専門バカになってしまうことの怖さを我々に教えてくれるドワンゴ川上VS隠岐さや香の激論!
日本の討論番組はなぜこうもくだらないのだろうと常々思っているのだが、今回のこれを見ていると理由の1つにはこういう「専門バカ」が大量にいるからではないか?と教えてくれるいい教材である。
この動画は「文系不要論」をテーマに理系代表の川上量生と文系代表の隠岐さや香が激論を交わしているわけだが、実際はほぼほぼ川上の一方的かつ狭量な主観の押し付けに終始していて議論にすらなっていない。
京大出身の天才はいわゆる「頭がおかしい人」が多いと聞くが、まあ確かにwakatteの高田ふーみんしかり全員が全員ではないが東大に対する妙なコンプレックスを抱えている人が多いのだろう。
ドワンゴ川上の場合は更に「理系バカ」という属性までついて回るのでとにかく理系信仰が過剰に行き過ぎてもはや自分の成功体験を基にした確証バイアスでしか話せなくなっていることが素人目にもわかる。
特に「文系の人は論理的なことができるにもかかわらず、論理を詭弁に使ったりする」というくだりは明らかな偏見であり、それは文系・理系という括りではなく個人の属性や組織のスタンスによるものではないか?
文系だって真っ当に物を考えられる人は沢山いるし、逆に理系出身でも自身の持っている技術や学力を不純な目的で客観的に見てよくないことに使う人だって沢山いる。
それこそアイン・シュタイン然りトーマス・エジソン然り世に言う「天才科学者」と呼ばれるような人たちはその天才的な発想が悪用されたり、明らかに世の中の迷惑になることだってあったのだ。
日本に二度も落とされた原子爆弾にしたってアイン・シュタインが生み出した相対性理論をはじめとする論理を誤った目的で使用した例であり、実害を出しまくっているが故に文系よりもタチが悪い。
確かに文系バカだって行き過ぎるといわゆる「お気持ち表明」みたいな支離滅裂な方に暴走したり、それこそ説得するスキルを悪用してお金を騙し取る詐欺などに繋がってしまうこともあるだろう。
しかし、それは別に理系がどうとか文系がどうとかいう問題ではなく、せっかく大学で得た専門分野の知識・知恵をそういう悪しき方向にしか使えないその人の人間性や心構えの問題ではないか?
冷静に考えればわかるであろうことを主観を挟んだが故に問題を必要以上にこじれさせてしまう訳であり、そりゃあ宮崎駿監督から総スカンを食らってしまうわけである。
ドワンゴ川上は確かに実業家としては超一流だと思うしサービスも凄くクオリティーが高いが、経営者としてはともかく人としての魅力が全く感じられず言い方にも発言の内容にも知性・品性がない。
ただ、一方で隠岐さや香の反論というか返しが今ひとつ弱かったのも事実であり、しかも「文系VS理系」という構造にしてもどこを物差しにして何をゴールに設定してディベートをしているのかも曖昧である。
「理系か文系か」という二項対立にしている時点で全く知的な論題ではないし、お互いに全く種類が違うものを競わせてどちらが上かなんていうことを議論したところで無意味である。
スポーツで鑑みるならば「テニス選手と野球選手、どっちが優れているのか?」を競い合った上で「日本では野球の方が知名度も人気もあるからテニスはダメな競技だ」というようなナンセンスさだ。
しかし、日本の常識は世界の非常識とはよく言ったものであり、実は世界全体で見ればテニスの方が圧倒的に競技人口も知名度も人気もあり、意外と野球の方がマイナーなスポーツなのである。
それくらいナンセンスなことを議論していることくらい少し考えればわかるはずなのに、なぜこの人たち(特に理系バカの川上)はそういうごく当たり前の事実に気がつかないのだろうか?
