激動の90年代〜ジャンプ漫画とスーパー戦隊シリーズ〜
今日は本来ならば「バトルフィーバーJ」「デンジマン」「サンバルカン」辺りの総評を書く予定でしたが、私と付き合いの長い方がとても興味深い記事を書いてくださっていました。
なので、今回はスーパー戦隊シリーズと絡めつつ「激動の90年代」というテーマで1本書きます。
上手くまとまりきらないかもしれませんが、思いつくままに書いてみますので、是非ともご覧ください。
(1)激動の90年代
90年代という時代は色々な意味で「激動の時代」と言える。少年時代に昭和の終わりと平成の始まりを肌で感じながら過ごした私にとって、社会的にも娯楽的にも様々な意味で「変化」が目まぐるしい時代だった。
「歌は世につれ世は歌につれ」と言うが、娯楽は常に時代を映し出す鏡であり、代表的な人気作をある程度掻い摘みながら見ていくと、ある程度当時がどんな時代であったかを読み解くことができる。
私と10年近くの付き合いとなる方が「ヒカルの碁」が如何に素晴らしい漫画であるかをシナリオ技術や設定面から批評しており、大変読み応えのある一遍で私も深く頷いてしまった。
そしてそれと同時に私の中で今まで頭の中で上手く言語化できず、行き詰まりを感じていた「90年代のヒーロー像の変化」について言語化するヒントをこの作品からもらえたような気がするのだ。
90年代はいわゆるバブルが崩壊し、昭和時代の主流であった「経済的繁栄が社会的な豊かさに繋がる」というある種の安全神話のようなものが脆くも崩れ去った時代だ。
昭和天皇も崩御し、ベルリンの壁も崩壊して表向きの「世界の危機」は去ったのだが、その後数年ほど遅れて新たなる社会の闇が胎動していくことになる。
とりわけ日本で象徴的だったのは95年の阪神・淡路大震災、そしてオウム真理教が起こした地下鉄サリン事件を中心とするテロリズムだった。
世界全体を脅かす冷戦の危機は去り社会からは「巨大な悪」が去ったように見えたが、そうではなく新興宗教のような「小さな悪」が日常の中から唐突に現れる。
アメリカでも2001年の9.11、アメリカ同時多発テロ事件という歴史に残るテロリズムを経験し、アメリカが無敵であるという能天気な安全神話はここで脆くも崩れ去った。
そんな中でジャンプ漫画も、そして私がこよなく愛しているスーパー戦隊シリーズも時代の流れに合わせるかのように激動の時代へと入り、目まぐるしい変化を遂げていく。
一見無関係のように思える両者だが、どちらもその時代の「男の子の憧れ」を体現したものであることには変わりなく、意外にもその変化の仕方は酷似している。
それではジャンプ漫画とスーパー戦隊シリーズ、両者が90年代という激動の時代を経てどのように変化していったのか、是非とも私なり論じてみたい。
(2)不器用な少年とカリスマ型ヒーロー
この方が仰るように、漫画「ヒカルの碁」の設定は「遊戯王」に近く、いわゆる不器用な等身大の主人公と浮世離れしたカリスマ型のキャラクターとがタッグで苦難を乗り越えていく物語である。
この構造に極めて近い漫画といえば、藤子・F・不二雄先生が生前最大のヒット作として描き、今や国民的に漫画・アニメとして認知されている「ドラえもん」ののび太くんとドラえもんだ。
のび太くんがいわゆる武藤遊戯や進藤ヒカル、そしてドラえもんが藤原佐為や闇遊戯(アテム)のような存在なのだが、「ドラえもん」と違うのは主人公が最終的に成長してそのカリスマから自立していくことである。
