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3話までを見てわかる『王様戦隊キングオージャー』が「お話」にすらなっていない理由

「走って逃げて。足は治ってる。私が治療したんだから」(ギュッ)
「でも!」
「我が儘になればいいじゃない」
「え?」
「あなたの望みは、誰でもない、あなたにしか叶えられない。夢も、未来も、我が儘から始まるの。そして世界をあなたの思うままにしてやりなさい」

このくだりを見ていると、なぜ「キングオージャー」がつまらないのか、そしてスーパー戦隊シリーズの根底にある問題が何かが見えた気がする。
作り手にとっても、そして受け手にとっても「守る」ことと「戦う」ことのジレンマが永久に存在しているのだなあと思ってしまう。
こんなことを書いている現在YouTubeで『仮面ライダー555』が配信されているのは何の偶然かはわからないが、これは2023年に日本人が考えるべきテーマなのかもしれない。
それこそ私が以前のブログでも散々書いていた「公的動機」と「私的動機」を巡る議論の本質がやっと可視化した状態で言語化できるようになった気がする。

スーパー戦隊シリーズにおける2つの戦いの動機

スーパー戦隊シリーズの1つ1つを丁寧に見ている熱心なファンにはこの話はピンと来るであろうが、戦隊シリーズには大まかに分けて2種類の戦いの動機が存在する。
1つが「国が今こそ立ち上がって戦うべきだ」とする公的動機「個人が立ち上がって連帯して戦うべきだ」とする私的動機の2種類だ。
その中で「名作」「傑作」とファンから評価されている作品は大体その辺りの「戦いの動機」という根幹の部分についてしっかり描いて答えを出している。
以前に私が書いた「会社」と「DAO」に関する分類もまたその一環として行ったものであり、ここまでピンと来れば今回の話はわかるであろう。

まあ近年では特に序盤からひたすら玩具を売りつけて数字を出さなければならない以上、どうしても公的動機に依存して最初から出来上がったチームを描く方が話は早いのだけども。
ただ、そのやり方ももう限界が来ているためか、「ゼンカイジャー」「ドンブラザーズ」「キングオージャー」の3作は「仲間集め」をわざわざ5話もかけてやっている。
スーパー戦隊シリーズで「1話から全員が揃わない」を初めてやった1991年の「鳥人戦隊ジェットマン」のパイロットを更に引き伸ばして個々に作った感じだ。
なぜそんなことをするのかというと、全員が一枚岩で繋がっているように見える組織だと、それこそファシズムのように見えて気持ち悪いからではないだろうか。

しかし、そんなやり方を3年連続でやっている割にそれがシリーズに再考を迫るほどのドラマたり得ているかというと全くそうはなり得ていない。
なぜならば、作り手が「公的動機」をベースにしているのか、それとも「私的動機」をベースにしているのかという立脚点が明確ではないからだ。
作り手としても「何となくナショナリズムで描いておけばいいんだよね」くらいの感覚しか抱いていないのではないだろうか。
だから、映像技術や演出の「見かけ」「装飾」だのはやたらに豪華で派手なのに、その装飾を剥いだ時に見えて来る骨格が折れ曲がっていて物語の体をなしていないわけである。

公的動機=国粋主義(ナショナリズム)と私的動機=祖国愛(パトリオティズム)だった70〜80年代戦隊

さて、ここでスーパー戦隊シリーズの歴史について大きく振り返ってみるとしよう、まずは初期の70〜80年代戦隊だ。
この時代のスーパー戦隊は戦いの動機がはっきりしていて、公的動機=国粋主義(ナショナリズム)と私的動機=祖国愛(パトリオティズム)だった。
どちらも「国を愛する心」なのだが、それが組織ありきのマクロな視点なのか、それとも個人の決断に基づくミクロな視点なのかで全く違う。
上原正三が担当した『秘密戦隊ゴレンジャー』〜『太陽戦隊サンバルカン』が前者、そして曽田博久が担当した『大戦隊ゴーグルファイブ』〜『地球戦隊ファイブマン』が後者である。

なぜこのような違いがあるのかというと、それはメインライターである2人が経験してきた過去が自然と作風に影響を及ぼしたものではないだろうか。
上原正三は沖縄出身であり、幼少の砌(みぎり)に差別を受けた経験から、アメリカに対する反発心のようなものが強くあると思われる。
正に「国家戦争」が彼にとっての「戦い」であったといえ、彼が描く作品の敵組織は当時のアメリカ合衆国を仮想敵として設定していたようだ。
戦士を集める動機も自分たちで戦いを決意したというよりは上意下達方式で上から「お前たち今日から戦え」と一方的に告げられるケースが多い。

一方で曽田博久は横浜国立大学出身で、学生運動ど真ん中の世代であり、在学中は左翼の活動家であったというのはファンの間で有名な逸話である。
だから彼が描く戦隊は上原正三とは逆で国を思う個人が立ち上がり連帯して戦うことになるというタイプものものが多いのが特徴だ。
例えば『電撃戦隊チェンジマン』の第一話でゴズマの襲撃を見た5人の戦士が「俺はやるぞ!」「俺もだ!」と1人ずつ戦いを決意するシーンにそれが現れている。
通常の軍人戦隊では個人の決断で戦士が決まることなどまずないのだが、「チェンジマン」では例外的にそのような形で戦いをスタートした。

