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YOASOBI「アイドル」感想〜結局人はいつの時代も「偶像」「虚像」なるものに縋って生きていたいのである〜

2.4億もの再生数で凄まじいギガヒットを叩き出しているアニメ『推しの子』、原作及びアニメは未見なのだが、楽曲がどうやら「STORM」と似ているとのことで聞いてみた。
率直な感想は一言、「所詮アイドルとはどこまで行こうと「空っぽな虚像」でしかない」という身も蓋もない事実を明らかにしてみせているということだ。
3DCGが映像の技法に侵食しつつある現代日本のアニメにおいて、敢えて手描きの2Dを使いフラットな絵と全く中身のない空疎な歌詞にしているのもどこか昔懐かしい昭和アイドルの楽曲のようである。
私はいわゆるアイドルの「ガチ勢」「ファン」「オタク」ではないし間違っても感動なんてしないのだが、この曲がなぜこうも今人々の心に対して中毒性をもって何度もアクセスできるようにしているのか?

答えは至ってシンプル、人はいつの時代も「偶像」「虚像」なるものに縋って生きていたいというのが根源的な欲望としてあるからであり、この楽曲はそんな当たり前の事実を突きつけたのである。
この事実に対し、陳腐な「感動」どころか私はどこか畏怖や戸惑いすら感じているのだが、不思議なことに私はこの楽曲のどこにも惹かれなかったし、歌詞もメロディーも刺さらなかった。
アニメーションも含めて、全部が「偽物」でしかないということをこうまで露悪的に描き出し、見る者の心をこうも気持ち悪く揺さぶってくる楽曲が今まであっただろうか?
アイドル系のアニメといえば「アイドルマスター」「ラブライブ!」「アイカツ!」と沢山あるが、いずれも大なり小なり差はあれど明るくキラキラした綺麗事の世界観を演出していた。

ところが、このYOASOBIの「アイドル」は「アイドルなんて所詮虚像、すべてが作り物の嘘だらけの世界であり、それは極めて滑稽である」という性悪説の元に成り立っている。
それが映像としての表象からもわかるし、メロディラインが『進撃の巨人』に代表されるような壮大かつ後ろ向きな暗さ・湿度を伴うマイナーコードも入っていることからも明白だ。
そして歌声もまた、生の人間が歌っているにもかかわらず、まるでVocaloidが歌っているというコメントも多数散見されるように、肉感も温度もない冷たいデジタルの音声に聞こえる。
したがって、サビのところで「誰もが目を奪われてく君は完璧で究極のアイドル」と言われて明るくニコッと笑ってみせたところで、誰もそこに感情移入することはできない

少なくとも私はこの楽曲もアニメも歌詞も、全てにおいて「MVとしては確かに完璧ですね」とはいえても「この曲を何度もリピートして聞こう」とまでは思えなかった。
これは何も爆発的ヒットを叩き出しているものに対する嫉妬から叩くのではなく、本当になぜこんな楽曲が大ヒットしているのか、メロディーやアニメの見地から批評されようと心に響かないのである。
いや、むしろこの楽曲の狙いはそこにあって、見る者を「安心」させるのではなく「不安」に陥らせ、ダークな世界に落とし込んで掻き乱し、しかしアイドルの根源とは何かを描き出すことが1つの目的ではないか。
誰もが本当はアイドルなんて所詮は偶像でしかなく、本来はそこに些かの共感性も理解もないことをわかっている筈なのに、なぜだか人々はそのアイドルという幻影の向こう側に自己投影をしたがるのである。

それが分かっているからこそ、私はむしろ本作に関しては最初から最後まで腕を組んで画面を凝視していたが、本当に面白いくらい微塵も心動かされる瞬間が存在しなかった
全てのショット、全てのメロディ、全ての歌詞がどこか既成のレールだけを上塗りして重ねただけの「アイドルなるもの」のパッチワークにしてエピゴーネンでしかない。
だが、そんなエピゴーネンが人々の心に刺さっているのを見ると、いかに人間は「偶像」「虚像」たるものに奥底で縋って生きているのかが無意識に画面に露呈してくる。
一見昭和・平成の戦後の日本芸能が映画・テレビ・漫画・アニメを通じて生み出してきた「アイドル」の歴史を形式として集約させつつ、それらに対する1種の自己批評をしているかのようだ。

