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近年のドラゴンボール劇場版が登場したことで再読の価値がなくなった人造人間編と魔人ブウ編

ふと思ったのだが、なぜ今更になって鳥山明先生が「ドラゴンボール」を劇場版という形で脚本から何から全面的に監修しているのであろうか?
ファンたちからの人気が高いから?確かにそうかもしれないが、鳥山先生レベルの作家であれば今更働かなくても孫の代まで遊んで暮らせるくらいには稼いでいるはずだ
そんな人が、基本的に自分のしたいことしかしない人がなぜ「神と神」以降全ての劇場版の脚本を担当しているのかを考えてみる。
最初の動機は3.11(東日本大震災)で被災された方達への元気付けというところからスタートしたが、実はそれは表向きの建前ではないか?

また、2009年にアメリカで大爆死した『DRAGONBALL EVOLUTION』のあまりのお粗末な出来に鳥山先生がお怒りになったというわけでもないと思う。
確かにあの映画は一切擁護する価値はないゴミクズだったが、それだけで「神と神」以降の映画を担当するとは私には思えないのである。
鳥山先生の「作家性」という観点に着目すると、実は近年の劇場版は全て人造人間編(正確にはフリーザの地球来襲)以降のリブートだ。
これはどういうことかというと、原作者自身が連載の引き伸ばしや商業主義といった大人の事情で歪に膨らんでしまった「ドラゴンボール」を自分の手で直したかったのであろう。

先日かなり好評頂いたこちらの記事だが、個人的に原作の「ドラゴンボール」はピッコロ大魔王編とナメック星編(フリーザ)までが物語の構成としては美しい
まずピッコロ大魔王編、アニメでいう無印編は「地球人・孫悟空」の武道家としての物語であり、1人のわんぱくな少年が仲間との出会い・冒険・武道を通じて最強の武道家になるまでを描いている。
そしてサイヤ人編とナメック星編、アニメでいうZ前編は「サイヤ人・カカロット」というもう1つの孫悟空のダークサイドを描いた物語として、パワーインフレと共に非常に良くできていた。
特にナメック星編の駆け引きと緊張感は全体を通して良くできており、バトルの規模感としても孫悟空VSフリーザの時点で惑星破壊なんて余裕というレベルまで行っている。

ただ、人造人間編〜魔人ブウ編、正確にはフリーザが復活して地球に復讐目的で来てからの「ドラゴンボール」はそれまでの高揚感が嘘なほどに盛り上がらない
もちろん見所がないわけではない、つまらないならつまらないなりに鳥山先生は個々のアイディアや演出・表現ではそこそこ面白いものを提供できていた。
例えば人造人間編で個人的に感じられたのは「見えない悪意の怖さ」であり、それを象徴するかのようにトランクスが呟いている。

そう、人造人間編〜セルゲームがフリーザ編とはまた違った怖さを醸し出していたのはラスボスが最後まで誰かがはっきりしないところにあった。
例えばピッコロ大魔王編・サイヤ人編・ナメック星編は倒すべきラスボスが最初から決まっており、あとは悟空がそのラスボスたちをどう倒すかという過程を楽しめた。
またそれだけではなく「ドラゴンボール争奪戦」という要素も物語の中に組み込まれていて、特にナメック星編での地球人組・ベジータ・フリーザ軍という三つ巴の構図はとても面白い。
ナメック星のドラゴンボールを巡っての知略を駆使した裏のかき合いとそこからのフリーザ戦のエスカレートは超サイヤ人の登場というピークまで含めてよくできている。

だが、人造人間編では翻って地球規模のショボいテロリズムになっており、しかもラスボスかに思われたドクターゲロこと20号は17号と18号にあっさり殺された。
敵の親玉に子分たちが下克上をあっさり起こして、更に別のところから最強の人造人間が誕生するという展開があったが、これ自体にさしたる面白みはない。
そもそもなぜ地球のマッドサイエンティスト風情が作り出した機械人形ごときが宇宙の帝王よりも強いのか、それを納得させるだけのロジックは示されていなかった。
また、ドラゴンボール争奪戦という要素も失われて単なる死人復活のための道具扱いされてしまい、最後になぜ孫悟飯がセルを撃破すべきなのかもよく分からない

鳥山先生の画力によって捩じ伏せられているところはあるが、物語として見た場合の人造人間編〜セルゲームはフリーザ編の破綻・矛盾は擁護できなかった。
悟飯の超サイヤ人2覚醒やラストの親子かめはめ波は確かに感動的な要素ではあるが、やはりそもそもなぜセルが悪として撃破されなければならんのかという理由が薄い
そもそもセルは本当に倒されなければならないほどの極悪人だったかというとそうではない、性格は孫悟空やベジータのようなサイヤ人がベースなのだから。
星の侵略や破壊に興味があるわけじゃないし、大量虐殺も完全体に進化するためであって、完全体になってからは未来トランクス以外誰も殺していない。

話が脱線に脱線を繰り返した結果訳のわからないものになったが、なんだか無駄に盛り上がっている風に見えるのが人造人間編〜セルゲームである。
だが、地球産のアンドロイド風情が星々を破壊して暴れ回り海王様からも恐れられていた宇宙の帝王よりも強いという設定にそもそも無理があった。
今見直すと、90年代以降台頭してくるテロリズムという要素を示していた点では面白い発想ではあったが、それでもやはり蛇足であるのは否めない。
そこで鳥山先生は魔人ブウ編でどんな手段に出たのかというと、「強さのインフレそのものをギャグにする」という無茶な開き直りを行ったのである。

