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『電子戦隊デンジマン』第8話『白骨都市の大魔王』

◼️『電子戦隊デンジマン』第8話『白骨都市の大魔王』

(脚本:江連卓 演出:竹本弘一)


導入

ベーダー一族にも映像作品の文化はあるらしい

「フィルムラーは映像を駆使して時間を自由自在に操り、老化ガスにて赤ん坊でも一気に老人にしてしまうのです」

こんな出だしで始まった今回は完全な箸休めの息抜き回であり、脚本は『仮面ライダースーパー1』などで知られている江連卓であり、内容という内容はほとんどない。
見どころは後半のアクションシーンで出てくるデンジマン5人の西部劇・時代劇・アメフトであり、特にアメフトに関しては『秘密戦隊ゴレンジャー』のゴレンジャーハリケーンのパロディである。
映像を駆使して時間を自由自在に操るというが、老化現象に専用のガスを別で用意して使うあたり決して完璧な技術ではないことが窺い知れて、逆に面白い。
ということなので今回はほとんどB級映画のようなテイストで作られており、これまでのようにガッツリとというよりはサクッと片付けてしまうのがいいだろう。

前回ほど込み入ったドラマはないのだが、前回といい今回といい敵の仕掛けた罠にハマっているのが青梅大五郎というあたり、作り手は一体青梅をなんだと思っているのか?
いやまあ別にいいのだが、あまりにも大葉健二を便利屋扱いしすぎて、汚れ役がほとんど今のところ青梅に集中している構造はどうなのであろうと思うところではある。
基礎自体はもう十分に固まってきたところなので、そろそろ青梅以外のキャラクターも幅を広げて欲しいところではあり、偏りが出てしまっている。
それからフィルムということについても改めて「映画」と絡めて語っておきたいので、今回は内容というよりも「フィルムとは?」についての語りとなろう。

フィルムと映画について

老けてしまった青梅

今回はほとんど遊びとしてしか使われていないのだが、まずベーダー一族の文化に「映画」という娯楽が存在し「フィルム」というものがあったことに驚きである。
地球の文化圏とは違うところに同じようなものがあったのかは定かではないが、令和の今見るともはやフィルム自体がロストテクノロジーとなりつつあるのだ。
令和の今を生きているZ世代〜α世代の若い方々には馴染みのものだろうが、かつての映画・テレビをはじめとする映像作品はフィルムで撮っていた。
私が学生の頃には今のスマホなどについているカメラとは違い、「バカチョンカメラ」というネガフィルムであり、写真屋に持って行って現像してもらったものだ。

それが今はすごく便利な「デジタルカメラ」ができていて、いわゆるコンデジだけではなくミラーレスや一眼レフなども押し並べて一般層が購入できるレベルとなっている
昔はこういうきちんとしたカメラは写真や映画などの映像業界に勤める専門の方々が使う高級な道具という感じで、かつてのパソコンと同じで決して一般大衆の手の届くものではなかった。
しかしIT革命に伴いパソコンやインターネットなどの本来は軍事用技術として用いられていたものが一般層への娯楽として普及したのと同様に、カメラも今や誰もが出にできるものである。
大きいのはやはりスマホやiPhoneなどの携帯電話についているカメラの画素数や撮影技術の向上に伴い、もはやデジタルカメラを買わなくてもそこそこいい画が撮れるようになったからだ。

いわゆるYouTuberやTikTokerなどのネットインフルエンサー型の動画投稿者が主流となったのも上記のことと無縁ではなく、今や誰もが映像作家になれてしまう時代ではある
しかし、一方で誰もがデジタルカメラという最先端の技術を駆使する一方で、かつて使われていたフィルムをはじめとするアナログなカメラの技術はついつい忘れ去られてしまう傾向もなくはないだろう。
昨今の若い世代の方々はおそらくフィルムと言われてピンとこないだろうし、ましてや「映画とは毎1/24秒の死」なんて言葉すらもピンとくる人は少ないであろう、何せデジタルパイオニア世代の私たちですらわからないのだから。
昔はフィルムは1秒に24枚の写真があって、それの連なりでできているのが映画でいう「ショット」と呼ばれるものであったわけだが、これがデジタルビデオになるとその感覚すら失われてしまう。

