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映画『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』(1993)感想〜藤子F不二雄は所詮「子供騙し」の似非天才作家〜

先日、スーパー戦隊シリーズを題材に「子供向けとは何か?」「何故スーパー戦隊を見るのか?」についての記事をこちらにて書かせていただいた。
そんな時ふと頭に浮かんだのが「ドラえもん」であり、それこそ大長編に関しては子供の頃足繁く映画館に通って観に行った経験があるが、大人になってからは全く観ていない。
そして今も尚観て批評しようという気が全く起こらないのだが、その理由に関して今回久々に見直した映画『ドラえもん のび太とブリキの迷宮』(1993)を題材に書いていこう。

評価:E(不作)100点満点中35点

これこそ正に「思い出補正」というものの悪い例であり、子供の頃の思い出だから綺麗で楽しそうなだけで、大人になって見直したら見直す価値もなかった


ただ、これに関してはアニメ『ドラゴンボールZ』『ONE PIECE』『クレヨンしんちゃん』『名探偵コナン』辺りの短編映画のようなものだから仕方ないのかもしれない。
スーパー戦隊や仮面ライダーだってテレビシリーズの延長線上で映画もやらせて貰ってるだけで(そっちのがマネタイズしやすいから)、あれをまともな「映画」として観ている人は少ないだろう。
だからあまり散々に扱き下ろすのもどうかとは思うのだが、前回ああいう記事を出して啖呵を切ったからにはこちらも責任を取って書かねばなるまい。


藤子不二雄は所詮「子供騙し」の似非天才作家

これは改めて大人になって他の天才作家の漫画も読み返すようになってから強く思うことだが、藤子不二雄は所詮「子供騙し」の範囲を超えない似非天才作家、即ち秀才止まりである。
子供向けの作品には大きく分けて2種類あり、1つが「大人も考えさせられる普遍性を備えた名作」であり、もう1つが「思い出補正で綺麗に見えただけの子供騙し」だ。
そして藤子不二雄という天才の領域にまでは行けなかった秀才止まりが残したものは間違いなく後者である、少なくとも「ドラえもん」に関してはそうだろう。
そもそも原作漫画の『ドラえもん』が何故国民的漫画と言われる程の人気になったのかというと、最初は今の明るい路線とは全く違う「負け犬根性」のネガティブな路線からスタートしたからである。

第1巻の1話を読んでもらえればわかるが、ドラえもんが未来からやって来たのは落ちこぼれの劣等生で運が全くない野比のび太というダメ人間を改心させ、まともな人生を歩ませるためだ。
実際にのび太が改心せずに大人になった時の未来は悲惨なものであり、大学は出て起業しても倒産し多額の借金をこさえることになり、奥さんも憧れの源静香ではなく剛田ジャイ子である。
そんな彼を改心させるために未来から教育係というかメンターのような存在としてやって来たのだが、それまでの少年漫画にはない等身大の根暗なオタク属性、今風にいえば「陰キャ」とでもいうべきキャラ性が斬新だった。
彼は私の中でアムロ・レイや碇シンジと並ぶ「三大根暗主人公」と呼んでいるわけだが、モデルはいうまでもなく少年時代の冴えなかった藤子不二雄自身であり、彼の屈折した少年時代の日常をややSFっぽく描いているだけである。

彼の憧れにして嫉妬の対象にもなり得るのが出来杉英才であり、彼は正真正銘非の打ち所がない完璧超人であり、これはおそらく「足下にも及ばない」と公言していた漫画の神様・手塚治虫のカリカチュアであろう。
そんなのび太に力を貸しているドラえもんはいうまでもなくもう1人の藤子Aであり、AはFとは異なる奇抜なアングラ路線で大成功を収め、Fと二人三脚で漫画家として大成していったのではなかろうか。
だから『ドラえもん』という作品は子供向けではあるものの、中身はオブラートに包まれた秀才漫画家・藤子F不二雄のリアルな日常であり、それが大人になって読み返すと何とも気持ち悪く見えてくる。
こうまで作家の負け犬根性が露呈している作品はそれこそ富野の「ガンダム」や庵野の「エヴァ」くらいであろうし、それが読者の共感を呼んで日本人(のオタク)受けが良いので国民的漫画になったのだ。