魔人ブウ編がリアルタイムで見ていて1つ興味深かったのは魔人ブウという悪のカービィみたいな奴を出すことで、「どれだけ強くなっても無意味」という説得力を出したことだ。
元々が「Dr.スランプ」というギャグ漫画を描いていた作家だから、一周回ってサイヤ人のバーゲンセールに伴う安売りと大盤振る舞いをしつつ、その構造をもギャグにしている。
だが、そんなギャグ全開の話だからこそ、魔人ブウがお遊び感覚で人をお菓子にして食べたり街を次々と破壊したりする展開になんともいえないシュールな面白さが生まれていた。
因みに魔人ブウ編に関しては以前もブログで述べたように、あでのい氏や違法バタピー氏による擁護記事がネットでバズっているが、私に言わせればこれは相当に無理な牽強付会である。

念のため、リンクを貼っておく。

両氏共に「魔人ブウ編は悟空とベジータが自分たちのやって来たことのツケを清算する話」としているが、これは恐らく後進の世代の意見だと思われる。
少なくとも私のような原作リアタイ勢はこんな感想を一度も読んだことがないはずだし、魔人ブウ編を読んでこんな感想が出てくるこの人たちにこそ私は聞いてみたい。

本当に魔人ブウ編がそんな殊勝な心意気で作られた話だったかというと実は逆で、感動的な展開と見せつつそれすら全部ギャグにしてするりと収めてしまう裏技ではないだろうか。
例えるなら「黄金勇者ゴルドラン」「激走戦隊カーレンジャー」のような「バトルものの皮をかぶったギャグ漫画」があの魔人ブウ編で描かれていることの本質である。
魔人ベジータの展開もそこだけを切り取ると確かに感動的っぽいが、むしろあの演出はその後にあっさり復活してしまう魔人ブウと諸事情であっさり蘇ってしまうベジータという展開にあった。
ベジータが後に復活してしまいベジットにポタラ合体するのであれば、なんのためにわざわざ死なせたのか意味が全くわからないであろうし、キャラの清算という意図でこんな展開は描かないだろう。

魔人ブウ編に至ると鳥山先生は画力も含めて完全に開き直りでギャグに振り切っている、「どうせまともな展開になりっこないんだから好き放題やっちゃえ!」と、まるで全王様みたい。
私が魔人ブウ編を蛇足of蛇足と見なしているのは単純にたかが魔人ブウ1体を倒すためだけにどんだけ時間がかかってんだと、展開が間延びしてしまい冗長だからである。
確かに魔人ベジータ・ベジット・アルティメット悟飯・ゴテンクスなどインフレの大盤振る舞いではあるが、魔人ブウがそれらをほぼ吸収するのでパワーアップ自体に意味がない
そして最後は取ってつけたかのような「カカロット、お前がナンバーワンだ」などと認めるベジータのくだりで、個人的には「ベジータお前つまんない男になったなあ」が正直な感想だった。

しかも魔人ブウ自体がギャグキャラであるため徹頭徹尾緩みっぱなしで、今見直すととても読めたもんじゃないので、正直上の批評は私からすると「よくそこまで力入れて擁護できるな」と思えてしまう。
そして何より当の鳥山先生自身が大人の事情で描きたくもない展開を描かされ続けた魔人ブウ編をそんな風に評価されることなんか望んでいないのではないだろうか。
だからこそ「神と神」以降、「復活のF」「ブロリー」「スーパーヒーロー」と改めて鳥山先生自身の手でフリーザ編以降の物語をリブートしているのだと思う。
実際、中には「フリーザー編以降の物語は要素だけを組み替えて「神と神」にしてみたらどうか?」という面白い見解を述べている人もいる。

私自身も実はこのルロイ氏の考え方に近く、「復活のF」がフリーザ地球襲来、「ブロリー」がZ時代に描ききれなかった「サイヤ人」の物語、そして「スーパーヒーロー」が人造人間編のリブートだ。
いずれも原作のあの出来に原作者自身が納得行っていないからこそ出来上がったものであり、実際に原作で作られた物語よりも整合性が取れて納得の行く展開になっている。
特に「スーパーヒーロー」に関しては、私自身はやや厳しめに評価したものの、それでも原作の無茶苦茶だった人造人間編の話を「孫悟飯とピッコロの絆」を中心に綺麗にまとめ直した名編だと思う。
もし今後続編の新作映画が来るのだとすれば、それこそ次は悟天と現代トランクスを主役にした魔人ブウ編のリメイクに相当するギャグ全開の映画が作られるのではないかと私は見ている。

何が言いたいかというと、近年の劇場版の方がよっぽど洗練されているために、もはや「ドラゴンボール」原作の人造人間編と魔人ブウ編は再読の価値がないということだ。
したがって上で紹介した「魔人ブウ編は悟空とベジータが自分たちのやって来たことのツケを清算する話」という批評自体もナンセンスでありもはや通用しないであろう。
最近、とよたろう先生が描いている漫画版超で悟天とトランクスが主役の物語があったが、あれももしかすると新作映画への伏線になっているのではないか?
いずれにしても、鳥山先生自身の手で是非魔人ブウ編を「孫悟天とトランクスの物語」としてリメイクしていただきたい。

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