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Z世代がやたらと好んで使いたがる「タイパ」「自己肯定感」「承認欲求合戦」の奥底に透けて見える消極的自由

イチローの語る「自己肯定感」に対する持論が実に興味深い、確かに私も兼ねてより「自己肯定感」という言葉や概念なるものが理解できなかったし理解するつもりもない。
というか、もっといえば俗に言う「Z世代」なる若い人たちが好んで使いたがる「タイパ(タイムパフォーマンス)」「承認欲求合戦」なるものも私は全くもってわからないのである。
一時期は私もそういう世代の人たちとnoteやX(旧Twitter)で交流を持たせてもらったことはあるが、彼らが奥底で何を考え行動しているのかがブラックボックスの塊すぎて不気味に感じられた
表面上は同じ日本語を話し同じ作品について意見や議論を交わしている筈なのに、表面上噛み合っているように見えて奥底で彼らと有意義なコミュニケーションが出来ている感じがまるでない。

これは単なる世代や生きてきた時代・環境の問題といったことだけではなく、もっと根底の部分においてZ世代と呼ばれる人たちの価値観にはある種の諦念・諦観のようなものが見えるのだ。
現在の主流と言われる価値観が必ずしも正しいとは限らないしZ世代の人たちが全員そういう価値観の人ばかりではないことなど重々承知だが、それでも言語化しようのない堪え難い違和感は膨らみ続ける。
その気持ち悪さをはっきりと言語化するためのきっかけをこのイチローと堀田茜の対談から見えた気がして、やはりメジャーという厳しいマウンドで戦い続けた歴戦の勇士は語る言葉や考え方も一流だ。
自己肯定感という言葉や意味を気持ち悪いと感じられるかどうか、今ある世の風潮に対して批判的思考力を持って臨むことができるかどうかは大事なことであり、正しい間違いは別として今回はこれについて考えてみたい

私がこのnoteを始める前にブログやTwitterのスペース・呟きなどでスーパー戦隊シリーズやジャンプ漫画などのサブカルチャーに関する意見交換を私のかつての読者層と意見交換したことがあった。
最初の段階はそこそこ上手く行っていたというか私が意図的に彼らのレベルに合わせて話していたのだが、段々と話していくうちに私はとある違和感に奥底で気づく。

「Z世代」と呼ばれる人たちの作品論や意見には「論理的整合性」はあるが「深み」「ユーモア」「独自性」がイマイチ欠けている。

そう、私のフォロワー(という名のエピゴーネン)だった人たちと話していて深く感じたことはそれであり、確かに彼らには彼らなりの好き嫌いや育んできた価値観があるのだろう。
しかし、どうにも彼らの語る言葉の中身や温度感、もっといえば「想い」というはっきりと数値化出来ないところで見たときに、本当に深いところまで自己研鑽や内省を深めた跡が見られないのである。

それがおそらく超一流の評論家として私が一目置いていた淀川長治や蓮實重彦との大きな違いであり、内容以前にまず作品そのものに対する想いや熱といった意識の差が物凄く大きい。
もちろん映画評論家の中でもこの2人は世界レベルで認められているが故に特別なのだが、なぜそこまで行けたのかというと何と言っても映画に対する熱くて深い想い・愛があったからだ。
サイレント映画の黎明期からずっと映画を何万本と原体験で見てきた彼らの中には膨大な映像の批評言語とそれに伴う自己研鑽や内省を深める作業を気が遠くなるほどに繰り返してきたのであろう。
彼らが自身の肉声ないし文章を通して紡がれる映画評論・批評にはそういう血の滲むような努力と圧倒的な知識量・知性も含めた「映画体験」のエッセンスが生々しくそこに露呈している。

そんな彼らの生き方には当然今日で言う所の「タイパ」「自己肯定感」「承認欲求合戦」というものはなく、映画狂人と呼ぶべき人たちが徹底して己の中の「映画とは何か?」を突き詰めてきた結果なのだ。
とにかく自分が大好きな映画のためなら自分をとことんまで追い詰め、多くを語らずとも常に映画の「現在」を見つめ続ける彼らの生き様は私も魂を揺さぶられ、思わず尊敬せずにはいられない。
まあそんな雲の上の人たちと比べるのも間違ってはいるのだが、私が辿り着きたいハードルの高さに比べると、本当に私が交流を持たせてもらった若い人たちが語る言葉の何と薄くて深みのないことよ。
それに嫌気がさしてウンザリしたからこそ私は彼らから離れたわけだし、もちろん今時の若い人たちの中にも素晴らしい人材はいるのかもしれないが、まあその代表が今散々落ちぶれているコムドットみたいなのでは御里が知れる。

