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「グレン・グールド――27歳の記憶」と添付:ウェーベルン(十二音技法音楽の以前 String Quartet 1905)


2011.02.05 Saturday | My Blog (category:雑記-表現)


2003年11月にHPに記載したものを転記 + 2011年2月&2017年6月 十二音技法直前のウェーベルンの、After Beethoven & R Schumann 問題意識の面白さ、という点から記述


2003年11月10日(月)

ドキュメンタリー映画「グレン・グールド――27歳の記憶」の中で、若きグールドが弾いている、バッハ「フーガの技法-コントラクンプトゥス1番」のじつに貴重な録音がある。無論古いフィルムなのであまり音は良くないが、そんなことはもうすっかり飛び去ってひたすら聞き入ってしまえる稀な音楽に、出会うことが出来た。 それは勿論、スタジオ録音の際のあのハミング混じりのとはちがった類の、彼の「素の」音楽で、他者の視線や耳といったものを(“ 殆ど ”、と言っておこう)意識していない、彼特有の自意識の自由即呪縛世界――*非主題的なものが唐突に主題化(出来事化)されないための延々たる緊張状態の持続運動;偶有性拒絶状態の保持;起伏の隠蔽――とは殆ど無縁といえる程に虚心な自我、宙吊りからの解放、**彼の通常のバッハ演奏に於るのとは一見正反対、否逆説的とも思える窮極的ロマンティシズムの地平への自己肯定による、VORT-DA(退隠-現前)の襞了承(*/**付記11.01.02)――から生ずる演奏であったろう。

彼は他者と彼自身の緊張から解き放たれた時、やはりあのようにゆったりとしたテンポの内省的な音楽を奏することが出来るのであった。こうした折の彼から生ずる、奇跡的に純度の高い、と同時に20代後半にしてはあまりに成熟した、意味深長な音楽をきくことが出来るのはじつに一興である。思えばこの成熟度と純粋度は、この映画の録られる翌年後位に演奏された「ブラームス間奏曲集」、ブラームスの最晩年作品でみせた世界にそのまま通じる所のあるものであろう。

その演奏に就てはまた別の日に述べるとして、今日はこのドキュメンタリー映画の中で、彼が知人の音楽家と自宅の居間で雑談をするなかで交わした、興味深い発言について、これを観ながら私自身つらつら想ったことを綴っておきたい。

彼はウェーベルンと同じ学校に通っていた音楽家の知人と、こんな会話をする。

「彼は内向的な性格だった」
頷くグールド。友人が続ける…。
「彼の音楽もかなり内向的だ」

それを聞くと、突然くるりと椅子を回し鍵盤に向かって言う、
「これが内向的な音楽?」
そうして大胆な身振り手振りと跳梁的指遣いで、ウェーベルンの前衛音楽を奏で出すグールド。 「彼は寡黙な人間だった...寡黙な音楽だ」と知人。
「内向的な音楽というのはこういうんだ」
グールドは言ってシューベルトの交響曲第5番のさわりを弾き始める。その演奏はしかしかなり陽気でたくましく(笑)、いつものハミングよりずっとまともで太い歌声――殆ど声楽家の発声なみにたっぷりとした大声――を発しながら弾かれた。それはお世辞にも内向的、に弾かれてはいなかった。

しかも交響曲第5番の開始(変ロ長調)は、シューベルトの音楽の中でも特別内向性の際だつ音楽とも云えないどころか、寧ろシューベルト自身としてはかなり陽気なtoneで書かれたもののはずである。たとえばピアノソナタop960とか、より端的に内向性を呈する音楽が他にもあったはずであるが、グールドはこの交響曲を、思い付いて弾くのである...

が、聞けばその陽気さ、おおらかさこそは、"内向的人間の"それであるのが、パラドキシカルにわかるのである。

突然ピアノを止めて振り返ると言う。
「もし、一歳半の子供をさらってきて、人っ気の全くない、音楽のない、森の中の隠れ家で育てたとしよう。 そしてその子に、ウェーベルンでもシェーンベルクでもいいがとにかく透徹した12音音階の音楽ばかりを厳選して聞かせるようにする。その子が6~7歳くらいになった時、彼自身の中にこういう童謡風の音楽が醸し出されるかも知れない。
(purely,と言いつつ ラーラーラー、と唄う)
そしてやがては、こういうふうな旋律が、生まれてくると思う?」
こう言って、「チャーチャーチャー、チャーチャーチャー、チャッ!チャチャ・チャッ!チャ...」不自然にかつ一定の調子で音の跳ぶ旋律を歌ってみせ、
「そうは思わないよ!」とグールド。

