私は「作品」が好きなのであって「作家」が好きなのではない
SNSなどで東映特撮の脚本家や演出家について検索すると妙な違和感に襲われることばかりなのだが、この人もその一例であろうか。
ニコニコ動画で歌い手・実況者として人気の方であり、私は過去にニコ厨だった時、1回だけ2008年12月の埼玉のオフ会で会ったことがある。
今でいう「ネットインフルエンサー」のはしりだが、彼女の残している作品はともかくとして、SNSでの呟きを見ると「?」に思うことも多々ある。
別にクリエイターとして人気と知名度がある人が人間性や発言まで素晴らしくある必要はないが、小林靖子が担当した作品だから素晴らしいという論調はどうなのだろうか?
それこそ私もここ最近小林靖子という脚本士について記事を生意気に書かせて頂いているが、大事なのはあくまでも「作品」であって「作家」ではない。
特撮に限らないことだが、どんなジャンルでも日本という国のメディアはどうしても特定の個人を過剰に取り上げて箔を付けて特権化したがる傾向がある。
最近でいえばWBCで活躍し注目を浴びている大谷翔平選手がそうだが、WBCで優勝したのは日本代表チームのプレイが素晴らしかったのであって、大谷翔平個人だけが凄かったのではない。
個人競技のテニスなどだったら全て自己責任だから個人が賞賛されるのはわかるが、野球やサッカーのようなチームスポーツでの勝利を個人の偉業として還元するのは話が違うだろう。
国民栄誉賞なんて大した価値があるとも思えないものを授与された松井秀喜然りメジャーの鈴木イチロー然り、私は彼らの「プレイ」が好きなのであって「人間性」が好きなのではない。
それこそテニスでいえば松岡修造や錦織圭もそうだが、私は彼らの「テニススタイル」が好きなのであって「人間性」「キャラクター」に関する部分は興味がないのだ。
彼らが試合で残したプレイやゲームメイクには興味があっても、彼ら個人の趣味や考え方まで見たいかというと別にそんなことはない。
これもテレビというメディアの悪影響なのだろうが、テレビは数字狙いのためかやたらと特定の個人にキャラをつけて粗雑にいじる傾向がある。
こないだやっていた明石家さんまの東大辺りがそうだが、河野玄斗をはじめあそこに出ていた高学歴インフルエンサーの雑で不愉快な弄りは唾棄すべき汚物だ。
話を戻して、上記の人も「小林靖子のライダー作品は頭狂う程面白い」と述べてはいるが、ではどの辺りがどう面白かったかに関しては(過去ログ含め)具体的な記述がない。
単に見た映像への感動を言語化するだけの能力が不足しているのか、それとも脚本以外の部分が篩い落とされてそういう評価になっているのかは個人的には判断しにくい。
しかし、「この脚本家が書いたから素敵である」「このプロデューサーなら間違いない」といった形での評価をするのはいい加減に辞めた方がいいと改めて思う。
例えば料理なんかでもそうだろう、人気のお店だからといって必ずしもそのお店の料理が美味しいとは限らないのと同じである。
特撮作品を料理に例えるのであれば、以下の通りなんじゃないか?
プロデューサー=店のオーナー
演出家=料理人
脚本家=レシピ開発
役者・スーツアクター=食材
音楽・美術=調味料
ざっくばらんに分けるならこのような感じで、出来上がった作品はお客様がいただく料理そのもの、だから味わうのはあくまで「料理そのもの」であり「料理人」でも「レシピ開発の人」でもない。
それに役者やスーツアクターもあくまで「画面上でどのような演技・動きを見せるか?キャラになれているか?」が大事なのであって、役者とキャラを混同することも本来はNGである。
ちょっと考えればこの程度のことなんてわかるはずなのに、なぜ特撮作品を評価する際には「作品そのもの」を特定の個人の功績に還元したがるのであろうか?
もちろんその業界人を目指す人であれば話は別であろうが、それを目指すわけでもない素人が本来どんな人が作っているかを意識する必要はない気がするのだが。
思えばこういう誤った評価の仕方が作品そのものの骨董品扱いに繋がってしまうのだなと思うわけだが、そうした僅かな想像力と知性さえも持ち得ないのが現代社会らしい。
そしてこういう言説がまかり通っている限り、その作品群がきちんと真っ当に批評してもらえるようになる日は永遠に来ないであろう。
それは作品にとっても作家にとっても不幸なことはなのではないか。
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