そんな『ドラえもん』の最終的なゴールはあくまでも「のび太の自立」であり、それに関しては原作漫画の10巻に入る前の段階で一度「ウソ800」やジャイアンとの一対一の対決で公式に映画化したはずだった。
だから、そこできちんと物語を終えておけば『ドラえもん』は間違いなく子供向けの中における革命を起こしたアンチヒーロー漫画の大傑作として高い完成度を誇る作品として世に残ったであろう。
しかし、幸か不幸か世間は「ドラえもん」を終わらせてはくれず、結局「サザエさん」「ちびまる子ちゃん」と同じで他愛ない日常のわちゃわちゃを延々と繰り返すだけの幼稚な作品に成り下がってしまった。
あの最終回で涙の決別を果たして成長したのび太のキャラクターは毀損されてしまい、どこにでもあるただの凡庸な作品に成り下がってしまい、それが原作者亡き後もテレビシリーズは延々と続けていることになる。

だが、そんな中で更なる悲劇はそんな風に楽に金稼ぎが出来てしまう仕組みに乗っかった作者が商業主義・拝金主義の為に己の魂を売り渡し、遂に手を染めてはならない禁断の領域に突入したことである。
それこそが毎回異世界なり過去なり未来なりに行き悪人をやっつける「大長編ドラえもん」シリーズであり、この流れが現実化した瞬間に作家としての藤子F不二雄は死んでしまったも同然である。
作家性よりも人気・地位・名誉に固執しあくせく働く作者はもはや単なる「エコノミックアニマル」でしかなく、だからこそそんな体制の中から大人になっても見られる名作が誕生する訳があるまい。

「ドラえもんに頼らない」と言いながら結局ドラえもん頼り

前置きが長くなったので本格的な評価に入るが、本作がテーマにしたのは「機械によって支配される人類」という散々使い古されたSF的テーマであるが、一番の引っかかりは結局ドラえもん頼りになってしまったことである。
本作は前作「雲の王国」や次作「夢幻三剣士」と並んで「ドラえもん抜きで戦う」という状況が発生したことであり、本作に関してはドラえもんは敵のナポギストラー軍に破壊されて海の藻屑として捨てられた。
これはかつてない展開であり、もしこの状況をのび太たちが最後までドラえもんに頼ることなく自分たちだけで乗り切れたら少しは評価も高まったであろうし、またそれが「人間の底力」としても評価出来たであろう。
実際にジェット機を次々とホームランで撃ち落としていくジャイアンの下りや土壇場での機転を利かせて乗り切るのび太のアドリブなんかは凄まじかったし、前半の仕込みは中々によく出来ていた。

しかし、問題はのび太たちだけでは結局どうにもならないからとのび太がミニドラを使ってドラえもんを修理させ、最終的にビッグライトだのどこでもドアだのといった何時もの便利道具に頼ったことである。
ラストで取ってつけたようにのび太が「僕もこれからはドラえもんに頼らないようにする!」といっていたが、そのドラえもんを最終的に頼ったのはのび太たちなので全く説得力がない
そもそもこのテーマに関しては最初の項目で述べたようにドラえもんとの別れを描いた時点で「物語」としてのドラえもんは完結したのであって、そこから先は人気商売の延長に過ぎないのだ。
だから、「人類VS機械」という総力戦で描けばそれなりにもものになり得ただろうに、結局のところ最終的に22世紀の便利道具が安易に全てを解決してしまう構造になってしまったのである。