そもそも「タイムパフォーマンス」といい「自己肯定感」といい、Z世代が好んで使いたがるこれらの言葉は結局のところ「努力もせずに楽して成果だけは頂こう」という堕落した思考を言い換えたものではないか?
映画や動画の倍速視聴で効率よく都合のいい情報をだけを抜き取ろうとするところや自己研鑽をする努力はしたがらないくせに誰かに認めてもらおうとする様は見ていて実に滑稽である。
それこそこないだ私に対して不躾な粗相を働き私が書いた文章のスタイルや思想の上っ面だけを掠め取って楽しようとした人も同じ、結局は他人の成功体験を聞いて酔い痴れて自分が成功者になった気でいるだけだ。
以前に「リュウソウジャー」の放送時に「自分たちをギンガマンだと思い込んでいるニンニンジャー」という秀逸なフレーズが流行ったが、今の若い人たちはそのニンニンジャーのタカ兄レベルにすら至っていないのではないか。

何が言いたいかというと、どうも今の若い人たちはタカ兄と同レベルの、言うなれば勉強はできるし言葉遣いもそれなりで表面上はいい子・いい人たちに見えるかもしれないが本質的に「思慮深さ」「思いやり」がない
やたら合理的とか論理的整合性がどうとかオタクの誇りがどうとか言う割には、1つのことをとことんまで突き詰めて自分が納得できるレベルまで考えに考え抜いて何度も見直してエッセンスを吸収しようとしないのである。
勉強に例えるならそれは教科書レベルのことすらもまともに理解できていない奴が中途半端に見栄を張って難関大の赤本や上級者向けの受験参考書・学習参考書にあれこれ手を付けて失敗するという典型だ。
合理的とか論理的整合性とか、そんなのはまず基礎基本の徹底がきちんとできた上で自分なりに上を目指して試行錯誤した結果「これはいるけどこれは不要」という取捨選択を繰り返して身につくものである。

それをZ世代の人たちは楽してタイパとか自己肯定感とか言って目の前にあるSNSやそれを発信する為のPC・スマホといった最先端のデジタル機器に依存し、自分自身の思考や行動のあり方そのものを問おう・磨こうとしない
『ドラゴンボール』でいうならさしずめ魔人ブウ編におけるゴテンクスや最終回で出た悪ブウの転生者であるウーブのような「力は十分にあるが力の使い方がなっていない」という未熟で幼稚な子供である。
まあスーパー戦隊でいえばそれは『海賊戦隊ゴーカイジャー』以降もその傾向はあって、大量のレンジャーキーを持っているくせに歴代戦隊の力をどう使って戦うべきかがわかってない宇宙海賊もそうだろう。
つまり「力そのものは受動的に手にしている」が「自らその力を能動的に使いこなそうという修行・訓練は嫌だ」という消極的自由こそが今世間に流布されているZ世代の主要の価値観ではなかろうか。

どんなものでもそうだが、1つの技術・思考・行動を実践で使えるものにするには10年以上はかかるし、むしろ時間をかけてじっくり本質を理解するところまでいかなければそれは本当の意味での「自己肯定感」を高める成功体験にはならない。
それはタイパやコスパを最初から追い求めて楽しようとする考えからは絶対に生まれないものであり、「悪銭身につかず」という諺があるように楽して得たものなんてすぐさま自分から離れていってしまう。
イチローは動画で自己肯定感に置き換わる言葉を「手応え」と言っていたが、その「手応え」とはいろんな失敗や挫折を繰り返す中で身につけたものであり、それだけが彼を一流の野球選手たらしめていた。
平成の芸能界に国民的スターとして君臨していたSMAP・嵐だって最初から今の姿あるわけではなくドームツアーをやるまでに10年近くはかかっているわけで、時間がかかったからこそ無理なく着実に国民的スターの座に上り詰められたのである。

それを楽して得ようなどと私は生まれてこの方一度も思ったことはないし、どれだけ他者がお膳立てをしてくれたところでそのチャンスを活かすも殺すも自分次第なのだから、自分の中にきちんとした実績を積み上げていくしかない。
イチローは自身が正にそれを体現してきた存在であるからこそ、昨今流行っている言葉や価値観に対する居心地の悪さに対してこれだけ異議申し立てをしたのであろうし、私もその気持ちは温度差はあれど共感するところはある。
先人のアイデアを盗むのは構わないし楽してみにつけようとするのも構わない、しかし本当にそれを自分のものにするにはどうしても10年単位の自己研鑽と内省は必要であり、そこにタイパ・コスパや自己肯定感は関係ない。
そんなごく当たり前のことすらもわからなくなっているほど、日本人の価値観も感性も鈍化してきた。

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