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特撮・アニメにおける「ガイア理論」の表象〜「星の力」と「人」との関わり〜

「平成ガメラ三部作」の北米版ブルーレイが物凄いやスネで販売されていたので購入して一気見したのだが、特撮技術はもちろんのことSFファンタジーのガジェットとしても面白いアプローチをしていた
90年代の特撮・アニメ作品を見ていると「ガイア理論(地球と生物が相互に影響しあうことで、地球がまるでひとつの生き物のように、自己調節システムを備えるとする理論)」を題材とする作品が多い。
あらゆるゲーム・漫画・アニメで用いられているものであり、例えば手塚治虫の『火の鳥』の未来編やゲーム『ファイナルファンタジー7』もこの「人と星」の関係性をテーマとした作品だ。
私は批判的だが、「ドラゴンボールGT」もドラゴンボールを「星の産物」と解釈し、最終的にそれが災いの元になって否定されてしまうという結末に持って行った(これが原作ファンの反感を買った)。

平成ガメラ三部作(『ガメラ大怪獣空中決戦』『ガメラ2 レギオン襲来』『ガメラ3 邪神覚醒』)は特にそのガイア理論がガジェットとしてのみならず、物語のメインテーマになったシリーズだ。
どういうことかというと、一作目でガメラは「地球の守護神」というゴジラとは違った星の守り神として再定義され、二作目では未曾有の脅威であるレギオン相手に禁断の技「ウルティメイト・プラズマ」を用いた。
しかし、その代償として地球のマナが一度に大量に消耗されてしまったが為に生態系のバランスが崩れ、三作目でギャオスが大量発生しイリスの封印までが解かれるという泥沼に陥ってしまう。
結局のところその後の公式の続編はないのだが、興味深いのはなぜ他の作品ではそもそも「ガメラ三部作」のような「星の力を使いすぎたが故の弊害」が発生しなかったのか?ということである。

そこで今回は平成ガメラ三部作以外に視聴済みの作品の中から、改めて「星の力」が具体的にどのように定義され、どのような結末に至ったかを理由と共に考えてみたい。


ケース1『電撃戦隊チェンジマン』(1985)

私が知る中で、いわゆる「ガイア理論」に近い概念を特撮の中で打ち立てた戦隊はこの『電撃戦隊チェンジマン』(1985)が初めてだったのではないかと記憶している。
いうまでもなく「アースフォース」のことであり、未曽有の危機の象徴である大星団ゴズマが迫ってきた時、地球が防衛反応として選んだ5人の若者に与えた力のことだ。
星が直接力を与えているだけあってその力は規格外であり、生身では全く歯が立たないヒドラー兵を意に介することなく雑兵扱いしているが、この時点ではいわゆる「謎の力」であった。
まだ80年代半ばなので具体的にどんな力なのかはわからず「ブラックボックスの塊」であり、どうすればその力を全開にして使えるのかは戦いの中で模索するしかない。

物語中盤でアハメスがスーパーアハメスとして大幅に強化された時、改めて追い込まれたチェンジマン5人が外側から貰ったアースフォースを己の内側から引き出すことでもう一段階パワーアップする。
その影響でパワーバズーカも強化されたわけだが、ではそのアースフォースだけで勝てたのかというそうではなく、伊吹長官をはじめとする外部の異星人たちの力を借りる必要があった。
代表はリゲル星人ナナだが、他にもゲーター一家やシーマなどもそうであり、またアースフォースに酷似した「星の力」として「アトランタフォース」なるものがあったことも示されている。
即ち、地球以外にも「星の力」が人に大きな影響を与えることが示されていたわけであり、世界観が宇宙規模にまでうまく広がったのが本作の妙味であろうか。

本作は最終的に「星の力がもたらす悪影響」は描かれておらず、とにかく「神秘の超パワー」というプラスイメージの描写に留まっている。

ケース2『超新星フラッシュマン』(1986)

いわゆる「星の力がもたらす悪影響」が物語のテーマとして描かれたのは本作であり、「チェンジマン」とは好対照を成す陰性の強い設定と物語であった。
いうまでもなくフラッシュ星にある「プリズムエネルギー」のことだが、フラッシュマンは星のエネルギーを直接ジンたちの体に埋め込むという非道な人体実験を行っている。
「ジャッカー電撃隊」以来となる改造人間設定だったわけだが、これが物語の中盤から終盤にかけてもたらした大問題は「反フラッシュ現象」だ。
劇中では彼らが育ったフラッシュ星系の環境が地球のそれとあまりに異なる為に起こってしまう副作用のようなものであり、どんな屈強な肉体をもってしても病には勝てない。