また、「フラッシュマン」「ライブマン」「ファイブマン」のように、自発的に組織を結成して戦った戦隊も中には存在する。
しかし、それでも結局のところそれが公的なものだろうが私的なものだろうが「国を守るため」という治安維持が目的であることに変わりはなかった。
この時代には冷戦が存在していたから、核ミサイル一発でも発射すれば世界はいつ滅びてもおかしくないという緊張状態にあったのである。
だからこそ、「国を守るため」という動機で戦いが成立していたし、善悪の構図も単純明快でわかりやすかった。

「国」ではなく「星」と「人」を守るようになった90年代戦隊

冷戦終結を迎えてヒーロー像の戦いの動機に大きなメスが入ったのが90年代戦隊シリーズであり、91年の『鳥人戦隊ジェットマン』で一気に風向きが変わった。
あの作品では公的動機=国粋主義(ナショナリズム)と私的動機=祖国愛(パトリオティズム)という鋳型にはまったヒーロー像が通用しなくなる
実際にわかりやすい例としてその鋳型にはまったヒーロー像を演じているレッドとそうではない一般人の成り上がりである4人という形で対比されていた。
そして物語が進めば進むほど、実は正統派ヒーローであったはずの天堂竜こそが一番ヒーローらしい心から遠いところにいた人間だと明らかになる。

「ジェットマン」の変革を経て、新たなる戦いとして宗教戦争の構図が持ち込まれた「ジュウレンジャー」〜「カクレンジャー」、そしてあえて意図的に国家戦争に先祖返りした「オーレンジャー」と続く。
そんな風にシリーズ自体が大きく変化していく中で、作り手はナショナリズムとパトリオティズムに取って代わる新たなる戦いの動機を考えなければならなくなった。
もう従来の正義感ではヒーロー像は作れない、正に「正義の味方は当てにならない」という某国民的アイドルの歌詞ではないが、旧来ヒーローは通用しない時代になっている。
そこで立ち現れたのが「等身大の正義」という、高寺Pが『激走戦隊カーレンジャー』で新たに打ち出したヒーロー像だったのではないだろうか。

このシリーズから「国」という枠が取っ払われ、「人」や「星」といったもっと身近で、しかしもっと奥深くにある大事なものを守ろうとするようになる。
そうして1998年の『星獣戦隊ギンガマン』で「星」も「人」も垣根や枠を超えた全てを守る、あるいは守ろうとするヒーローが誕生したのだ。
これが「ジェットマン」からの変革を受けて紆余曲折を経て誕生したスーパー戦隊のニュースタンダード像なのだが、2000年の「タイムレンジャー」ではさらに先を進む。
あの作品では「個人の明日」から最終的に「1000年もの歴史」を守るという「時間」の概念を加えたものを守るというところまで描いた。

詰まる所、スーパー戦隊シリーズは「国」ではなく「星」「人」を守るようになり、さらには「時間」「歴史」といった抽象度の高いものまで守るようになる。
凄まじいパラダイムシフトがこの90年代戦隊では起こっているのだが、その中で改めて公的動機と私的動機という図式やそのあり方も大きく変化したといえるだろう。
00年代戦隊は逆にいえば、ここまでで完成した戦いの動機を起点として、新たなレールの上で切った張ったを繰り返しながら今日に至っている。

「キングオージャー」は果たして国粋主義と祖国愛に対する決着をつけられるか?

このように見ていくとき、『王様戦隊キングオージャー』は何をドラマの主眼として見せたいのかと思ったのだが、実はシリーズの中でも根深い問題に切り込むつもりではないだろうか。
それこそが正に公的動機=国粋主義(ナショナリズム)と私的動機=祖国愛(パトリオティズム)の相克であり、シリーズ作品が今まで深入りを避けてきたところである。
例えば第1話でギラが自ら悪者になって国王に反旗を翻した時、なぜそのまま殺さないのか?と疑問だったのだが、もしかすると公的動機と私的動機の相克を描くのが目的なのか?と思えてきた。
そして3話ではイエローの我儘なキャラを通して更に先鋭化した形でこの国粋主義(ナショナリズム)と祖国愛(パトリオティズム)の対比について描く意図があったのかもしれない。

とはいえ、ではそのナショナリズムとパトリオティズムが上手いことドラマとして描けているかといえばそうではない、やはり争いのレベルが低すぎる。
というか、そもそもスーパー戦隊シリーズという子供向け番組の枠でそういう政治的な思想をベースにしたドラマを描こうというのは至難の業ではないだろうか。
戦いの動機にメスを入れようとする点は構わないのだが、大森Pにしろ上堀内監督にしろ、どうにも作り手は「こう描きたい」ばかりが先行していて、そこに物語の内実が追いついていない
そもそもモデルとなったであろう「進撃の巨人」「コードギアス」にしたって、相当に研究に研究を重ねてあのドラマを打ち出しているのである。

まだ初期の段階で判断するには早いと言われるかもしれないが、もう過去の歴史から類推すれば序盤数話を見た段階で「駄作」になるか「傑作」になるかは大体予想がつく
そしてその予測はほとんど外れた試しがない、やはり今年のスーパー戦隊もハズレだと思って視聴を早めに損切りしておいた方が良さそうである。
もっとも、初期の印象を覆すくらいの高尚なドラマを描くというのであれば見てあげてもいいが、そもそも今の段階だと「お話」にすらなっていない
そんな伸び代や可能性が感じられないものに投資するほど私は愚かではない。


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