興味深かったのはサピオたちが22世紀に近い科学力を有していたことであり、特にジェットターボで浮遊する島(これは『ONE PIECE』のワノ国でオマージュされていた)は純粋に面白かった。
また、どこでもドアに近いアイテムも使っていたのも、後述するナポスギトラーを破壊するウイルスが入ったフロッピーディスクという発想自体も目を見張るものがあるだろう。
ここら辺に関しては流石に発想力がそこそこにある藤子F不二雄らしさがよく出ているのだが、やはり根本的な部分で「最終的にドラえもんに頼ってるじゃないか」という引っかかりはある。
まあ逆にいえば今回の敵はドラえもんさえいればどうにかなってしまうような敵だということであり、実は歴代の敵の中でも相当に弱いのではないだろうか。

また、最終的になんだかんだドラえもん頼りになってしまったことでサピオたちもまた「異星人に助けを請わなければならない脆弱な存在」ということになっていた。
「人間が人間らしく生きていける社会をつくりましょう」とサピオ父は言っていたが、そもそもナポギストラーたちが人類を支配する環境を生み出したのは他ならぬサピオ父自身である
自らの監督不行き届きやリスクマネジメントが出来ていなかったことへの責任の追及を曖昧にしておいて、表向きの機械社会が作り上げたディストピアを破壊して解決したつもりになっただけだ
まあそれを考えれば『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)は本作をはじめ「ドラえもん」のような未来SFが抱えていた諸問題にしっかり向き合ってよく作られた名作なのだなと感心する。

ナポスギトラー帝国の倒し方は「毒を以て毒を制する」であり反則

そして問題はナポギストラー帝国の倒し方だが、ナポギストラーの名前からわかるように「ナポレオン」と「ヒトラー」を組み合わせた独裁者のカリカチュアであろう。
こんな時代遅れの古臭いレトロな軍事国家を90年代にも入って使っているF先生の感性も鈍ってきたなと感じるのだが、その倒し方は芋づる式によるものであった。
これは同年代だと「ファイバード」や「パトレイバー」でも使われていたが、結局AIが暴走して作り出した中央集権国家はトップさえ倒せればそれでいいのである。
だからナポギストラー帝国の倒し方自体はいたって簡単で、開発者のサピオ父がいざという時のために作っておいた破壊プログラムが入ったものをナポギストラーに飲み込ませて狂わせればいいのだ。

これ自体は真っ当な解決手段であり、ドラえもんの便利道具が直接の決め手になるのではなく、あくまでも当人たちの世界の技術によって解決するというそれ自体は筋の通ったものである。
糸巻き巻きの歌を歌いながらどんどん狂っていく様や最期の断末魔まできちんと描かれたのはシュールでありながら、演出として悪くはなく機械帝国が暴走した末路の呆気なさをよく示して居た。
しかし、これも穿った見方をしてしまえば「毒を以て毒を制する」であり、こう言ってはなんだがやっていることがダークウェブ辺りに居そうな悪質なハッカーと大差ない卑劣な手段だ。
最終的に「機械に頼らない社会を作ろう」がテーマであるにも関わらず、機械帝国の問題を解決する手段が人類が生み出した同じ機械であるというのもなんとも皮肉なものではある。

ただ、逆にいえばこの回答の中にこれから先の人類が辿るかもしれない1つの歴史の縮図が示されているともいえる。
今人類はどんどんAIによって楽できる社会が作られているが、それもさじ加減や程度を間違えてしまうとナポギストラーのようなAIに支配され奴隷化させられる、文字通りの「エコノミックアニマル」が出来上がるということだ。
しかし、AIはどこまで行こうと所詮機械だからプログラムされていること以上のものは出来ず、人類のように絶えず時代の変化に合わせた進化をすることが不可能だ、やろうと思ったらアップデートをしないといけない
そこをサピオ父は逆手に取っていざという時のネガティヴシミュレーションをしていたことになるわけである、なぜあんなめんどくさい息子にすら解けないような悪趣味な迷路をホテルの地下に作ったかは謎だが。