「ドラえもん」は言ってみたら「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」と同じ金太郎飴のような作品で、1つ1つの話に連動性はなく、どこで切り取っても全く同じであるから読者は置いてけぼりを食らわない。
しかし、のび太たちのキャラクターは劇的な成長を遂げることはなくずっと小学5年生のままだから、物語にドラマ性や成長を求める人からはある程度の年齢に達すると「子供騙し」と敬遠するようになる。
かく言う私もその1人であり、少年時代こそ「ドラえもん」を楽しませてもらったが、大人になった今見直すと何とも狭い箱庭世界の話で拡張性や意外性がなく、予定調和すぎて見る気が失せてしまった。
その点「ヒカルの碁」「遊戯王」のようなジャンプ漫画は主人公が最終的に成長し、そのカリスマ型ヒーローを乗り越えていくため、世界観もどんどん拡張していき話のスケールも大きくなっていく。
さて、ここで私の話になるが、私はいわゆる「遊戯王世代」「ヒカ碁世代」ではない、どちらかと言えば「ドラゴンボール(Z)世代」であり、少年ジャンプ黄金期のど真ん中をリアルに体感した世代だ。
それこそ同時代の「幽遊白書」「SLAM DUNK」「ダイの大冒険」に夢中になった世代であり、少年期をジャンプ黄金期で過ごした我々の世代は「ゆとり世代」の1つ前の「プレッシャー世代」と呼ばれる。
だから、私が夢中になったのは実は武藤遊戯や闇遊戯、進藤ヒカルや藤原佐為ではなく孫悟空や桜木花道、浦飯幽助、ダイといったカリスマ型の主人公像が多かった。
「ドラゴンボール」の孫悟空のカリスマ性と安心感に私はホッとし、少なくともナメック星編まではでその頼れる背中にどれだけの読者が興奮したであろうか?
しかし、孫悟空はその後人造人間編・セル編に入ると「心臓病で死ぬ」という突発的な後付け設定で急激に主人公の座から降ろされ、主人公は一時的に孫悟飯に継承される。
その孫悟飯とは正に武藤遊戯や進藤ヒカルと同じように不器用ながらも潜在能力がすごく、秘めた可能性を持った存在という孫悟空のカウンターとして描かれた存在だった。
もっとも、「ドラゴンボール」の孫悟空から孫悟飯への継承、世代交代は必ずしも上手く行ったとは言いがたく、結局魔人ブウ編に入ると成長した青年悟飯がうまくキャラ立てできず読者には不人気だった。
鳥山明先生にとっても、戦いに対して前向きな動機を持たずフットワークの重い悟飯を主人公として動かすことなどできず、さぞ不本意であったことだろう。
結果として、「ドラゴンボール」は最終的に悟空とベジータ、そしてミスターサタンが活躍を見せ、新世代の象徴であった悟飯への世代交代は失敗に終わった。
そしてその結果が現在も続いている「ドラゴンボール超」においても尾を引いており、悟空とベジータばかりを贔屓にして描き続けるという異常事態である。
だが、それが「ドラゴンボール」らしいと言えばらしいのかもしれない、「ドラゴンボール」の世界観の中心に居たのはあくまでも孫悟空であって孫悟飯ではないのだから。
「ヒカルの碁」「遊戯王」は「ドラゴンボール」で描き損ねた「世代交代」というテーマをメインに据え、いわゆる孫悟空をそれぞれ藤原佐為、闇遊戯という「主人公をリードしてくれるカリスマ」として描いた。
そして孫悟飯のような新世代の象徴を進藤ヒカル、武藤遊戯という主人公像に発展させて、「旧世代から新世代へ」という形で新たなジャンプ漫画の主人公像を描こうと模索したのではないだろうか?