そもそも、英語のidolという単語の語源はギリシャ語のedos(形)であり、また教会ラテン語では「偽りの神、異教の神の像」=「実体なき偶像」でしかない。
なんとも滑稽なものであろうか、人々はそれがたとえ二次元であろうが三次元であろうが、偽りの神を褒め称えお金を落として必死に応援しているのである。
彼らが経済効果はともかく社会貢献をしているわけでもなんでもないのに、ただ何万人ものお客様を前に歌って踊って演技しているだけで食べていけるのだ。
しかし、その人気は決して永続するものではなく、時代の流れやトレンドと共に変化していくものであるし、賞味期限が付き物だからこそ基本は短命である。

そんな縮図が子供の頃からわかっていたからこそ、私は小さい頃から「好きなアイドルは?」という質問が来たら回答に困ってしまうし、「尊敬」する人はいるが熱狂的に応援する推しはいない
小さい頃は多少なりSMAPの木村拓哉や安室奈美恵などはメインカルチャーの象徴であったから「凄い」とは思ったが、その反面テレビの前で虚像を演じ続けるには不撓不屈の肉体と精神が必要である。
そんなアイドルの裏側にある嘘偽りない本音や中身の無さ、陰の部分を本作では包み隠すことなく露悪的に光を当てているところが特徴だが、だからこそ私は尚更感動なんてしない。
浦沢義雄師匠も言っていたが、感動なんて目が汚れた心根のさもしい者のすることであって、真の感動は決して泣くことでも浄化の涙を流すことでも、ましてやそれを誰かと共有することでもないのである。

そして何より、私がアイドルというものを「大変だなあ」と思うもう1つの理由があり、それは私の友達や弟が正にそのような愛されるアイドル気質だったからである。
特に弟は小さい頃からその可愛らしい容姿と性格のために人気者であったが、なぜだか家族であろうと学校であろうと周囲の者に対しては愛想笑いするのに、私に対しては笑わない
何だこいつ、胡散くせえ」と思いながら適度に距離を置きつつ接していたのだが、要するにアイドルスマイルなんて「いい子ちゃん」と思われたいがための作り物の仮面(ペルソナ)だ
アイドルスマイル程胡散臭いものはないことを私は一番身近な弟によって教えられたからこそ、画面の向こうにいるアイドルなんて全員嘘っぱちというのは見抜いていた。

だから私は昔からそうだが、アイドルに過剰に入れ込み応援する人たちの気持ちが全く理解できない、なぜ自分の人生の時間とエネルギーを他人の応援に使うのかが理解できないのである。
もちろん映画・アニメ・漫画・特撮などサブカルチャーでヒーローが活躍するのを楽しむのは1つのあり方だが、それとて全て「作り物」であることは分かった上で俯瞰して見ていた
アイドルが結婚や解散・活動休止をしたところで「〇〇ロス」という感覚に陥ることもない、彼らだって所詮人間なんだから長く活動していれば自分だけの人生の方が大事になってくる
そうなるとアイドルなんてもはやこの世に要らない存在となるわけであり、ある意味この「アイドル」という曲はどこまでその虚像の本質を壊すことができるかの試みなのであろう。

話が逸れたので元に戻して、私は今も昔もアイドルが残した「作品」に興味はあってもアイドル「個人」に一切の興味・関心がない、だから本作にもそこまで入れ込んでいるわけではない。
しかし、だからこそ曲に対しても歌に対しても、そして映像に対しても冷静に見ることが出来るし、それを以ってしてもこの楽曲の滑稽さと紙一重の批評性には驚かされる
その一点においてのみ、私はこの楽曲に対してS(傑作)という評価を与えよう、アイドルが持つ神話の虚構性を露悪的に描いてみせた紛うことなき逸品だ。


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