本当は気づいていてあえてカメラの前でパフォーマンスとしてやっているのか、それとも本気でそう思って発言しているのかはしらないが、前者ならまだ理解できなくもないが後者であれば救いようがない。
そもそも「就職の有利不利」「社会的利益」といった極めて狭い単一的な物差しで文系と理系のどちらが優れているかを議論する方が本来はおかしいのである、結局それだと有用性の有無でしか測れなくなるからだ。
逆にいえば、戦後日本の受験戦争をはじめとした学校教育の弊害が未だに根強く残っており、ドワンゴ川上はその弊害がもはや人格にまで影響を与えて抜け出すことができなくなっている悲劇の産物の象徴だろう。
教育未来創造会議の割り出した理系文系の所得比較も一見したところ理系男子の方が高いので文系不要説をサポートしているように見えるが、そもそもデータ自体が2011年と古いし何人の大卒を基に調査したのかも明らかではない。
高学歴の人たちのみなのかFランまで含む日本全国の全ての大卒に対して行ったのかも分からないし、また卒業後どの会社に就職しどんな職種についてどんなキャリアを歩んでの所得なのかさえ示されていないのである。
統計学を少しでも勉強したことがある人はご存知だろうが、たとえ小規模のアンケートであってもその辺りの前提をきちんと踏まえて算出することが肝要であり、そこの解像度・具体性が低いと信憑性は薄くなってしまう。
国がこんな杜撰なデータの出し方でいいのかという疑問も残るし、しかもこのデータが絶対的だからといって「文系は不要!理系しか勝たん!」というのは幾ら何でも無理がありすぎる。
これらの動画に限らず、昨今の風潮として益々文系への風当たり・バッシングが強く、まるで文系出身者に肉親でも殺されたのかというくらいに文系をひたすら貶めて理系を有り難がる風潮を加速させようとしているのだ。
そうやってきた結果この国は何を生み出したかというと、何でもかんでも最先端の科学技術がもたらすAIやネットワーク社会を賛美する一方でアナログな物や「美しい」と思う感受性を「くだらない無価値のもの」と見下すつまらない人間ばかりである。
つまりそれはイギリスの産業革命に端を発する工場製労働の隆興とそれがもたらす科学信仰が歪めてきたこの400年のものばかりであり、それこそ以前の記事で紹介した富野由悠季監督と落合陽一の対談はこの風潮に対して異議申し立てを行うものだった。
富野監督の指摘する「農耕社会と植物性・身体性に張り付いて物を考えていかなければならないのが、はたしてそのような社会になったのか?」というのは慧眼であり、彼がロボットアニメというジャンルを嫌っていた理由もわかるだろう。
彼は単純に「ガキ向けの低俗なものだから」という理由だけでロボアニメを嫌っていたわけではなく、ロボットに依存しなければ戦えないフォーマットそのものの限界性が引いては上記の偏った理系バカを大量生産することに繋がりかねないからだ。
そう考えると「∀ガンダム」で彼が世界名作劇場路線でそれまでのスペースオペラをベースにした近未来SF路線の真逆へ行き着いたのもある種の必然性がそこにあったということになる。
私は間違っても富野信者ではないし彼の主張する「世直し・人生論」なるものには1ミリも共感しないが、一方で「理系バカが跳梁跋扈する現状を許すな!」という点においてはその通りだと思う。
淀川長治も生前にエッセイを残されていたが、CGによる表現とやらが増えた代わりにクリエイターが喪失したものが正にそれであり、最先端の科学技術にばかり頼る奴が増える一方でセンスやフィーリングが軽視されるようになった。
「映画だからこそできること」「映画ならではのエンターテイメント」という根幹を考えることすらせずに、ただ最先端の技術があれば何でもできる奴が主導権を握って映画なんか作っているからつまらないのである。
それを懐古厨だの老害だの言いたければ好きなだけ言えばいい、だが昔に戻って根本から考え直さなければならないほどに人類の歴史がとんでもない方向に進もうとしているのを黙って見過ごすことはできない。
その意味ではまだ「ゴジラ-1.0」は比較的マシだが、ここ数年の映画をはじめとする映像作品が「見ている側を楽しませるエンターテイメント」ではなく「最新の映像技術の紹介動画」になってしまっていないか?
例えるなら『食戟のソーマ』で幸平創真に負けて改心する前の薙切アリスであり、彼女は最先端の技術を使った弁当などと称しながら結局のところは単なる「ガストロノミーの技術紹介」でしかなかった。
一方で創真は「弁当だからこそできること」「弁当料理を進化させる工夫」を考えついて更にその先を開拓しようとしており、あくまでも「弁当ならではのエンターテイメント」を追求したのである。
大事なことなのでこれからも何度も言わせてもらうが、最先端の技術はあくまでも「手段」であって「目的」にはなり得ないのであり、だから「文系か理系か」なんて議論自体がそもそも愚かしい。
それは競技の種類やアプローチが違うだけであって、どちらにしても「他に貢献し人々を幸せにすること」が本来の目的なのに、その本質を見失った曲学阿世の醜いレスバばかりが繰り広げられている。
風の時代は正にこういう「地の時代の悪しき思考・風習」をこそ真っ先に淘汰しにかかるであろうし、理系文系を問わずこれからは自分の足で立って歩き思考・行動しない人間は弾かれていく。
会社・学校・家族などの共同体や「年収いくら?」といった稼ぎに依存する時代、マイホームやマイカーを持つことが幸せだとする時代はとっくに過ぎ去った。
それにもかかわらず、蓋を開けてみればまだ人々は「年収いくら?」といった物差しでくだらない議論を繰り広げており、ましてやそれが京大出身の人ですらそうだとはね。
何だか書いている私もまた虚しさに襲われるが、こういう専門バカにならないようバランスを取っていかなければと我が身を振り返る次第である。