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『電子戦隊デンジマン』第12話『危険な子供スパイ』

◼️『電子戦隊デンジマン』第12話『危険な子供スパイ』

(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)


導入

今ではこんな風景すら見なくなりつつある

ジャンケンポン!あいこでしょ!

ベーダー視点ではなく子供達視点で始まる1クール最後の回だが、正直言ってクオリティーとしてはそんなに高いものではなく、評価としてはE(不作)100点満点中35点である。
詳細は後述するが、まず欠点としては脚本が結局のところ「二兎を追うもの一途をも得ず」「虻蜂取らず」になってしまっていることであり、何をメインで見せたいのかがよくわからない。
具体的には「子供の偽物」と「緑川の刑事時代の同僚」の2つの要素が同時進行で描かれていることなのだが、両者の処理がうまくいかなかったのか、空中分解を起こしてしまっている
2つ目に、コメントで指摘されている「巨大戦→等身大戦」という文法破り(?)が描かれたことであるが、個人的には別にこれ自体がそこまで高い評価に繋がっているわけではない。

今回のポイントは「子供達を捉えてコピーを作ること」自体ではなく「子供のコピーを送り込んでデンジランドの居場所を割り出し殲滅する」というものであり、要するにデンジマンの基地壊滅が最終的な目論見である。
前回と今回では同じ「子供の命」がターゲットにされているが、前回が「魂を奪って仮死状態に追い込む」のに対して今回が「洗脳して電子戦隊を壊滅に追い込む」というのが違いであろうか。
どちらがえげつないかと言えば間違いなく今回の方だが、問題は洗脳された子役の演技が大根すぎて、これに関しては明らかに竹本監督の指導不足としか言いようがあるまい。
「子供だから」は言い訳にならない、子役出身だって演技の上手い子はいるわけであり、そこをきちんと指導していれば間違いなく一級品のサスペンスに仕立て上げられたであろうから。

そして一番の問題は子役も同僚も、そしてターゲットとなったあきらも全てが「女性」ということであり、女性だとどうしても男性陣に比べて緊迫感をうまく演出しにくいという問題がある。
女性はどんなに頑張ってもやはり「」であり、シリアスに使ったとしても「くノ一」のようなスパイ的存在が精一杯であり、後はガチで戦わせようとするとキャットファイトになりかねない。
後半に入ると残りの男の子たちも同じ罠にかかったことで幾分緊張感は増したが、それでも女性が主体となるとどうしても「命のやり取り」の張り詰めた空気感のようなものは出しきれないのだ。
これは決して時代を問わない根源的な「性」の問題であり、だからスーパー戦隊シリーズも実は「性別」の壁にこの当時からずっと苦しんできているということが端的に見て取れるだろう。

そういう意味では今回はどちらかといえば、スーパー戦隊シリーズが根源的に抱える諸問題を露呈させた回として見るのが相応しいのであろうか。

二兎を追うもの一兎をも得ず

明らかに話と関係ない無駄な細部

最初に書いたように、脚本の観点から指摘するなら今回は典型的な「二兎を追うもの一途をも得ず」「虻蜂取らず」という構造になってしまっているのが明確な瑕疵である。
物語のメインを占めているのは「洗脳された子供」と「緑川の刑事時代の同僚」の2つであるが、サブタイトルに書かれてあり、冒頭のショットからしてもメインに据えていたのは前者だ。
ところが、何を思ったのか、作り手は後者の要素を変な形で捩じ込んでしまい、折角の緊迫した状況が後者の要素を変に捩じ込んだことによって台無しになってしまった
どうしてこのような作りになったのかはわからないのだが、前者と後者は明らかに全くの別事項であり、決して混ぜ込んで描くべき要素ではなかったのである。

そんな脚本の迷走を竹本監督自身もどうにもしようがなかったのか、映像のカット割やシークエンスなどの運び方も明らかにぎこちなく、ほぼそのまま脚本を映像として垂れ流しにしている
結果として、あきらと女の子のシーンのメインに対して、サブストリームとして描かれている緑川達也と元同僚の婦警のデート(?)シーンが何らの関連性もないままただ映像だけが流れていた。
こういう場合、大体は大元の脚本に手を加えて練り直すか、脚本通りにやるとしてももう少し自然な流れでスムーズに見せるためのモンタージュやカッティングなどにこだわって処理するものであろう。
しかし、竹本監督がその辺りのテクニックを持っていないせいか、全く別々の要素をダラダラと垂れ流すだけの下品な画面というやつになってしまっている。

それから、見せびらかすように薔薇が空中を舞う描写に関しても演出過剰であり、いかにも見せびらかしでやっているのが伝わってきて、どうにも私は竹本監督のこういうところが肌に合わないらしい。
やはり思うのだが、竹本弘一監督は「アクション」が主体の人で、上原正三は「ドラマ」が主体の人だから、相性としてはお世辞にもいいとは言えないだろう。
今回は特にそのお互いが得意とする分野がうまく噛み合わずに空中分解を起こしてしまい、やり方ではもっと面白く見せられたものが面白く無くなってしまった。
やはりこの辺り、脚本と演出の一貫性・統一性は大事であり、この辺りがきちんとしていないとどんなにいいコンビでもうまくいかないことが示されている。

