「画面の運動」として見る『機動戦士ガンダム』第1話〜作品の批評なんて表層で良い、奥まで見ようとするからありもしないものに囚われるのである〜
昨日もまた変な輩にウザ絡みされたわけだが、そもそもこの人がどんな考えをお持ちなのかと思い記事を拝見したのだが、相も変わらずくだらない実存批評をやっている。
この人が口に出していたのは「機動戦士ガンダム」の演出に関してであり、まるで私が「ガンダム」の何が凄いかをわかっていないかのように指摘してきた。
そこまで偉そうに私に説教するくらいだから、この人の解説する「ガンダム」の批評がいかなるものかを見てみたわけだが、案の定昔から散々擦り倒された批評である。
やれやれ、人様に偉そうに説教する割に自分は巷に蔓延している陳腐な「リアリティー」だの「人間の心の機微や葛藤」だのといった神話に「ガンダム」という作品を押し込めているのか。
この人も宇野常寛や宮台真司らと然程変わらない実存批評(作品の深層まで読み込んで社会だの見えないものを読み取ろうとする)で『機動戦士ガンダム』を骨董品扱いしているようだ。
まあこの人に限らず、『機動戦士ガンダム」という作品を語る際に大体用いられるフレーズは「リアリティー」「ロボットではなくモビルスーツという言葉」「人類同士の戦争」といったものばかりである。
「キャラクターをキャラクターとして捉えるのではなく」といっているが、そもそも画面に切り取られてフィクションとして作り込まれている時点でそこに出てくるのは架空の登場人物でしかない。
これは『鳥人戦隊ジェットマン』を語る際に「戦うトレンディードラマ」などと評されるのと同じことであり、その作品の「物語」「心理」といったところに着目し瞳が画面を抹殺することで起こる考察・批評であろう。
しかし、単に物語を追うだけなら文学小説で十分なわけであり、私が『機動戦士ガンダム』を見て感じた衝撃はそういう「物語」「ヒューマンドラマ」ではなく、やはり「画面の運動」によってである。
今はYouTubeで『機動戦士ガンダム』の第1話が見られるので、是非ここで実践的にどの部分が私の感性を揺さぶるのかを具体的に論じてみたい。
この動画で一番の見所はサブタイトルにもあるように18:00からあるガンダムをアムロが起動させ、不慣れながらも偵察目的で来たはずのザクを撃墜する一連のシーンにある。
ここでアムロがマニュアルを読みながらガンダムを立ち上げるシーンは一見リアリティーを演出しているようだが、実はそうではなくマニュアルなぞ実戦では何の役にも立たないことを示しているだろう。
ザクが目前まで迫って来たとき、アムロはもはやマニュアルを見る余裕すらもなく、両手のレバーを握って不慣れながら動かしていくしかなく、そのぎこちない動きの中でガンダムは立ち上がる。
そして目が赤く光った時、我々は「ついにガンダムが立った!」と感性が揺らぎ、アムロという天才パイロットによってガンダムは無敵のスーパーロボットとして猛威を振るう。
ザクのノズルを引きちぎり(この絵の動きは言うまでもなく「Gガンダム」のシャイニングフィンガーに継承されている)、背中のビームサーベル(どう考えてもライトセーバーのエピゴーネン)でザクを真っ二つにする。
この時に生じた爆発で父親のテム=レイは宇宙空間に引きずり出されて白痴化し、アムロはサイド7の空気が無くなってはいけないからと2機目のザクをコックピットにサーベルを刺してピンポイントで仕留めているのだ。
カット割りもそうだが、この画面の運動は歴代ロボアニメの中でも非常に美しく、まずはこのロボアクションの感動を言葉にするところから「ガンダム」の批評を始めねばなるまい。
私が「ガンダム」の世界を面白いと感じたのはやはり主役機であるガンダムの圧倒的なパワーと不慣れながらもそれを使いこなすアムロのパイロットとしてのセンスにあるだろう。
ここで大事なのは登場人物の心理や人情の機微といったものではなく、「人類同士の戦争」というシリアスなテーマがアムロとガンダムによって軽やかにアクションとして描かれていることにある。
また戦争だという割にはアムロが髪ボサボサのまま私服でパイロットスーツも着ずに無断で動かしているのもその表れであり、こんな描写のどこにリアリティーがあるというのか?