「それはわからない。彼自身の個性的な音楽が生まれてくるのじゃないかな?」と知人。

「ところで、きみは作曲を続けているのか」知人が訪ねる。「新しい音楽を生みだす努力を」

「それに関しては悲観的だな」とぼやくグールド。
「今日、調性音楽はすでに役割を終えているんだ。…おおかたの意見はそういうことに、なっている。 だが、ぼくが書こうとする音楽は、今から50~70年位前のスタイルなんだ。」
そして無調音楽を書くための必然性を自分は感じることが出来ない、というようなことを、彼は呟く。

すぐれた前衛音楽演奏家から、意外な言葉を聞いたという顔をする知人。

「正直を言って行き詰まっている。すでにある形式を使ってはいけないのかな」とグールドが訊く。

もう過ぎ去った、役割を終えたとされる、しかし自分にとっては(※少なくとも今のこの自分にとって)自然-必然的であるスタイルで、音楽を書いてはいけないんだろうか?と彼は問うのである。

※註釈を付けておくと、グールド自身は、十代の頃そうだったように、人生の後半にはふたたびシェーンベルクやウェーベルンの十二音音階に自己自身の表現の座標を見い出している。実際人生の後半には彼自身の作曲のスタイルもそうなっている。無論バッハを積極的に自分のものとして継承していることともつながるが(グレン・グールド「永遠のピアニズム」から。付記2010.07.14)

2003年11月11日 (火)

表現行為とは何か、芸術のもたらす意味とは何か。 芸術にとって必然性とは何か。

大方はバッハの構築的合理的でありつつ同時に宗教的で神秘的な音楽に就て、或いはロベルト・シューマンに就て述べつつ、私はこれに関し幾たびかこの日記(HP)にも記してきたが、あらためてこのことを問う時、 芸術の本質は、結局の所

自然-必然性の成就(自発性と必然性の一致)
必然性と合理性の一致
(この合理性とは所謂合理主義的、という意味でなく自然・生命・宇宙の秩序と律動に即した・orそれらを反映した、世界のことだと思ってよい。もしくは自己と他者―世界―の可能な限りの合致とも云える)

最も高度に純粋な自発性の貫通
内的必然性の貫通(或る種の普遍性=個性の形象化)
(畢竟、同じことの言い換えにすぎぬ、述べる位相の差異に過ぎぬことかも知れぬが、箇条書きにすれば。)

これら以外のどういうものであるだろうか?(非常に長いスパンで鑑みて、[他者にとっても]意味のある表現=芸術とは。)

という所に、結局考えが至ってしまうのだ。

絵画を含めた前衛芸術、また前衛音楽に触れる時、中には心打たれるものもあるが、だいたいに於て正直な所、その不自然さと同時に耳が慣れてくるに連れ次の音が容易に想起されてしまうあの一定の調子のことを思う。と同時にこれらの音符の連鎖を覚えたり譜面を忠実に追ったりする演奏家の根気強さへの限りない敬意が生じる。

彼ら前衛音楽家たちは、ちょうど当時既に優れた前衛音楽演奏家であったグールドに対し例の知人が問うたように、「新しい音楽、これから役割を担うであろう音楽を、生み出すこと」に心血を注いだ。

もし、それが彼ら自身のかぎりなくpureで自然必然的な作用,或る種のどうしようも無さから生み出された場合、その作品は画期的であると同時におのずから心打たれる音楽となるであろう。

が、新しい音楽、新しい形式の音楽を生み出すために、彼らは某かを「抑え込んで」はいないのだろうか。多くの前衛音楽に共通する、或る種の~不自然さ~のなかに、それまでの旋律やハーモニーをわざわざ封殺し封印する用意周到な構築作業、ないし心的作用を感じ取る――***全ての転調可能性や不協和音の解放、対位法駆使の極地化という事自身と、十二音音階への移行とは、おそらくかならずしも「=(equal)」ではないと思われる、たとえばベートーヴェンの大フーガとその後継路線への予測可能性を考えても(***…11.01.04)――。

意表をつく音楽。罠に掛からない音楽。不断に何にも・何処にも当てはまらないよう、己自身に緊張を強い、聞き手をもこの世界に連行する音楽。これらを貫くものを新しい?法則性と捉えるべきなのか、諷刺(軽侮・諧謔)を帯びた<回避性>の強調と捉えるべきなのか…。