だから遊びといえど、フィルムを回して巻き戻したり進めたりするというのはカセットテープやビデオテープなどの「フィルム」の文化がギリギリで存在していた私たちの世代までではなかろうか。
そこから下になるとDVDやBlu-rayなどが当たり前になってくるし、今ではネットのサブスクリプションが主流になっているから、フィルムが昔はいかに高価で貴重なものだったかなんてわかるはずもない。
そういう意味で今回の話を笑いながら「あったあった」なんて共感できるのは「フィルムとしての映画」という文化を体験した昭和世代までであり、デジタルネイティブの方々にピンとくるものではないだろう。
今でも映画業界ではデジタルではなくアナログのフィルムで撮るという監督もいるらしいし、それこそ音楽でもカセットテープやレコードを愛用するという人もいるらしい。

後半の西部劇・時代劇・アメフトについて

今ではあまり見なくなった西部劇

今回の見どころというか目玉になっている後半の西部劇・時代劇・アメフトについてだが、これももはや今の時代は「ロストカルチャー」になりつつあるものではなかろうか。
小林靖子が「文化としての時代劇がどんどん失われて行っている」というようなことを言っていたのだが、これは何も昭和生まれのプロ脚本家がいう懐古趣味の頑迷固陋だけではない。
客観的事実として、我々の文化からは西部劇・時代劇というかつての映画・テレビドラマの文化に存在していたものがどんどん衰退し消えつつある
救いなのは昨年の北野武の『首』のように、まだきちんと本格的な凝った時代劇を撮れる人がいるだけマシなのだが、こういうお遊びのレベルですら成立しなくなっているのだ。

東映はかつて時代劇や任侠映画などでヒットさせた功績があるのだが、これですら黒澤明という一流の作家が現れ『七人の侍』などが作られると今度は任侠映画に走るようになる。
西部劇に関しては日本ではなくハリウッド映画の中で作り上げられた文化なのだが、これもやはり「過去の文化」として忘れ去られつつあるものとなっているようだ。
そしてもう1つのアメフトだが、これに関しては意図的に『秘密戦隊ゴレンジャー』のアクションのコンセプトにあった「スクラム」というもののパロディだといえる。
5人が肩を組んで敵の戦闘員と激しくぶつかり合うのを見ているとゴレンジャーハリケーンを彷彿させるが、そこも含めて「戦隊の中で何が描けるか?」をB級映画のように示したのが今回のアクションシーンではないか。

スーパー戦隊シリーズのアクションに関しては実は選択肢という選択肢は少なく、空手やボクシングなどの徒手空拳・西部劇などで用いられる銃撃戦・時代劇で使われる剣戟・集団球技で用いられるスクラムの4つだ
現在放送中の『爆上戦隊ブンブンジャー』まで含めて見ても、結局のところはこれら4つの中からふくらまし、それをどんな文体として見せるか?というだけの話であり、実は戦隊で使われるアクションの選択肢はそう多くはない
そういう意味で今回の後半で遊び目的で描かれている西部劇・時代劇・アメフトは戦隊シリーズで用いられているアクションのスタイルのうち3つも明らかに露呈させているわけであり、その確認作業のようでもある。
無論作り手にそんな意図はなかったであろうが、遊びのつもりで描いたものが思いがけず意図していなかったものを露呈させたという意味で今回はなかなか面白かった。

総合評価としてはC(佳作)100点満点中60点であり、正直普遍性はあまりないものだが、映画と戦隊の文化を深くまで理解していると違ったものとして見えるというものだ。
その辺りの意外性が盛り込まれているのが単純な「基礎」を作っただけにとどまらない本作の魅力なのかもしれない。

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