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なぜ氷帝と立海は二度も青学に負けなければならなかったのか?中国の「科挙」や日本の「受験戦争」の歴史に見る制度の自己目的化と退廃

今年の世界史Bで「科挙」が「科拳」との誤記があったそうですが、一体どんな打ち間違いを犯せば「科挙」が「科拳」になるのでしょうか?
新年早々アホみたいな話題が出ましたが、ちょうど氷帝と立海について考えたところ、この二校が青学に二度も負けなければならなかったのかについての答えが「科挙」に隠されていました。
氷帝の実力主義による敗者切り捨ての制度、そして立海の「常勝=負けてはならぬ、必ず勝て」という異常なまでの勝ちへの執着に基づいた軍隊じみた練習メニュー。
しかしそれらは関東大会と全国大会のどちらも青学の前に敗れ去ってしまい、しかもその負けさせ方が決して同じ形の負けにしていないというのが面白いところです。

氷帝戦の場合、1度目は手塚国光という青学の最強の象徴が跡部様に負けることにより、まずは青学の中に大きな「破壊」が行われ、戦いは次世代を担う越前リョーマと日吉若に託されました。
しかし、跡部部長への下剋上などという狭い枠内の狡い考えを持つ日吉の考えは青学の柱を担う覚悟を持ち、全国優勝へ青学を導く使命に目覚めた超ルーキー・越前の前に敗れ去ってしまうのです。
これは何を意味しているのかというと、青学に比べて氷帝は下の代がまともに育っておらず、敗者切り捨てという制度自体が部内の環境に「停滞」を招き、跡部の一極集中と化していたことでした。
もちろん越前リョーマが若手の中でも異例中の異例というほどの逸材だったのもありますが、氷帝は日吉という期待の逸材をきちんと実戦で使えるレベルに鍛えていなかったことが挙げられます。

関東大会の氷帝は跡部様という個人は手塚に勝利することでプライドは何とか担保されたもののチームとしては青学に総合力で負けてしまい、不完全燃焼のまま時が止まってしまいました。
そしてそこから「なぜ青学に負けたのか?」をきちんと分析・反省・改善をせず跡部様一強の制度の見直し・刷新を行わなかかったために全国大会準々決勝でも同じ過ちを繰り返します
日吉と向日は関東大会で露呈していた弱点を放ったらかしにしておき(ここが青学の菊丸との徹底的な差)、樺地は経験の差によって手塚に敗れてしまうこととになったのです。
また、辛勝した忍足と鳳・宍戸にしてもかなり運や相性の要素で勝てた部分が大きく、真っ当な実力で勝ったとは言い難く、すでに氷帝自体の限界も見えていました

そして遂にS1で越前がタイブレークの末に跡部との激闘を制し(ここで実は「あと100ゲームやる?」の伏線回収をしている)、跡部を下すことに成功したのです。
そう、関東大会初戦まではギリギリ保たれていた氷帝のプライドが遂に全国大会で砕け散ることになり、跡部が越前に敗北することで氷帝の神話は崩壊しました
敗者切り捨てでやってきた跡部様がとうとう敗者になってしまったわけであり、きちんと自己鍛錬や制度の見直しを行わず自己目的化してしまった結果がこれです
生意気な越前リョーマという「新しい青学の柱」の元に氷帝の時代は終わりを告げますが、これをより物語のテーマへと深めて解像度を上げたのが立海戦でした。

立海戦の場合、まず関東大会で浮き彫りになったのは「部長不在」であることと「何のためにテニスをするのか?」であり、関東大会は当初の予定では青学が立海に負ける予定だったとのこと。
しかしそれが青学のストレート勝ちになったのはなぜかというと、物語のテーマとして立海に根深く存在している歪んだ「常勝=負けてはならぬ、必ず勝て」を打ち砕くためです。
初期から伏線が用意周到に貼られていた越前リョーマVS切原赤也を草試合で済ませ、さらに本番ではリョーマがあの真田を圧倒してCOOLドライブで破るという快挙を果たします。
これによって真田=皇帝の図式が崩れ去ると共に、立海の「常勝」という概念自体も一度大きな亀裂が入ったことで、新たなる時代が到来しました。