まあ最終的にそこで落ち着いたのはいいとして、どうにもこの倒し方は人類がイカサマないしチートコードを使って敵を倒すということをやっているようでいて、見ていて気持ちのいいものではない。
ドラえもんに頼らざるを得なかったことに加えて「機械に頼らない」などと言いつつ結局機械で解決しているという最大の矛盾に関して「子供向けだから」で誤魔化して逃げているのは誠実ではないだろう。
こういうのをこそ正に「子供騙し」というのであって、表面上は良しとしてもいいことであったとしてもよくよく深掘りしていくとあっちこっちで論理が破綻していることはこの時代の作品には良くあることだ。
もちろんそれをねじ伏せるだけの圧倒的なパワーや演出力があればいいが、「ドラえもん」という作品で見せられるものには限界があるからどうしてもこうなってしまわざるを得ないのだろう。

因みにこの「毒を以て毒を制する」というやり方では決してうまくいかないことを示しその先を行ってくれたのが『機動武闘伝Gガンダム』(1994)という傑作なのだが、この辺りもやはり格の違いが出ている。

そもそも大長編ドラえもんの構造自体に問題がある

そして最後に、そもそも本作に限らず私は大長編ドラえもんの構造自体に問題があると思っていて、日常の中にいる等身大の小学生が冒険であんなに強くなれるだろうか?と思えてならない。
同じような疑問は『デジモンアドベンチャー』(1999)にもあって、あれも冒険前までは等身大だった少年が戦時教育も受けていないのにあんなに冒険できるかという疑問がある。
何より彼らが向き合う問題はなぜか国家レベルや宇宙レベルの規模だったりするものだから、それを敵に回してなぜああも冷静で居られるのかに関する違和感は拭えない。
読者はそれを「大長編補正」という言葉で擁護しているが、藤子先生は結局のところスーパー戦隊や仮面ライダーでさえ苦しんでいる問題に中途半端に片足突っ込むことをしてしまった。

「等身大のヒーロー」というとスーパー戦隊シリーズでいえば、それこそ『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)からの90年代戦隊が奥底に抱えたテーマとして取り組んでいた問題である。
特に『激走戦隊カーレンジャー』(1996)や『電磁戦隊メガレンジャー』(1997)がそのテーマに対して真正面から取り組んだものであったともいえるだろう。
ではなぜ大長編ドラえもんがつまらなくてスーパー戦隊シリーズが面白いのか、それはやはりスーパー戦隊の場合はヒーローに選ばれし5人が決して真の意味で等身大の存在ではないからだ。
カーレンジャーの自動車会社で働く5人にしてもINETに選ばれた5人の高校生にしても、確かに「地球の平和」「宇宙の平和」なんて漠然としたものよりも自分の日常の方が大事である。

だが、そんな彼らであってもやはり終盤では「人類が本当に守るべき価値がある存在なのか?」「宇宙の平和を本当に5人だけで守れるのか?」という難しい問題と向き合わざるを得ない。
そしてそれは『秘密戦隊ゴレンジャー』(1975)を始祖とする歴代のスーパー戦隊シリーズが連綿と取り組んで格闘してきたテーマでもある。
つまり「ミクロな人間関係」と「マクロな背景設定」をどれだけ融和できるか?という問題なのだが、大長編ドラえもんはこの部分の接合があまりにも弱い。
普段は画面の向こうのヒーローに胸を熱くする彼らがなぜか映画になると途端にそのヒーローになっているというのは冗談抜きで「ヒーローごっこ」の延長線上でふざけて戦っているようにしか見えないのである。

本作にしたってあくまで「ミクロな人間関係」は解決したかもしれないが「マクロな背景設定」に関しては必ずしもきちんと解決して円満に終わったとは言い難い
しかし、藤子先生はその辺のことを有耶無耶にしたまま表面上だけヒーローもののフォーマットを借りてただ似たようなことを毎年やり続けてしまうことになる。
『クレヨンしんちゃん』の劇場版だって似たようなものだろうし『ドラゴンボールZ』の安っぽい短編劇場版だって同じようなものだから大差はない。
そういう「鵜の真似をする烏」の典型が人気商売のために悪魔に魂を売り渡した似非天才作家の手がける大長編であり、こういう「子供騙し」を擁護してはならないだろう。

藤子不二雄先生が生涯を通して一度も手塚治虫先生を超えることが出来ないまま終わるのも納得である。

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