それは、かつての、いかに自然発生的であろうともすでに使い古されてしまった旋律、ないし和声といったものを厳密に超脱するために、つまり自然-必然性へと填り込まぬために、<偶有性>というものにすっかり身を任せているかのような形、もしくは<偶有性>の連鎖にこそ至高の意味を見い出しえたかのような形をとりながら、じつは或るどうしようもなく狭く堅苦しい形式、Pattern(形骸)へと、みづから填まり込まざるをえなくなった、そういう種類の営為、恣意的作業の積み重ねではないのだろうか。

何ものかへと当てはまらないようにする努力。

まったく純一に発生した「結果」、何にも当てはまっていない音楽、というよりはむしろ、既存のXへと当てはまらぬよう努力した結果、まさしく「全く自然に聞こえない」音楽、「全く自然発生的に生成しなかった」音楽となることに、成功した音楽。

そこにこそ、この形式へと否応なしに駆られるに十分な苦渋を伴う理由を、どうしようもなさを、見出しうると言うべきなのか...

(※ただ、大戦やホロコーストを経て、一切の言葉を喪失した精神世界を現出させざるを得なかった表現であると同時に、音楽「という土俵を借りた実験・方法論」としても聞こえがちな作品の多いシェーンベルクやベルク、ウェーベルン――とはいえ、本当のところ自発性にとっての問題の本質は、彼ら自身のセリエのパターンそれ自身以上に、むしろその音楽性産出時の切実ささえ欠いた同スタイル踏襲者たち;亜流による続々たる類型産出とその態度のほうであると思われるが――に比し、ヒンデミットやバルトークの作品などは、その徹底した計算にもかかわらずあるパターンへの陥没をも同時に免れ得た尊厳的な何ものか(後期ロマン派以降という逼塞した時代状況にも拘わらずこの辺の不自然さを感じさせぬ、或る至純さ、知性により総監されつくしてもなお変わらぬ生成における自発性)、単純に言って「音楽」を――騒音性の強いとされる曲に於てすら――私にとっては見出しやすく、バッハ(~ベートーヴェン後期)からよりナチュラルに繋がるセリー音楽へと近づけることに成功していると思われるのだが。ちなみにグールドにもヒンデミットのピアノ曲録音があるし、再評価されるべきとする論文もあるらしい。付記:2010.07.15/2011.01.06)

2003年11月12日 (水)

多くの前衛音楽が一様に帯びる刻印...

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に顕著なもの(端的に表現されているもの)

偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩
(打ちひしがれた○○,より好意的に言えば?be in progress unwillingly――不本意なる受動性 の映現)

◇それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽に欠如するもの

自発性;「自然」-必然性;自由
必然性とは、これを遂行する実存,もしくは表現者にとって、一見「=」不自由さ、のようであるが、成功した表現(すなわち芸術作品)に於ては、むしろ逆である(=自由の「獲得」)

芸術作品にとって、必然性とは「自由」である。必然性の獲得とは、自由の獲得である。それは還元すれば、個に内在する生命秩序(自発性)と合理性としての生命秩序の<可能な限りの>合一である――存在の理想郷――

この合一の充溢は 表現のリアリティであり、信憑性であり、作品の奥行きと深みである

だが多くの前衛音楽の中にある、多分に途絶的で唐突な跳躍や、‘内発’的に生成的というよりはむしろ人為的-外的要請と動機にもとづく数理学的秩序、それらが端的に表現乃至反映させているところのものは、がんじがらめさであると思われる...

それ以前の音楽に比し、多くの前衛音楽が最も喪ったものは、云うまでもなく 自由な呼吸、もしくは呼吸する意志である。

2003年11月13日 (木)

多くの前衛音楽に顕著なもの

偶有性;必然性を阻害・遮断する存在としての偶有性
必然性を阻害・遮断する偶有性の作用を免れ得ない実存の、或る種の苦悩
こうした印象がもし、間違いでなければ、こういうことが出来るだろう。

前衛芸術作品の表現するところのものは、実際、それである。それを表現するものが前衛音楽なのであり、それが存在意義であると。

ところで、不思議なことに、音楽の演奏の際には過去の音楽を今尚尊び、奏でられることが当然とされている割には、作曲の際には、――いみじくもグールドが40年以上前に悩んでいたように――昨今ですらなお、いわゆる<前衛的>とされるスタイルで創作することのできる者が選ばれるという傾向があるように思う。表現の「伝達」者にはその選ぶべき時代が限定されないが、表現の「創作」者には、担うべき(とする)時代とスタイルを、現今を代表するものと限定する、という傾向――この点に、この問題が示唆するものがよく見い出されるような気がする。

