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『ドラゴンボールZ復活の「F」』(2015)感想〜原作のナメック星編の偉大さを逆説的に知らしめた駄作〜

『ドラゴンボールZ復活の「F」』(2015)の感想・批評だけきちんとした評価を書いていなかったので、改めてここで触れておこうかと。

評価:F(駄作)100点満点中20点


後付け設定が悪い方向に作用してしまった

これはもう方々言われているので今更いう必要もないのだが、改めて見直して思ったのは単純に『ドラゴンボール』という作品並びに鳥山明先生の作家性、アニメスタッフの力量不足が全て悪い方向に作用してしまったことである。
そもそも私は原作漫画の『ドラゴンボール』においてでさえ、あくまでもきちんと物語としての格を落とさずに盛り上がりを生み出せていたのはナメック星編までで、人造人間編以降は蛇足であるという評価を今日までずっとしてきた。
たとえ誰に何と言われようとこの評価を変えるつもりはない、たとえあでのい氏のように魔人ブウ編に牽強付会気味の擁護をする奴が出てそれが多数派の意見になろうが、逆に「ドラゴンボール」はマジュニア編までだと思う人がいようが、その評価は変わらない。
あくまでも私の中の『ドラゴンボール』は「ドラゴンボール争奪戦を軸として展開される上昇志向のゲーム」が最大の見所であって、ドラマツルギーであったドラゴンボール が単なる陳腐な便利道具と化してしまった人造人間編以降は全く違う話なのである。

大事なことなので何度もいうが、人造人間編以降の「ドラゴンボール」は単に地球に悪い奴らが現れたからそれをやっつけるだけという、東映特撮をはじめとする凡百の勧善懲悪なヒーロー作品と大差ないだろう。
それはスピンオフとして作られていたZ時代の短編映画もほとんどがそういうものだったし、それに合わせるかのように孫悟空も単なる地球を守ることを使命とする戦隊レッドや仮面ライダーと同じような奴として描かれてしまっている。
鳥山明が天才的だったのはヒーローものに対するリスペクトがしっかりあったことであり、孫悟空が戦いにしか興味がない戦闘民族サイヤ人と位置付けられていたのも、迂闊にヒーローものにしないという最大限の配慮があってのことだ。
それは人造人間編のリメイクに当たる「スーパーヒーロー」が孫悟空とベジータを物語の表舞台から外して孫悟飯とピッコロを主人公として描いたことで明らかとなったわけであり、だから私はナメック星編までしか『ドラゴンボール』として認めていない

なので、「GT」も「超」も、何なら人造人間編も魔人ブウ編も私はあくまで原作のナメック星編までとはある程度別物と割り切って楽しめるかどうかで落とし所をつけているのだが、本作はその観点で見ても全く楽しくなかったし面白くなかった。
私の中で「楽しい(enjoyable)」と「面白い(intertesting)」は別感情なのだが、せめてどちらかの感情を得られればまだ評価は高くできたと思うのだが、本作に関してはそのどちらにもならなかったのでF(駄作)と言わざるを得ない。
タイトルが「復活の「F」」というのが何とも皮肉なのだが、この「F」が「フリーザ」ではなく「不可」=「駄作」の意味だったのならばまだ笑えるのだが、本作はそういう笑い話にすらならないから困る。
鳥山明のその場の思いつきによる後付け設定が全て悪い方向に作用してしまっているし、原作レイプなどというつもりはないのだが、やはりナメック星編は鳥山明の実力以上の外力が働いてあのクオリティの高さに繋がったことが確信された。

まずそもそも「なぜ今更フリーザなのか?」というのが解せなかったのだが、それはまあ後で述べるとしても、どうも本作は色んな意味で無理矢理2015年当時のライトな時代に合わせようとして無理が祟った感じが見受けられる。
その悪いところがこの後に放送された「超」の序盤のつまらなさにも影響を及ぼしてしまったわけであるが、ここで終わらずにしっかりまた盛り返してみせているのがいかにも『ドラゴンボール』だなあと思わせてしまう。
なので、本作に関しては「なぜ悪いのか?」を延々と述べる批判メインの批評となってしまうが、逆説的にダメな作品だからこそ見えてくるものもあるわけで、そこを改めて深掘りしてみようという試みだ。
下手な傑作・名作の成功体験よりも、こういう不作・駄作の失敗体験の中からこそ学べるものの方が遥かに有用であり、「これをやったら失敗する」を学ぶことで逆に「何をしなければいいのか」が見えてくる。