前作でいう「アトランタフォース」の発展版ともいえるが、英雄タイタンも例外なくこの現象に襲われて物語からの強制退場を余儀無くされ、フラッシュマンの5人も地球に留まることができなかった
その為に、メスを倒すこと以外の私的動機である「肉親との再会」を果たすことはできず、メスを倒すという公的動機は果たせたものの、フラッシュ星系に強制送還されてしまうという寸法である。
まあそもそも肝心の5人が「フラッシュ星育ちの地球人」というサイヤ人の逆設定みたいな感じであることにも驚きだが、これも一応はガイア理論の逆バージョンといえるのではないだろうか。
歴代随一のビターエンドないしメリーバッドエンドと称される理由もここにあり、星の力が決して人に良い影響のみを与えるわけではないということがわかる良い例だ。

本作は物語のテーマもそうだが、徹底した前作「チェンジマン」の逆張りで作られており、とにかく「報われない戦士たち」という印象がとても強い。

ケース3『伝説の勇者ダ・ガーン』(1992)

勇者シリーズ三作目にして谷田部勇者最後の作品である本作は歴代初の「地球産の勇者」を誕生させ、それが前二作(『勇者エクスカイザー』『太陽の勇者ファイバード』)との大きな違いにもなっている。
「エクスカイザー」「ファイバード」は肉体こそ地球の乗り物を借りているが、肝心要の勇者たちはあくまで宇宙からやって来た警備隊という異星人であった。
それに対して本作のダ・ガーンをはじめとするあらゆる勇者がセブンチェンジャーを除いては地球産という設定で描かれており、そのせいかは不明だが苦戦する描写が多い
特に後半に出てくるグレートダ・ガーンGXはスペックこそ歴代トップクラスのはずなのに単独での勝率が3割程度と芳しくなく、ファンからは最弱のグレート系勇者と不名誉な評判もあるほどだ。

しかも物語上でも「地球上の解放点を全て突かれたらおしまい」「オーボス軍が歴代トップクラスに強い」というハードを通り越した鬼畜仕様なのもあり、ガイア理論が悪い方向に作用している。
挙げ句の果てに「伝説の力」などというよく分からないブラックボックスの塊である御都合主義じみた奇跡に頼らないと勝てなかったのもあり、あまり強いという印象がない。
地球産のものでは未曾有の危機に対応できない」という説が本作で証明されてしまったようなものであり、環境問題の物語としての扱い方も消化不良に終わってしまった。
色々理由は考えられるが、結局のところ「ガイア理論」をどうやってガジェットとして応用するかというところで上手く設定や物語の解像度を上げることができなかったのだろう。

本作の結末としては「地球産の勇者では宇宙の敵に苦戦しまくるので、一発大穴の奇跡に賭けて何とか勝てました」になるだろうか。

ケース4『機動武闘伝Gガンダム』(1994)

ガンダムシリーズの転換点である本作は決して物語上のメインテーマではないにしても、そもそもの世界観が「地球のあちこちが荒廃したので宇宙にコロニーを作って移住した」という初代の逆設定が捉えられている。
その上で「ガイア理論」は地球再生を目論んで作られたアルティメットガンダム(デビルガンダム)とその力を人類抹殺を目論んで利用しようとする東方不敗、それを止めようとするドモンたちという形で表現された。
特に東方不敗とドモンの対決は「自然と人間の関係」について性悪説の立場で見ている東方不敗と性善説の立場で見ているドモンとの対立構造でもあり、この時点で既にドモンは東方不敗を心で上回っていたといえる。
また、小説版では東方不敗が使う最終奥義「石破天驚拳」は大自然のエネルギー(気)を練って己の拳に集めて気弾として放つ技と設定されており、そのこともまた少なからず影響していたと思われる。

ここからは完全な私見だが、明鏡止水とはおそらく「大自然のエネルギーを曇りのない心で己の体内に気として取り込むことができた者のみが到達できる境地」のことではないだろうか。
似たような黄金色へのパワーアップでも超サイヤ人と決定的に違うのはそこであり、超サイヤ人は純粋な戦闘民族としての闘争本能が極限の怒りによって爆発的に高められた段階であり、自然の気は関係ない。
己の肉体と感情から全てのエネルギーを繰り出しているために消耗の度合いも半端じゃなく疲れてしまう、その副作用がないように大自然の力を黄金の気として纏う明鏡止水という概念が誕生したと考えられる。
であれば、地球の環境が汚れていたら大自然の気を取り込んで戦うドモンたちガンダムファイターが己の力を最良の形で発揮できないから困る訳であり、アルティメットガンダムで強制的に荒療治をしようとしたのも納得だ。

しかし、最終的にこのガイア理論に傾倒しすぎるあまりに本末転倒なことになってしまったデビルガンダムは人間が持つ「愛」の力によって打ち倒され、ガイア理論はとうとうその限界を迎えたといえる。

ケース5『星獣戦隊ギンガマン』(1998)

