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『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)の「過剰な玩具販促」「身体性の喪失」よりももっと深刻な「フルCGアニメーション」のもたらした勘違い

東映特撮YouTubeの何度目かになる『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)が終了したわけだが、はっきり言って本作はもはや「過去の遺物」でしかないことが改めて今回の再視聴で感じられたことである。
本作の問題点は『超力戦隊オーレンジャー』(1995)の時点で孕んでいた「過剰な玩具販促」だけではなく、以前にも「身体性の喪失」という記事をこちらで書いたばかりである。

だが、「ガオレンジャー」の問題点は諸要素を因数分解していくと、この「身体性の喪失」が単なる設定や作劇だけではなく、演出、具体的には「フルCGアニメーション」という表象にそれが最大限現れていることにこそある。
CGの何が問題かに関してはこれまで何度も論じてきたので併せてご覧頂きたいのだが、「ガオレンジャー」がどんな物語であったかは戦隊史批評家のえの氏のこちらの解説がわかりやすく要約してくれていた。

〔実際〕
 これはあくまでも大自然の精霊とオルグとの戦いである。人類はそこに参加させてもらっているに過ぎない。そこにおいて、人間の目には「奇跡」としか映らない、人智を超えた現象が頻繁に起こったとしても、別に不思議なことでは全然ないし、それを御都合主義などと批判するのは全くの的外れである。

そうなのだ、「ガオレンジャー」とは所詮今じゃとても見るに堪えない、ハリウッドに見せたら即扱き下ろされそうなチンケなCGを使った大自然の精霊=パワーアニマルが主役であって、人間たちは所詮百獣を召喚するための召喚士に過ぎない。
だから確かに人間視点では「奇跡」としか思えない摩訶不思議な現象の数々も「そういう世界観だから」で説明がついてしまうわけだが、これが何を引き起こしたかというと「特撮だからできること」と「CGだからできること」の混同をシリーズ全体で起こしたことである。
日笠Pは「合体前のメカを全てフルCGでやるというのは当時の東映としては凄く新しいことをやっていた」とトークショーで語っていたが、それは所詮「目先の短期的利益」に基づくものでしかないことをこの人は分かった上での発言だったのだろうか?
まあ東大卒だからもちろん分かってなかったなどとは口が裂けても言わせないが、私がこないだの記事で「商売的センスが素晴らしい」とやや褒める感じで日笠Pのことを書いたのははっきり言って皮肉・揶揄を意図してのものである

『百獣戦隊ガオレンジャー』は確かに(当時としては)新しいことに挑戦した作品だったし、その新しさ故にヒットした作品であることは間違いない、平均視聴率8.8%で玩具売上をはじめとする商品の売上は間違いなくギガヒットコンテンツとなった。
ここまでは日笠Pの目論見通りであっただろうが、問題はその後のことであり、いわゆる「二匹目のドジョウ狙い」という名のエピゴーネンが大量に作られ続け、もはや『炎神戦隊ゴーオンジャー』の頃には本作の鮮度・魅力は一気に薄れる
その鮮度・魅力が薄れた上でなおどれだけの古びない魅力、具体的には見る側の感性という「現在」を刺激し続けてくれるものであるかどうかが本当の勝負であり、その意味で本作はもはや完全に「過去」の作品であることはいうまでもないだろう。
既に四半世紀近くにもなろう令和の世において、少なくとも『海賊戦隊ゴーカイジャー』までのシリーズ作品の中でA(名作)以上とそうでない作品との分水嶺は段々と明瞭になって来つつあるが、無論それは決してネットに掲載されている人気ランキングで測れるものではない。

私が今回改めての「ガオレンジャー」視聴で掴んだ明確な手応え(まあこれは第一印象でも感じたことだが)は「ガオレンジャー」は真の意味で「戦隊とは何か?」という「枠に対する格闘」を放棄した作品であるということだ。
それはもちろん玩具販促の大量投入に伴うドラマ性の希薄化、またフルCGアニメーションの使用による安易な「CGだからできること」と「特撮だからできること」の混同だけではなく、何よりも「被写体への距離感」である。
ここでいう「被写体」とはもちろん変身前を演じている6人の役者たちだけではなく、変身後を演じているスーツアクターやCGで表現されているパワーアニマルたちも含めた全てのものだが、本作には優れた画が一個も存在しない。

以前にも述べたが、「ガオレンジャー」で一番「ショット」になっているはずの絵はOPカットの前面に5人が小さく映り背景のはずのパワーアニマルの方が大きく写っているという本末転倒なカットだ。
この1枚だけでも「ガオレンジャー」は、否、それ以後のあらゆるスーパー戦隊が所詮玩具販促として出てくる巨大メカが売りであり、変身前の役者のドラマやスーツアクターを用いた変身後のアクションは売り物ではないと宣言したも同じである。
実際日笠P自身が「変身前のキャラクターに少々力がなくてもこれは行けてしまう」なんてことを漏らしてしまうほどであり、この人は結局東映の悪しき「義理欠く恥かく人情欠く」の三角マークを如実に体現した人だったのだろう。
そんな人でも、否、そんな人だからこそ周りからは「敏腕プロデューサー」と持ち上げられているらしいが、私に言わせれば日笠Pは神棚に置いておけば無害だが自身が出しゃばると事態を悪化させる無能なガオゴッドそのものである。

