見出し画像

お母さん、何故うちは貧乏になったのですか?

わたしが記憶している父親の収入は、当時にしてはかなり多い方だったように思います。
ボーナスのときには、仏壇に何段にも重ねられた札束が供えられていました。


大きな会社に勤めていたので、一度のボーナスで1000万くらい貰っていました。
それなのに、現在の両親は裕福ではありません。
そして、故安部元総理が○された事件の山上容疑者の話は、わたしの母親には未だにできません。
自分が山上容疑者の母親と同じことをしたなどと、露ほども思っていないのです。

父は高給取りでしたが、その代わり仕事がとても忙しい人でした。
だから母が宗教に傾倒していても、見て見ぬ振りをしていました。
母が宗教に入れあげるのがわかっていても、
わたし達きょうだいのために、たくさんのお金を家に入れてくれていました。

あとでわかったことですが、母が当時受け取っていた「食費」は30万でした。
雑費、その他は父親が出していました。
あの時代の30万はかなり多かったと思います。
本当に食費だけです。

それなのに、子ども達の夏場の朝食はトマトと白米だけでした。
どうやって食べて良いのかわからず、わたしはトマトにお醤油をたくさんかけて一生懸命ご飯を飲み込みました。
わたしが未だにトマトが苦手な理由はこれが原因です。
冬場になるとほうれん草の浸し物とご飯に変わるだけでした。

母は自分が玉子が嫌いだったので、玉子焼きが出てくるのも稀でした。
ご飯すら炊かなくなった母親のわたし達への朝食は、
8枚切りのトーストが一枚とマーガリンだけでした。

わたしは調理実習で習った目玉焼きをきょうだいの数だけ焼いて、それでなんとか学校へ通っていました。
読みもしない新聞が何十部も来て、教祖の書いたという分厚い本が何百冊と並んでも、わたし達きょうだいの食事は貧弱でした。
それどころか、父親が遅く帰宅することを良いことに、夕食も煮物が一品だけという日が続きました。

ずっと思っていました。
わたしがもし結婚したら、こんな家庭にはしない。
子どもが帰ってきたら「おかえりなさい」を言えるお母さんになる。
そして、料理も勉強しておかずもたくさん作って、オヤツも作れる温かい家庭にするんだ、と。

お味噌汁にお出汁を入れることですら、
わたしは調理実習で初めて知りました。
母はお出汁もなにも取らないで、ただお味噌だけを入れていたんだとわかりました。

そのうち、家のお掃除と夕飯を作ってくれる人を雇っていましたが、弟がまずグレました。
妹も弟よりグレました。
わたしはなんとか持ちこたえたつもりでしたが、
摂食障害になりました。

父にはどうすることもできなかったのでしょう。
自分が働かなければわたし達が路頭に迷ってしまいます。
だけれど、母は一層宗教にのめり込んでいて父親も必死だったんだと思います。

○してやりたかった。

産みっぱなしにするなら、子どもなんか産まないで欲しかった。
よくぞ父は浮気もせず2時間半もかかる職場まで
一生懸命行ってくれたと、こころから感謝しています。

わたし達きょうだいが欲しかったのは、豪華なおかずなんかじゃありません。
友達の家で食べた焼き立てのクッキーでもない、

わたし達は母親の愛情が欲しかった。
万引きしてきた洋服が増えたら、洗濯のときに気がついて欲しかった。


わたしは昔を責めることはしません。
母も未熟だったのです。
宗教に傾倒しなければ生きていけない弱い人間だったと今では理解できます。


両親は健在ですが、夫婦中はあまりよくありません。
お互いを尊敬できず、思いやれなければ老後は悲惨です。
父は一度も高価な車を買ったこともなく、帽子やマフラーはわたしが編んだものを何年も使ってくれています。

愛のある家庭を、と望んだわたしですが、数年前に離婚しました。

摂食障害は治りましたが、今なお、わたしのこころは空虚なままなのです。
毎日母から連絡があります。
最近認知症の症状が出てきているのか、おかしな言動が増えてきました。

父だけはなんとか長生きしてもらいたいと、切に祈る毎日です。