だが創作の位相に於ても、当座の時代と形式の枠にとらわれない自由さと視野の拡がりが、保って置かれるべきではないだろうか。新しい表現形式(とされるもの)が確立・発展、ないし踏襲される前に、私たちが充分に過去の表現たちからその神髄を「吸収しつくした」かどうか、そのうえでそれを乗り越える形式として、本当にこの新しい表現形式とされるものが生まれた、のかどうかわからない、ということがつねに保留され問われつづけなければならないし、またこの新しい形式とされるものが流行している同時代に、これとはもっと違う形で未来の形式の確立を志向し(かけ)ているものが、それと判られずに生まれているかも知れない。ひょっとするとそちらの方こそが、過去の遺産から吸収すべきものをより地道に吸収し、もっと別な形で蘇生発展させうる力を持っている、という可能性も、つねに配慮されなければならないだろうと、思われるからである。

絵画でもよく思うのだが、或るひとつのスタイルが天才的人間によって獲得されると、猫も杓子もこぞってそのスタイルのもとに集まり、またそのスタイルを踏襲できることが何より求められる(すなわち才能のある者と見なされる)。後世から見て或るひとくくりに出来る「時代」――長い時間――を通り過ぎないと、その中で、そうした時流とは別の志向性を保ちその個性を孤独に追求しようとする才能の持ち主たちも居たことが、評価されることなく過ぎていくのではないだろうか。その時流に当てはまらない逸材が、評価の枠の外へ追いやられ日の目を見ぬまま時が過ぎ、後世の私たちにも知られずに放擲されている、などというじつに勿体ない例というのが、どれくらいあるものだろうか。

これは前衛芸術の時代に限らず、遙か昔からあったことではないか、と云われればそうであろう。一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる。しかし、つねに別の可能性への猶予 は、また過去?のものへの敬意とその再来可能性への猶予 は 保持されておくべきである。

もうひとつ、私が殊に現今の時代――前衛芸術の時代とそれ以降の展開――をいぶかり、この形式が時代を支配してしまうことにこだわるのは、こういった点と不可分に、以下のような事情が孕まれているからである。

前衛芸術は、それ自身、本質的に創造的行為(必然性志向)を否定するイデオロギーを伴いがちのものではあると思うが、前衛芸術の発展した形のうち、一部のものは自覚的に「芸術」を破壊する――人間の創造行為そのものを唾棄すべきものとして扱うに至っている(謂わば、逆ギレのようなものであるが)――し、全体的に見ても、前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、人間存在とその自発性にもとづく創造行為に対してもおのずと(悲観的、はもちろん)否定的、犬儒的にならざるをえない志向性を持つものであると思われる。

そうしたものの形勢と時流によって押し流されてしまった、他の志向性をもつものたちのことを思えば尚更に無念であるし、またいつまでもこのアイロニカルな姿勢を脱することなく非(反)-構築的に生きつづけること、※構築的(※…私のいう構築的とは、「変容的(transformable)」構築性を含む。なぜならそれが生命秩序だからである)スタンスに冷や水を浴びせ、質の悪いものではテロリズムのようにたんなる破壊主義に終始する、だけでいいのか、ことに「表現者」たちは自問すべきであると思うからである。

人間存在とは、脱(絶?)-構築性が(慎重に、或いは時として突如)余儀なくされる、ものであるということは理解出来る。また、現今とは、不幸にも 外即内、情況対自己、情況対実存etc..に於るそうした否定性を、苦いほど自覚・経験させられざるをえなくなった時代であるというのもわかる。また、これらの問題自身が表現されなければならなさ(主題化の必要性)、も理解出来る(私としては、真に弁証法的な運動こそは、そうした脱(絶)-構築性を必ず内に含む、構築性――或いはこの言葉にまだアレルギーがあるなら変容的構築性と云おうか――を帯びると理解したいが。というのはつまり、この意味での最終的な構築性を、私たちは免れない存在/相対者である、という意味に於いて 付記110206)。問題はそのことの、表現のありよう・質・向きであろう。