パワーバランスは無茶苦茶だが、逆説的にわかるZ戦士の平和ボケ

まず本作の悪い点として「パワーバランスのおかしさ」が挙げられるわけだが、この点に関しては「一理ある」とは思いつつもそこまで大きな問題だとは思っていない。
そもそも原作のサイヤ人編・ナメック星編で「戦闘力」という概念とそれを数値化するスカウターという道具が出てきたが、これだって最終的に「当てにならない」と捨てられ、あくまで「絵の運動」として強さが可視化されていた
ファンは好き勝手に脳内補完して戦闘力を数値化しがちだが、鳥山明が描く原作漫画においてはその数値的な矛盾を絵の迫力やコマ割りといった細かい見せ方によってねじ伏せていたのである。
その点で見て本作のパワーバランスが滅茶苦茶というのは数値による問題ではなく、「絵の運動」としての説得力が問題なのであって、確かに本作の悟空とベジータ以外のパワーバランスは明らかにおかしい。

とはいえ、これに関してはある程度納得の行く説明が出来ないでもない、なぜならばこの時のZ戦士はウイスの下で修行に励んでいる孫悟空とベジータを除けば全員平和に現を抜かしているからだ
警察官としてすっかり「社会人」になったクリリンに学者としての毎日を送るあまりに超サイヤ人1にしかなれない程の元最強戦士の悟飯、そして神様であるにも関わらずフリーザ軍がドラゴンボールを勝手に使ったことに気づかないピッコロ。
そして何故だか戦闘力3桁だったにも関わらず急激的に強くなりZ戦士に混ざって戦っている亀仙人に「お前たちと会うことはもうない」と言っておきながらしれっとまた参戦している三つ目野郎、これはどういうことなのか?
しかも、設定上はフリーザより強いはずの18号・トランクス・孫悟天・魔人ブウが参加していないのだが、まずこの人選からして突っ込みどころ満載であるというのがツッコミどころであろう。

ただ、これに関しては鳥山明を始め作り手の中で「平和ボケしてしまったZ戦士」という感じを演出することで逆説的に孫悟空・ベジータとの差を知らしめようという狙いがあったのかもしれない。
原作でもそうだが、常に向上心を持って上を目指し続け自己鍛錬に余念がないたのは孫悟空・ベジータのみであり、ピッコロは神様と融合してから、そして孫悟飯は魔人ブウ編から修行をサボっていた。
だから本来ならもっと早い段階で気づいて阻止できたはずのフリーザ復活すら怪しみながらも許してしまい、気づけばいつの間にかフリーザに出し抜かれてしまっているというハメになったのではないか?
この辺りの「意識の差」が明確に現れたのが本作の孫悟空・ベジータとそれ以外のZ戦士という形になって現れたのだが、ウイスのいう「どんなに強くても油断すれば肉体なんて脆い」というのもそういうことかもしれない。

本作のドラマとしての主眼は「孫悟空のフリーザに対する甘さ」を克服させることが目的なのだが(逆にベジータには克服すべき弱点はあまりない)、言外にもう1つ「Z戦士の平和ボケ」という横軸の描写も織り込まれている。
特にその被害者の典型は道着すらなくて緑ジャージに眼鏡のまま参戦することになったもやしっ子の悟飯なのだが、原作ではアルティメットという単体最強にまでなったのに本作ではすっかり落ちぶれてしまった。
とはいえ、これは決して悟飯だけの問題ではなく地球に残存していたZ戦士に共通する明確な欠点であって、この欠点があったからこそテレビ版の力の大会を経ての「スーパーヒーロー」だったのかもしれない
なんの意図もなく作り手がこんなことをするとは思えないので、まずは本作で徹底的に孫悟飯やピッコロら地球側のZ戦士の体たらくぶりを描くことによって、メインとして登場する悟空・ベジータとの差を明確にしたのだろう。