本作は物語のテーマとして「星を守る」ことが提示され、その象徴として大自然から借り受けし力である「アース」があり、中でも強大なアースを持つ者のみが伝説のギンガ戦士へと転生できる設定だ。
「チェンジマン」のアースフォースのファンタジー戦隊版と解釈できるが、決して無制限に使える訳ではなく、一度に濫用すると疲労が襲い、また大気汚染や内部汚染などの猛毒にも弱いというリスクがある。
平成ガメラでいう「マナ」に近い設定ではあるのだが、不思議なのはなぜあれだけアースを当たり前に使いながらも、それでバランスが崩れてギャオスが大量発生みたいな弊害がなかったのかということだ。
私見だが、1つにはリョウマたちが使えるアースの使用量は地球にある力の中でもわずか5〜10%程度でしかなく、普通に戦う分には問題ない程度のアースしか使っていなかったのではないかと考えられる。

2つ目に、本作に出てくる星獣は地球出身ではなく遠い宇宙からやって来たものであり、彼らが使っている星の力は地球とは違う別の力なので地球にとって負担にならないというのも大きいのかもしれない。
実際銀星獣に大転生してギンガイオーに合体する時は自在剣・機刃を使って別の星からのエネルギーを受け取っていたし、他のゴウタウラスやギガライノスたちは独立して変形・合体ができるようにしてあった。
そんな本作は何と終盤で地球魔獣という、まさかの地球自身がとんでもない災厄を生み出してしまうというえげつない展開を入れており、下手すればこの時点で地球の生態系が壊れてもおかしくはないだろう。
最終的にゴウタウラスを除く全ての星獣とギンガマン5人のアースを集結させた「ギンガ大火炎」で焼き尽くしたが、これもウルティメイトプラズマとは似て非なる力であり、それぞれの星の力が加わった集合体である。

このように考えると、「ガメラ」のマナとの違いは地球のアースを1〜2割、星獣たちの力を8〜9割と設定して宇宙の星々から力を借りることで地球の生態系が崩れないようバランスを調整していたと考えられる。

ケース6『天装戦隊ゴセイジャー』(2010)

本作では追加戦士枠のゴセイナイトが「地球の防衛本能の化身」として設定されており、地球を汚染する者たちを許せないという東方不敗に近いエコテロリストの立場を取っていた。
これは対する5人の見習い護星天使たるゴセイジャーが地球出身の者たちではない天空にいる異世界出身の者たちとの対比として使われた設定であろう。
自ら「地球を浄める宿命の騎士」と名乗っていることもあってか、ゴセイジャーたちとは相容れない価値観の持ち主として対立することも少なくなかった。
スーパー戦隊シリーズにおいてこのようなガイア理論の力が出て来たのも久方ぶりだったが、とはいえ物語のメインテーマと言えるレベルまで昇華されていた訳でもない

しかも実力も明確にゴセイジャー5人よりも上ということが徹底されている訳だが、あくまでも「そういう設定のキャラ」であることにのみとどまっていた。
つまり物語として内面を事細かに描いた訳ではなく「とにかく地球産の騎士だから強い」というどこまでも肯定的な設定として描かれていたのである。
この事例は中々ありそうでないものであり、終盤は完全に元護星天使の救世主ブラジラVS見習い護星天使・ゴセイジャーになったので、メインにまでは来ていない。
90年代後期までで散々擦り倒されたからか、2010年に改めてガイア理論を扱おうという動き自体が当時はもうあまりなかったのも大きいのだろう。

本作ではガイア理論はあくまで追加戦士の初期設定としてのみ使われており、そこまで大きな物語の核にならず広がり切らずに終わった。

平成ガメラ三部作がなぜ悲劇の泥沼になったのか?

こうして他の作品における「ガイア理論」の具象化とその結末を見ていくと、改めて平成ガメラ三部作であのような悲劇になったのかが改めてわかる。
平成ガメラにおいては星の力を全てガメラに一極集中してしまい、その力を使用する判断基準をほぼ全てガメラに委ねてしまっているのだ。
つまり共に戦う仲間が人類以外におらず、1人で100%星の力を使えてしまうために、ガメラが倒れたら地球もろともおしまいという危うい設定なのである。
かといって伝説の力のような外部からの力に頼ることもできず、全ての責任をガメラに押し付けてしまっている時点であのようになることは誰もが予想できた。

以前に「ガオガイガー」に関して「既存の地球の技術では未曾有の危機に対応できない」と書いたのだが、それはガイア理論を用いた作品群でも同じではないだろうか?
少なくとも純粋な地球産の力だけでは守れるものに限界があって、その中で人間が使いこなせる力なんてほんの一部に過ぎない以上、外の力は必要になある。
ギャオスはまだガメラ単独でも対応できたであろうが、レギオンのような宇宙からやって来た未曾有の脅威が現れた時、ガメラは他に選択がなかったとはいえ禁じ手を使ってしまった。
あそこでガメラと似たような星の守り神が宇宙から現れて協力するという展開でもあれば違ったかもしれないが、その展開はガメラに許されないのである。

そのように考えると、「孤独の改造人間」と言われる仮面ライダーよりもガメラの方が遥かに孤独なヒーローであったといえるかもしれない。
星の力と人との関わりとを考えていくと、「ガメラ」を最後にガイア理論が創作で使われることが少なくなったのも納得され得るだろう。

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