しかし、実はこの演出手法は決して「ガンダム」に特有のものではなく、実は元祖スーパーロボットアニメ「マジンガーZ」の古典的演出の正当な継承である。
「マジンガーZ」もまたYouTubeに1話がアップロードされているので、比較も兼ねて出してみよう。
見比べるとより明瞭だが、実はアムロが不慣れながら私服のままガンダムを操縦する描写は「マジンガーZ」からほぼそのまま取ってきたと言っても過言ではない。
むしろ兜甲児はパイロットのセンスとしてはアムロよりも全然下手であり、ラストでは弟のシローを踏み潰しそうになっており、その力を持て余している。
弓さやかが駆るアフロダイAが止めてようやく視聴者は安心するのだが、やはり一度動かすと何者をも寄せ付けない無敵のスーパーロボットというのが動きで表象されている。
祖父にして開発者の兜十蔵博士との別れのシーンはとても悲劇的なのに、そのあとのマジンガーZをパイルダーオンで動かすシーンで一気にコミカルになるのが面白い。
「マジンガーZ」で確立されたこの演出手法やロボットとしての動かし方を原点とし、そこから無数のスーパーロボットアニメが誕生していったのである。
そういう歴史の蓄積の上にガンダムもまた存在しているのであって、設定や演出手法を見ればわかるが、ガンダムは間違いなく70年代ロボアニメの残滓が強くあるのだ。
この画面の運動を原体験世代の感動として言語化したのは私が見る限り、以前に交流を持たせていただいていたラスカルにしお先生くらいではなかろうか。
そう、『機動戦士ガンダム』という作品を評する時にまず我々が真っ先に評価しなければならないのはリアリティーでもヒューマニズムでも人類同士の戦争といったところでもない。
『マジンガーZ』から脈々と受け継がれてきたスーパーロボットアニメの遺伝子を濃く宿し、天才科学者の息子がスーパーロボットを駆り敵のザクを寄せ付けずに蹂躙してしまう画面の運動をこそ論じるべきである。
そういう意味で「あんなの異端」などと忌み嫌われがちな『機動武闘伝Gガンダム』なんてのはそのガンダムが持っていたスーパーロボットとしての遺伝子を90年代前期風に形を変えて再生させたのだ。
ミケロ・チャリオットが仕掛ける卑劣な罠に臆さず敢然と立ち向かい、人質の女の子を救出し、「出ろぉぉぉ!!シャイニングガンダァァぁム!!」の指パッチンからのシャイ人ガンダム初登場のかっこよさ。
「燃え上がれ闘志」をBGMにドモンとシャイニングガンダムが人機一体となって画面に出てくる、この力強いスーパーロボットアニメとしての演出手法にファンは驚きと共にある種の郷愁すら感じるであろう。
そして必殺のシャイニングフィンガーで頭部を握りつぶし「命拾いしたな、ミケロ・チャリオット」とまるで悪党が吐くようなセリフを口にするまでの一連のシーンには些かの無駄もない。
「Gガンダム」を評する時に人類同士の戦争だのリアリティーだのヒューマニズムだのを論じる人はいない、そのようなものは画面から排除され徹底的に「エンターテインメント」に徹したからである。
以前はあえて別アプローチから擁護してみたわけだが、改めて「Gガンダム」を演出手法や画面の運動といった観点から論じる時、実は『機動戦士ガンダム』の直系の遺伝子を十二分に継承しているのだ。
しかし、ほとんどの場合その「スーパーロボットアニメ」という本質がキャラ描写やコロニー・ミノフスキー粒子といった枝葉によって巧妙に覆われているために、ほとんどの人はその枝葉末節に惑わされがちなのである。
だから瞳が画面を抹殺した状態での物語やアムロたちのキャラクターの心理の推移といった「深層」を読み込もうとするところの評論しかできず、表層にきちっと止まって論じることができない。
やはり私に対して映像演出がどうこうと偉そうにいってきた人も見えないものを無理に見ようとするからありもしないものに囚われてしまい、雁字搦めになってしまうのである。
その意味で以前に私が評価した『機動戦士ガンダム逆襲のシャア』も私はあくまで「画面の運動」としてみた時にとても美しく、一本の映画としてかっちりまとまっている点をこそ高く評価した。
話が三流文学ででっち上げのだいぶ酷いものであっても、表層として描かれているνガンダムとサザビーの頂上決戦を中心に描かれるアクシズの決戦の迫力、ロボアクションはクオリティーが高い。
そこの部分を素直に論じていくことこそが作品に対して誠実な批評・評論のあり方だと思うし、たとえ何と言われようと私はこのスタンスを変えずに今後も感想・批評を書き続けていきたい。
作品の奥側には何もないし物語それ自体に感動があるのではない、大事なのは絵の運動によっていかに見ている者の感性が揺さぶられるかということにこそあるのではなかろうか。