思えば「神と神」からしてそういう扱いだったし、悟空・ベジータの二強路線が今後の軸となっていくことを決定づけたのが本作の描写であるとも言える。

『ONE PIECE』『NARUTO』に負けてしまっている集団戦

本作に関する2つ目の欠点としてファンは孫悟空・ベジーとフリーザの戦いが盛り上がらないというのはあったが、個人的にはそちらよりもその前座として描かれるZ戦士とフリーザ軍との集団戦のつまらなさの方が気になった。
これは『ONE PIECE』『NARUTO』と比べた時の『ドラゴンボール』の明確な弱点だが、本作で描かれている集団の戦闘シーンがあまりにも迫力がなさすぎるのだが、その理由は原作の『ドラゴンボール』と比較すれば一目瞭然である。
鳥山明が描く原作漫画は基本的にどの編でも「一対一」を原則としており、最終的にチームワークに近い状況になったとしても、それはあくまで「スタンドプレーから生じるチームワーク」であって、「チームワークありき」ではない。
逆にいえば、『ドラゴンボール』が徹底した「一対一」にこだわった戦いを一貫して描いていたからこそ、後続の『ONE PIECE』『NARUTO』が違和感なく集団戦を物語の中で展開できたといえる。

例えば『ONE PIECE』だとマリンフォード頂上戦争辺りが代表的だが、ルフィは単独だとそんなに強くはないので、白髭・イワンコフ・ミホークをはじめとした多くの義勇軍を味方につけて戦う。
YouTubeで無料配信しているため未見の方は見てみるといいだろう、新世界に入る前のあの決戦は錚々たる顔ぶれが並び雌雄を決する、まさに「頂上戦争」と呼ぶにふさわしい迫力があった。
また、『NARUTO』だと暁との決戦や四度目の忍界大戦の入り乱れた集団戦はマリンフォード頂上戦争にも負けず劣らずの迫力を見せているのだが、これもやはり「仲間の力」を大事にする世界観と設定があってこそだ。
逆にいえば、『ドラゴンボール』はあくまで「一対一」を原則として動いていたからこその迫力があったわけであり、ある意味鳥山明が苦手分野だったところに挑んでみたといえるだろう。

私は別に「DB」において集団戦を描くなと言っているわけではない、時にはそういうやったことがない分野に手を広げてみることも大事なことだと思う。
しかし、当時の作り手には作画・演出も含めてまだその部分をきちんと描き切るだけの技術がなかったことが露呈してしまったわけであり、単なる失敗に終わってしまった。
そして何よりも違和感があったのが、孫悟飯が何故だか孫悟空と似てフリーザ軍を殺さないという描写だったのだが、原作の孫親子は確かに優しいものの一度ブチ切れたら容赦なく悪党を殺す非情さはある
だからどうにも「孫親子の優しさ」というものがどうにも違った方向に解釈されてしまっていると思えてならないのだが、明らかに作り手の中でベクトルが迷走してしまっているだろう。

そしてもっと謎だったのが、原作のナメック星編の時と違って孫悟空・ベジータ以外のZ戦士が最初からフリーザと戦うことに対して消極的であるという点だ。
原作のフリーザ戦を見ればわかるが、あそこでのベジータ・ピッコロ・悟飯・クリリンはたとえ戦闘力でフリーザに敵わなくても何とか肉薄しようと足掻いていた
確かにベジータが絶望と恐怖で涙を流して戦意喪失したものの、それはあくまでもやるだけのことをやり尽くして万策尽きたからであり、最初から腰が引けていたわけではない。
ところが本作では亀仙人・クリリン・天津飯ならまだしもピッコロと孫悟飯までもが最初から及び腰で悟空とベジータに任せようとしているのは頂けない。

それだったら18号・トランクス・悟天も駆り出せということになってしまうわけで、どうにも本作の集団戦に関しては後輩の作品に負けてしまっていていいところが全くないまま終わってしまった。

もはや「悪」ではなく「敵」になってしまったフリーザ

そして本作最大の、というかこの後の展開も含めて「超」の癌細胞にまでなってしまっているのがフリーザの扱いであり、本作から明らかその扱いが矮小化されて変質してしまっている。
何とフリーザは本作で4ヶ月修行をしただけで超サイヤ人ブルーと同等のゴールデンフリーザという色違いの変身形態を手にしてしまったのだが、私はこの扱いにそもそも納得が行っていない

以前にこちらの記事で述べたが、「悪」と「敵」の違いに関して「努力・修行しなくても完成度が高くて圧倒的な才能を誇る」というのはあって、原作のフリーザは間違いなくそれであった。
最弱の第一形態でも戦闘力53万あって、フルパワーを出さなくても指先から出すエネルギー弾だけで簡単に惑星ベジータを消滅させてしまう圧倒的な力とカリスマ性がある。
そして何よりもどんな命も虫けら扱いして倒してしまうわけであり、修行や努力によって強くなろうとする戦闘民族サイヤ人とはそこが大きく違っているからこその面白さがあった。
そう、一見似たポジションにいるベジータとフリーザの大きな違いはそこにあって、ベジータは孫悟空と同じルーツの戦闘民族の王子でライバルキャラだから修行・努力で強くなっても違和感がない。