全国大会でリベンジ要素が強かったのは青学ではなく立海だったのですが、立海とは氷帝とは違って敗因を「分析」「改善」はしましたが、それでも制度の見直しや改善をしていません
それどころか以前にも増して締め上げがきつくなってしまい、「勝てば官軍」という考えの元より常勝自体が自己目的化してしまい視野狭窄に陥ったのです。
幸村が「ふざけるな!テニスを楽しくだと!?俺たちは王者だ、負けることは許されない!それが王者の掟!」と嘆く姿はルドルフ戦後の観月の「勝たなきゃ意味がないんだ!」の狼狽と繋がります。
越前リョーマが記憶喪失と五感剥奪という二重の「滅び」を経験し、天衣無縫として「蘇った」ことは同時に立海の自己目的化してしまった「常勝」自体の崩壊も意味するのです。

なぜ氷帝も立海も二度負ける必要があったかというと、それは物語の都合でも大人の事情でも何でもなく、「自己目的化してしまった制度がどうなるのか?」を伝えたかったのではないでしょうか。
ここで話は中国の「科挙」に移行しますが、中国の科挙は今の日本で言う大学受験や国家試験に近い形の厳しい試験であり、その本来の目的は「優秀な人材の輩出」にありました。
しかしこのシステム自体がそもそも選民思想じみていて、上位の強者以外は不要という弱者を切り捨てて敗北を頑ななまでに認めようとはしなかったのです。
その結果どうなったかというと近現代史で台頭する西洋の侵略戦争への対応が全くできず、圧倒的な西洋の武力の前に古臭い科挙のシステムは敗れ去りました

また、日本では戦後日本教育の最大の汚点とも言える「受験戦争」が同じような過ちを繰り返しており、画一的な受験戦争を国力を上げるためだと義務化したのです。
確かにそれで日本の景気は良くなったし国力も向上はしたのでしょう、しかしその裏で大量の落ちこぼれ・落ちこぼしを生むという致命的欠陥もまたありました。
そこから目を背け続けた結果がどうなったかというとバブル崩壊の後路頭に迷う人の続出と大学のレジャーランド化、すなわち「勉強しない大学生」の大量生産でもあったのです。
大学という場所自体が本来は研究目的で本当に向学心がある人だけが行くべきところだったのに、今ではその本来の意義すら見失われてしまっていませんか?

そしてもはや今大学はそのほとんどが単なる「就職予備校」と化してしまい、かつての科挙と同じようにそのシステム自体が自己目的化して本質を見失ってしまいました
その結果今度は「ゆとり教育」という名の「甘やかし」へと走って国をダメにしてしまい、今や日本の教育は迷走していますが、立海の二度の敗北もこれと同じことです。
スポーツにおいて「勝ちたい」という思い自体は決して否定しませんが、それ自体が自己目的化して本来あるべきスポーツの意義を見失ったらもはやノルマと変わりません
勝つことが常態化してしまうと、それは氷帝とは別の意味での停滞と組織の硬直化を招いてしまい、だから彼らは天衣無縫の極みという「スポーツの本来の意義」に立ち戻った越前の前に敗れ去ったのです。

越前リョーマは氷帝や立海のように「テニスのエリート」ではありますが、だからといって「弱者を切り捨てる」ということを一度たりともしたことはありません
むしろ自分自身に「まだまだだね」と言い聞かせ、困っている人や弱っている人がいたら彼なりの形でテニスを通じて悪人を成敗し正しきテニスへ導いてくれます。
越前リョーマは生意気ではあっても選民思想のようなものはなく、テニスが下手な人のことを笑ったりばかにしたり見下したりせず、できるまで見守っているのです。
そうして歪みを正した上で改めて「テニスを肯定する=テニプリっていいな」になるわけであり、それを表現したのが最後の天衣無縫の極みでした。

こう考えると、「テニスの王子様」は描写の派手さはともかく根底の価値観や物語のテーマは決してリアリティーのないものではないことがわかります。

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