それこそジャンプ漫画は「ドラゴンボール」の連載と共に黄金期の熱、盛り上がりはどんどん冷めていき「SLAM DUNK」「幽遊白書」「ダイの大冒険」も次々と終了しジャンプ漫画の人気に陰りが出た。
そうなると、集英社としても孫悟空に取って代わる新たな主人公像を作らなければならなかったし、その主人公像が開く道の先を開拓する必要があったのだ。
それは正に旧世代の頼れるカリスマたちがどんどんその輝きを失っていき、新しい世代の子供達に託していくように、この後ジャンプ漫画は主人公像を模索し始める。
(3)ジャンプ漫画黄金期の終焉を司った「るろうに剣心」
ジャンプ漫画における「旧世代から新世代へ」というテーマを語る時にもう1つ外せない作品があり、それがジャンプ漫画黄金期の終焉を司った「るろうに剣心」である。
この作品に登場する主人公・緋村剣心は孫悟空と同じ天才のカリスマ型主人公として描かれながら、「人斬り抜刀斎」としての過去を隠して世捨て人として生きていこうとしていた。
いわゆる「不殺主義」の主人公像なのだが、ジャンプ漫画の流れで行くとこの緋村剣心は「アンチ孫悟空(ないしネガ孫悟空)」と言えるのではないだろうか。
孫悟空はセルゲームで「自分がいたから悪い奴がどんどん引き寄せられる。だから表舞台から姿を消した方がいい」などと言って、一度表舞台から姿を消した。
しかし、7年後の魔人ブウ編では孫悟空とは関係なく悪党たるバビディやダーブラが出現したわけであり、結局孫悟空はまたもや戦いの世界へ身を投じることになる。
孫悟空はその中でベジータやミスターサタン、そして地球人たちの力を借りて再び主人公としての輝きを取り戻し、最終回では悪ブウの生まれ変わりであるウーブと楽しそうに戦っていた。
孫悟空にとって戦いとは「武道を通じたコミュニケーション」であり、相手の命を奪ったり殺したりすることが目的ではないし、ピッコロやベジータら悪人を生かしたのもそれが理由だ。
「強くなってもう一度戦いたい」というのが孫悟空であり、どれだけ成長してクレバーになっても根っこは所詮少年の心を持ち続けた主人公なのである。
だから、どれだけしんどい目にあったとしてもそれをカラッと明るく笑い飛ばし、「強いやつと戦いたい」と戦うことをやめない屈託のなさが孫悟空らしさでもあった。
だが、剣心は悟空と正反対にずっと修羅の世界に身を投じ、人をバッサバサと切り捨てることで、多くの血を吸いながら己の人生を生きてきたと言える。
孫悟空とは正反対に戦いを「剣道を通したコミュニケーション」とは思えず、そこに生き甲斐や喜びを見出して楽しむ領域には至らなかった。
そして明治初期、とうとう侍という職業自体が必要なくなって彼にも安寧が訪れたかに思えたが、一度修羅の世界に身を染めたものがそこから抜け出すのは簡単ではない。
やはり人斬り抜刀斎としてもう一度明治維新と向き合うことになり、そして彼は戦えば戦うほどどんどん力を喪失していくことになる。
修羅の果て、遂に剣心は飛天御剣流すら震えなくなってしまい、彼をいたわり続けた薫との結婚と同時に正式に表舞台から姿を消し去った。
これはチチと結婚してもなお働かずにずっと修行三昧の日々を送り続けている戦闘マニアの孫悟空と正反対の結末ではないだろうか。
だが、そんな剣心の願いは新世代の象徴として描かれる明神弥彦が剣心の思いを継承したことで報われることになった。
弥彦は言ってみれば「前向きで能動的な孫悟飯」であり、孫悟飯がやや暗めで受動的なタイプであるのとは対照的である。
最後の最後、剣心との一騎打ちで一太刀浴びせた彼は正式に剣心から認めてもらうことで世代交代を完結させた。
正に旧世代から新世代へ、剣心から弥彦へといった「世代交代」が「るろうに剣心」を通して1つの形として描かれたのだ。
昭和時代から平成時代への急激な時代の移り変わりを明治維新という時代性に準えて描き、それをもって「ジャンプ漫画黄金期の終焉」とした。
「遊戯王」「ヒカルの碁」は「るろうに剣心」から「ONE PIECE」「NARUTO」への橋渡しとして台頭してきた過渡期の作品だったのではないだろうか?
