイターを脱出してアムロがブライトたちの元に帰っていき、そして仲間たちがアムロを受け入れたあの最後のカットこそが本作を象徴する「絆」なのです。
ニュータイプ論ではなく、アムロたちの精神的成長と団結こそが本作の悪を乗り越えていく最大の理由でした。
(5)「ガンダム」の好きな回TOP5
それでは最後に「ガンダム」の好きな回TOP5を選出いたします。
第5位…最終話「脱出」
第4位…13話「再会、母よ…」
第3位…29話「ジャブローに散る!」
第2位…12話「ジオンの脅威」
第1位…21話「激闘は憎しみ深く」
まず5位は最終回、これに関してはもう文句なしですが、これですらも5位になる程本作は名作回がたくさんあるのです。
次に4位はアムロと母親の別れを通して「親子の情愛」というロマンをバッサリと力強く否定しました。
3位は成長して強くなったアムロとシャアの一騎打ち、そしてウッディ大尉の死亡など純粋に単品として面白い逸品。
2位は1クールの締めにして2クール目以降にうまく躍動をつけた傑作回であり、ジオンの強大さとしての象徴であるラルとグフが最高にかっこいい。
そして堂々の1位は本作のテーゼを完成させた21話、「戦いそのもの」という個人も社会も超えた本当の「巨大な敵」を示した傑作回です。
本作は群を抜いてストーリーの出来がいいのですが、最終回ですら5位にしてしまえるほどに名作・傑作が多いことに驚かされます。
(6)まとめ
日本史上の偉大なるエポックとして語られる本作ですが、分解して見ると設定やビジュアルの1つ1つはそんなに目新しくありません。
しかし、前2作「ザンボット」「ダイターン」で得たものを教訓化し、その上で70年代ロボアニメが行き詰まっていた壁を見事に突破しました。
ニュータイプ論は正直蛇足設定としか思えませんが、それでも最終的に「仲間の絆」という王道的なもので強くなっていくアムロたちの成長が見事です。
そして、そんなアムロたちの強大な壁として立ちはだかり続けたジオン公国やシャアの存在も見事であり、歴史に残る作品であることに頷けます。
作画の拙さは確かにあるものの、それすら覆す完成度と普遍性を持つ本作の総合評価はやはりS(傑作)以外にないでしょう。
ストーリー:S(傑作)100点満点中95点
キャラクター:S(傑作)100点満点中100点
ロボアクション:S(傑作)100点満点中95点
作画:D(凡作)100点満点中50点
演出:S(傑作)100点満点中100点
音楽:S(傑作)100点満点中100点
総合評価:S(傑作)100点満点中90点
評価基準=SS(殿堂入り)、S(傑作)、A(名作)、B(良作)、C(佳作)、D(凡作)、E(不作)、F(駄作)、X(判定不能)