しかし、そんな日笠Pの歪んだ「数字さえ出せば何してもいいんだ」という阿漕な拝金主義・商売主義に対して誰もダメ出しが出来なかった結果何が起こったかというと、シリーズの緩やかな衰退であり、その悪しき一例が昨年の『王様戦隊キングオージャー』ではなかろうか。
「キングオージャー」ではやたら公式側がLEDウォールという撮影技法を推しまくっていたが、逆に言えばそんなものを前面に押し出して自慢しなければならないほど他に売りとなる部分はないのかと言いたくなってしまう。
確かにLEDウォールそれ自体は「ガオレンジャー」の頃に比べたら「技術」としては遥かに進歩してこそいるが、そのことと「優れたショット」が撮れることは全くの別問題であり、そのことをわかってない連中が今のスーパー戦隊を作っている。
そう、全く関連性がないようでいて、実は良くも悪くもスーパー戦隊シリーズの歴史は根底で繋がっていて、結局「ガオレンジャー」の成功体験が今となっては完全に悪い意味で戦隊の現在に影響を与えているということに他ならない。

「ガオレンジャー」は放送当時、「子供人気はとても高かったが大きなお友達からは散々に批判された作品」という評価がパブリックイメージとして形成されていたが、そんな通説も今の時代は全く通用しないだろう
なぜ「ガオレンジャー」があんなにお粗末なクオリティーでも人気が高かったのかといえば、最初に書いたように「新しいこと」に挑戦しその目新しさゆえにヒットしたことだけではなく、視聴環境も大きく影響している。
2001年当時はまだDVDではなくビデオが主流だった時代であり、レンタルで視聴できる作品も渋谷のTSUTAYAなどを除けば限られていたし、また私は田舎に住んでいたからいわゆる「ケーブルテレビ」の普及もまだだった。
何よりIT革命が起こって間もない時期であったからインターネットもまだ世間一般に普及はしていないため「主流」ではなく「傍流」の時代だったから、そのような受け止められ方が可能だったのである。

しかし、現在の視聴環境はその頃からまるっきり変わっていて、もはやテレビがメディアとしての効力をかつての映画同様に失いインターネットのサブスクリプション(定期視聴)が主流の時代だ
だから「子供には受けたが大きなお友達には批判された」というあり方はもはや通用しない、今は子供と大人が一緒になって過去の東映特撮をスマホで視聴することが可能な時代である。
ということは「キングオージャー」「ブンブンジャー」と並行しての同時視聴が出来てしまうから、子供たちにも簡単に「過去の作品と比較してどうか?」という批評が簡単に成立してしまう
そして子供たちは吸収率だけは無茶苦茶に高いから、親からスーパー戦隊を同時並行でサブスクリプションで横並びに見る方法なんて教えられれば、直ぐにでも吸収・咀嚼して評価してしまうのではないか。

かつては10年かかってやっと実現した技術革新や進歩なんて今ではたった3日で出来てしまうほどであり、そんなご時世においてLEDウォールごときを自慢している場合ではない位に世の中はスピーディーになっている
だからそんな中ではただ目先の最新技術を用いて「どうだ、凄いだろ」なんてやったところでそれは所詮「ただの技術紹介動画」でしかなく、「真に面白い作品」とはならない。
何よりも特撮だからできる振る舞い、スーパー戦隊だからこそできることという本質的な問いに関する格闘をCGが本当に実現可能だったのか?に関して、もっと真摯に作り手も受け手も向き合うべきだろう。
私がなぜ未だに令和の世の中になろうと、スーパー戦隊シリーズにおいて『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』の3作を特にS(傑作)として高く評価しているのかも結局はそこに尽きる。

だから、本作を好き嫌いを別とした場合にきちんとその功罪や善し悪しを見極めて批評できなければ、なぜ「キングオージャー」がああも酷いのかの根本的な原因など分かるはずもないであろう。
そういうものを産んでしまうだけの土壌を間違いなく産んでしまったのは本作であり、単なる「企業の闇」なんかでは済まされない根深い罪を抱えていかなければならないのがこの『百獣戦隊ガオレンジャー』である
少なくともシリーズが「縦」ではなく「横」で評価できてしまう現在においてもなお擁護できるだけのものはない「過去の遺物」であるが、こんなものが戦隊25作目なんて記念の年に作られたこと自体がシリーズにとって「あってはならないこと」だったのではなかろうか。


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