しかし、フリーザはベジータとは違い徹底した「純粋悪」であって、身内であろうが敵対者であろうが、自分の意に反する存在は呆気なく殺すという恐ろしさが描写されていた。
で、本作でもそれは一応発揮されていて、復活早々に自分に楯突いた幹部を始末したり使い物にならなくなった軍の配下たちを容赦なく殺したり、追い詰められた挙句に地球を破壊したりしている。
とはいえ、どれも結局は原作のナメック星編で描かれたものの焼き直しを出ることがなく、本作で打ち出された新機軸が「努力・修行によって強くなりました」というのはどうなのだろうか?
別に強くなるなとは言わないが、もっと他に悪役らしいやり方で禁断の魔法や便利アイテムを使って闇の力を使って大幅に強化するとかあったはずで、何故フリーザを「第二のベジータ」にしたのか意味がわからない

そう、何が酷いといって、ベジータがいわゆる「第二の悟空枠=準主人公」に昇格して、フリーザがその「ライバルキャラ」というポジションに収まってしまっていることであり、これがそもそも間違っている。
フリーザはたとえ復活しようが何だろうが、あくまでも「ライバルキャラ」ではなく「和解不可能な純粋悪」だからこその唯一無二の独自性があったわけで、このポジションをやらせるならせめてセルではないか?
サイヤ人の細胞がベースになっているセルが努力・修行によって強くなって孫悟空・ベジータ・孫悟飯相手に復習を果たそうとするならまだ理解できなくもないが、それをフリーザでやらせる意味がない
そのセルにしたって決して修行・努力ではなく人造人間17号・18号を吸収したり、あるいは脳細胞の核で学習したりといったチートな方法で強くなるから厄介だったわけあり、そこがZ戦士とは違うところである。

「今更フリーザを出しても面白くない」といったこと以上に、原作のナメック星編で圧倒的存在感を誇っていたフリーザの長所をゴリゴリ削ってしまい、完全に魅力が薄れてしまった
中の人ネタというわけではないが、これだと単なるバイキンマンやタイムボカンのドロンジョ様、ロケット団のムサシ・コジロウ・ニャースと大差ないではないか。

「ブロリー」「スーパーヒーロー」に活かされている試金石

とまあこんな感じで、原作至上主義の私が忖度なくいうのであれば、本作に関していうならばほとん擁護すべき点はないF(駄作)という他はない。
とはいえこの失敗が無駄だったのかといえばそうではなく、その後のアニメ版「超」や映画「ブロリー」「スーパーヒーロー」は本作の反省をしっかり活かしている。
たとえば「ブロリー」では登場人物を孫悟空・ベジータ・ブロリーという3人のサイヤ人を中心にした好カードのみに絞って、サイヤ人の過去の掘り下げと大迫力のバトルに絞った
まあサンドバッグとしてボコられまくるフリーザの扱いが悲惨なのだが、それを覆すぐらいに圧倒的長所を全て凝縮した歴代最高傑作となっている。

そして人造人間編を改めて「地球を守るヒーローの物語」としてリメイクした「スーパーヒーロー」では孫悟空・ベジータを物語の中心から外して孫悟飯・ピッコロを主人公に据えた
地球内でのバトルがメインでありながら、登場したZ戦士も18号・クリリン・ゴテンクスと必要最小限に絞り、またガンマ1号・2号にドクターヘドなど敵側も魅力的な人物が多い。
ここで描かれた孫悟飯たちにはもはや本作で描かれた平和ボケの感覚はなく、各自が自分たちにできることを行い、また強さのインフレ置いていかれたピッコロと孫悟飯の格も持ち直している。
だから、本作で大ゴケしてしまったことの反省が試金石として後のアニメ版「超」並びに映画「ブロリー」「スーパーヒーロー」に生かされていると思えば、無駄ではなかっただろう。

したがって偉大ではないが、改めて逆説的に『ドラゴンボール』の原作やアニメ「Z」の魅力がどこにあったのかを考えさせる反面教師となったと私は考えている。

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