(4)ポスト「ドラゴンボール」として描かれた「ONE PIECE」「NARUTO」
そんな紆余曲折を踏まえ、正式にポスト「ドラゴンボール」として誕生したのが新世代のジャンプ漫画「ONE PIECE」「NARUTO」である。
この2作、特に尾田栄一郎先生の「ONE PIECE」は正に「ドラゴンボール」に取って代わる新世代のニュースタンダード像を作り上げた。
モンキー・D・ルフィ、うずまきナルトの2人は孫悟飯、明神弥彦、進藤ヒカル、武藤遊戯という試行錯誤を踏まえて誕生した新しい主人公像だ。
しかも、物語の最初でそれぞれ「海賊王に俺はなる!」「火影を超す!!ンでもって里の奴ら全員にオレの存在を認めさせてやるんだ!!」と目標を口にする。
こんな風に主人公が目標を最初に宣言するなど、かつてのジャンプ漫画では考えられないことだった…なんでかってそんなものはわざわざ口にする必要はないことだからだ。
ルフィもナルトも悟空をモデルに作られていると言われるが、その造形はまるで悟空とは違い、隙だらけだし弱点も多いし頼りない面が沢山ある。
ナルトなんて最初は落ちこぼれとして蔑まれ馬鹿にされていたし、ルフィも威勢はいいし戦闘能力は最強だが戦闘以外のポジションは到底務まらないだろう。
かつての孫悟空は一々何が目標かなんて口にすることはなかったし、桜木花道も浦飯幽助もダイも緋村剣心もそんなことを口にするタイプではない。
中でもルフィと悟空の決定的な違いとなったのが、イーストブルー編のアーロンパークで描かれたルフィとアーロンの対決でのあるやりとりだ。
ルフィは2本の剣を使って見せるが、格闘術はともかく剣術のスペシャリストではない彼のデタラメな攻撃がアーロンに当たることはない。
そしてその直後ルフィは堂々と己の不器用さ・弱点を宣言してみせる。
こんな台詞、「ドラゴンボール」の孫悟空だったら絶対に口にしない。「ドラゴンボール」の世界において孫悟空が弱音を吐くことはまずない。
もし孫悟空がこのような言葉を口にする時は本当に打つ手がない時であり、それまで何があろうと孫悟空は無理だとか自分は不完全だとか言わないのだ。
それがルフィときたら、このプライドのなさはどうしたことであろう?アーロンが指摘する通り、自分の不甲斐なさを堂々と宣言する主人公など見たことがない。
それでもルフィは「お前に勝てる」と言い放つ…要するにルフィにとって「海賊王になる」ことと「仲間を大事にする」こと以外は瑣末な問題なのだ。
どれだけの弱点があったとしても、不完全であったとしてもルフィは自分の大事なものさえ守ることができれば、その他のことはどうでもいい。
同じことはナルトにも言え、ナルトにとっても「火影を超す」「自分の存在を里に認めさせる」が中心にあり、サスケを取り戻すだとかそんなのは後からついてきたものである。
主人公がこんな風に「なぜ戦うのか?」「なんのために生きるのか?」を宣言するということは同時にもう「絶対的な正しさなどどこにもない」ことの裏返しでもあるのだ。
ルフィやナルトには「憧れの大人」と言えるカリスマや師匠はいる…それはちょうど尾田栄一郎先生と岸本斉史先生にとっての鳥山明先生がそうであるように。
だが、そのカリスマや師匠と呼べる人たちはルフィやナルトに正しさや生き方を押し付けるようなことはせず、あくまで2人の判断に任せたのだ。
誰しもが迷う激動の平成時代においては、カリスマたちの威光などもはや何の意味も持たなくなる。
(5)旧世代から新世代への変化が起きた90年代のスーパー戦隊シリーズ
翻って、話はスーパー戦隊シリーズへ…ジャンプ漫画が「ドラゴンボール」までを分岐点として「旧世代から新世代へ」の「世代交代」を試み、それが「ONE PIECE」「NARUTO」で結実した。
同じような流れは90年代のスーパー戦隊シリーズでも起きており、シリーズ屈指の革命作「鳥人戦隊ジェットマン」以後様々なヒーロー像の模索・追及が行われるようになる。
「ジェットマン」に出てくる天堂竜は言うなれば「完璧超人に見せかけた等身大の青年」であり、恋人・葵リエを喪失した悲しみから生じた復讐心を「地球を守る」という大義にすり替えたとんでもない男だ。
そしてまた、天堂竜の対極に位置する結城凱はイケメンだが「酒・タバコ・女」という男をダメにする三要素を持っている、ある種「天堂竜」の無意識の部分を描いた存在であると言える。