洗脳された子役の演技

デンジマンに向かって爆弾を投げる子供達

2つ目の問題として、今回はメインターゲットとなった中川ゆみ子についてだが、演じる杉本華恵にあまりその素質がないのか、あまり子供スパイっぽく見えないのが難点である。
この子は『大戦隊ゴーグルV』でもコンピューターボーイズ&ガールズの一人として出ていたが、ものすごく聡明な感じの上品な子であり、全く「悪」っぽさが感じられない
だからなのか、どうしても偽物として出てきた時の演技が大根に見えて仕方なく、全く怖さや恐ろしさというものを感じさせないし、映像の上でそれを明示してしまっている
そのせいか、やり方次第ではもっと緊迫感のある画面になったであろう今回の子供スパイのサスペンスがイマイチ盛り上がりに欠け、上記のチーコの件も相まって白けてしまう。

これは決して「子役だから仕方ない」で済む問題ではないだろう、子役だってちゃんとお金をかけてオーディションをしてきちんとそういう演技ができる子たちを選べばいい話だ。
実際、例に出すまでもないが髙寺成紀三部作に出てくる子役の子達はみんなそれなりに演技達者で違和感がなかったし、ウルトラシリーズやライダーシリーズでも演技の上手い子役はたくさんいる。
こと「デンジマン」に関していうならば、まだ文体が固まり切っていなかったからこうなったのかもしれないが、子役の活かし方に関してはお世辞にも上手いとは言い難い
まあ個人的にはあきらのマンションで一緒にケーキ作ったりピアノやったりしてるシーンが一番絵にはなっていたが、逆にいうと美女同士の絡みはどこまで行こうと「華」としてしか機能しないのだ。

つまり何が言いたいかというと、子供達を洗脳して偽物を作るのは構わないが、やるんだったらもっとそれに相応しい演技力とビジュアルを持った子供を選んで展開したほうがいいということである。
映像作品として出す以上はやはり映像そのものにしっかりとした説得力がないと成立しないわけであって、今回は発想自体は悪くなかっただけにもっと上手い素材の活かし方があっただろう
「役者とは良き素材であるべき」とは全盛期の日本映画のとある大物女優が述べていたことだが、それは決して大人だから子供だからではなく「役者」として出る全ての人に言えることだ。
後半では男の子たちも偽物が作られていたので、幾分緊張感も増したが、これなら最初から5人の子供達の偽物を作ってチームワークでデンジランドを潰す作戦として展開した方が良かったのではないか。

都合よく戦いの尖兵として使われる子供達の悲劇性を出したいのはわかるのだが、今回のような出し方ではあまりにも安っぽい学芸会じみたものになってしまうのが関の山である。

巨大戦→等身大戦という文法破りについて

巨大戦後の等身大戦

さて、今回は歴代初といってもいいであろう巨大ロボ戦→等身大戦という通常の逆パターンが文法破りとして提示されており、これに関してコメントでも指摘があった。
スーパー戦隊シリーズというと、今日までで大きな形式(様式)の1つとして等身大戦→巨大ロボ戦という流れが組み込まれたわけだが、今回はマンネリ防止のためか、その逆パターンが提示されている。
すなわち巨大戦を最初にやってから等身大戦でトドメを刺すという流れなのだが、今作においてこれが有効に機能しているかといえば、残念ながらそうは言い難い
というのも、そもそも巨大ロボ戦→等身大戦の流れ自体は70年代ロボアニメの作品の幾つかで提示されていたものであり、それをスーパー戦隊が輸入してきたのである。

代表的な例で言えば『超電磁マシーンボルテスV』の最終回で描かれた剛健一VSハイネルの一騎打ちやその流れを汲んだ『機動戦士ガンダム』の最終回で描かれたアムロVSシャアの一騎打ちがすでに示されていた。
長浜ロマン→富野ロボでその作劇と演出手法は1つの完成を迎えたわけであり、それをスーパー戦隊シリーズの流れの中で輸入したと考えれば別に文法破りでも何でもないのである。
強いて違いを挙げるなら、ロボアニメのそれが「主人公とライバルの因縁の決着」という時代劇の文脈を取り入れているのに対して、今回のこれは単なる「やってみました」の領域から抜け出ることはなかった
また、初回から示されていたこととしてベーダー怪物は自分自身で巨大化もできればその逆の縮小化までできてしまうわけであり、一人でビッグライトとスモールライトができてしまうのだ。

膨張も圧縮も変幻自在にできるものがいつもと違ったパターンをやったところで別段それは驚きたり得るものではなく、「そんな程度はできて当然」と思われてしまい説得力がない。
つまり、演出上と作劇上の必然があってその流れになっているわけではなく、たまたま「それが自由にできます」と設定されているから単なる見せびらかしでやったに過ぎないのである。
これはつまり大元の設定の段階で失敗してしまったことになるわけであり、これが『電撃戦隊チェンジマン』でギョダーイという巨大化要員を経て、90年代以後は巨大化に制約と誓約を持たせることとなった。
特に小林靖子がメインライターを担当している戦隊作品では巨大化に際してきちんと一定の説得力ある理由を提示しており、そこが大きな差となったのであろうか。

総じて、やはり「デンジマン」は「戦隊シリーズの基礎」を確かに確立してはいるが、決して「最高傑作」と呼ばれるほどのクオリティーではないということだろう。

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