井上敏樹が描く男性像は「ゴレンジャー」から連綿と続いてきた「完璧超人」ではなく「突出したかっこよさとかっこ悪さの両極端な人間臭い男」であった。
それは同時にスーパー戦隊シリーズもまたカリスマ型ヒーローから身を離して、新世代のニュースタンダード像を模索していくのだという世代交代の宣言のようでもある。
そんな「ジェットマン」が切り開いた新境地の後、「ジュウレンジャー」のメンバーをまとめきれないゲキ、「ダイレンジャー」の精神的に迷いの目立つ亮、そして「カクレンジャー」の非リーダーの切り込み隊長・サスケが出てくる。
天堂竜を描いたことで戦隊レッドを必ずしも完璧超人にする必要がなくなったスーパー戦隊シリーズは一気に解き放たれ、様々なヒーロー像を模索していくことになるが、これがなかなかうまくいかない。
亮やサスケもなかなか面白い試みのレッド像ではあるのだが、今ひとつこれだという独自性を魅力として確立するには至らず、「オーレンジャー」の星野吾郎で典型的な完璧超人型に戻すも大コケしてしまう。
だからこそ「カーレンジャー」の恭介、「メガレンジャー」の健太ではそれとは真逆の「猿顔の一般市民」のような、カリスマ性もリーダーシップもへったくれもない「おバカ」な三枚目気質のレッドが描かれる。
同時にスーパー戦隊シリーズ自体も現代風のポップ路線に行き始めていた時代であり、このままスーパー戦隊シリーズも時代の流れに取り残されてしまうのかと危ぶまれていた時代だった。
しかし、そこで改めて「旧世代から新世代へ」というテーマがついに98年の「星獣戦隊ギンガマン」のリョウマとヒュウガの炎の兄弟を通して描かれることになる。
旧世代の象徴にしてカリスマ型ヒーローであるヒュウガから新世代の象徴にして不器用さはあるものの潜在能力のとても高いリョウマへ、戦士の資格が継承されていく。
炎の戦士・ギンガレッドになる資格があったのは本来ヒュウガだったのだが、そのヒュウガは第一章で地割れに飲み込まれてしまいリョウマがその資格を受け継ぐことになった。
そしてヒュウガ亡き後のギンガマンをなんとか引っ張っていくわけだが、序盤は実質のリーダーをハヤテに任せておりとにかく鍛え上げた戦闘力と潜在能力、コミュニケーション力で前のめりに頑張っていた。
そんな彼は2クール目の山場で現れたもう1人のカリスマ型ヒーローにしてバルバンへ復讐を誓う黒騎士ブルブラックと第二十章で価値観の相克に出くわす。
そしてリョウマは自身の弱さ、甘さを指摘されてしまうのだが、リョウマはブルブラックに対してこのように言い返す。
この台詞、個人的にはスーパー戦隊史上に残る名台詞なのであるが、ルフィが己の弱さを真正面から肯定してみせたように、リョウマもまた自身の弱さを思い切って肯定する。
だが、ギンガレッド・リョウマはルフィよりも更に先を行くように黒騎士ブルブラックの戦い方の弱点へ反論し、己のよって立つところをしっかりと示したのだ。
まさに旧来ヒーローから新世代ヒーローへと移り変わって行く宣言であり、そしてそれがヒュウガとの再会によって結実したのが第二十六章「炎の兄弟」である。
このエピソードの素晴らしさは後に取っておくとして、ジャンプ漫画と同じようにスーパー戦隊シリーズでも新しいヒーロー像の模索が行われていた。
そしてスーパー戦隊シリーズにおける世代交代はこの「ギンガマン」の炎の兄弟を通して描かれ、ここにスーパー戦隊シリーズのニュースタンダード像が完成したのである。
(6)まとめ
今回は「ヒカルの碁」の記事からふと思い立って湧き出たジャンプ漫画とスーパー戦隊シリーズの主人公像、ヒーロー像の変化について改めて向き合って書いてみた。
それぞれアプローチや方向性、物語の構造など大まかな違いはあるが、それぞれ常に受け手の求めるヒーロー像の模索・追及が行われていたことは確かである。
今まで頭の中にこびりついていたが言葉にできずに悶々としていた日々がこの時期をしっかり読み通したことで、アイデアが上手くまとまった形だ。
こうした主人公像やヒーロー像の変化から90年代という激動の時代を読み解いてみるのもまた面白いかもしれない。
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