であれば尚更芸術によって、表現行為によってこそそれが克服されるよう願い、働きかけられるべきであろうし、本来 芸術;すべての表現行為の意義と精髄とは、「生きること」、この ‘ 被-能動性としての受難の能動性 ’ を、肯きつつ<生きる>ためのもの、これをポジティブにするためのもの、であったはずである。(勇気づけ動機づける=生きられる、ようにするためのものであったはずである。)あるいはまた、こうした能動性を持って生きることが、いかに難しいものか、ということ、生きる苦しみと厳粛な悲しみを、存在の奥深い所で共鳴させられることによって、ようやく癒され再生させられる、そういうもののはずである。また、元来おのずとそうした本質と力を「帯びた」もののはずであると思っている(****ベートーヴェン自身の後期――生成の境域が全的にではないがかなり個我へと移行する――と、ベートーヴェンの後の、シューベルトやシューマンの仕事とその質。 ****…バッハに於いては神と人間の関係が、ベートーヴェンに於いては通常、人間存在・人間社会・世界が、そのまま表現の磁場(したがって目的論的・類的)であった。シューベルト以降は、それが自己(偶発的存在としての実存)の磁場になる。がゆえに、バッハ或いはベートーヴェン的生成秩序の生きた弁証法のダイナミズムが、語る位相の転移とともに、奇矯的変容や異他的転回を伴うそれへと変わるのは、必当然的である。が、にもかかわらず彼らはその生成の質の担保について細心かつ最善の注意を払った、謂わば過去からの<人間的な>歴史に対して敬意を払ったのであり、その意味でもベートーヴェンの遺産を、類的よりはむしろ、より個的-実存的なフェーズに移して、ではあるが、誠実に受け継いだと私には思われる。ベートーヴェンの弁証法的世界は、自らこそが弁証法である、と名乗った(=以てイデオロギー化した)そのことにより非弁証法的;反弁証法的世界になりさがるような質と法則性の元にない。実はこのことを他ならぬシューベルトやシューマンがだれよりも理解していたはずなのであり、この点を見誤ると、その分だけ、結局はいずれより高い評価を得るに至るであろうシューベルトやシューマン自身の音楽の意味性や畏怖と苦悩の質についても見損なう(一定期間、必要以上に迂回する)ことになりもするし、当然解釈が表面的になるのでないかとも懸念される…付記110102)。

もし現代が、一切の表現行為を成立させられぬほどの不幸な時代――私としては、もっとよく考えればまだ余地があるはずという気もするが――であるなら、表現者がそれに同意するなら、それはそれとして、であらばいっそのこと表現者は表現行為(成り立たないもの)を、(*****中途半端な介入すらせず、環境科学的、環境生理学的分析などでなく他ならぬ「芸術/生成・表現」という分野に於いては *****…付記110102)寧ろ辞めるべきである。これ以上表現することは、芸術自身の可能性にとって或る種自殺行為になり、行き場を無くするものであるということを自覚しなければならない、ということになる。ましてやその憤懣のはけぐちを芸術そのものへの破壊行為になど求めぬようにすべきであろう。己のすることは、Art;「表現行為」であるどころか、たんなる自我の発散にすぎぬことを自認するべきであるとも云える。

そうして、一切の表現行為はもはや成立させられぬ、とは諦め切れぬ者たち、何らかの能動的で生産的な対話と構築作業を再生する意思とその形式を模索しうる人々に、次の時代、新しい表現の時代をゆだねるべきなのではないだろうか...

2003年11月14日 (金)

昨日の一文について

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一人の天才によって或るスタイルが獲得された時、これを確立させるのに彼ひとりでは十分でないことがしばしばである、複数の個性を通してそのスタイルが形造られて行きうるというのもわかる
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そのスタイル(ものの見方・考え方・表し方)が、一時代を代表し制覇するに足るものである場合には、というべきかも知れぬ。
だがそのスタイルが、一天才の一個性;興味深いある一つの視座、として存在すれば充分である、という場合もあり得る

が、これまでにはしばしば、後者のような存在が時代そのものを支配しすぎていた、という場合があったかも知れない

絵画に置きかえて云えば 例えばキュビズムのような場合、あのような異次元同居の発想と一定の認識論的面白み、空間と時間の処理や存在に対する視線の興味深さ、等々といったものは、ピカソとブラックが居れば充分という感じがする。そうした発想は、ある種未だ舌足らずであったセザンヌの表現――彼はいわゆる「絵画的美」の側面に於いて<巧い>画家であった訳ではない。絵画に於て複数の視点を以て見る者のまなざしを宙吊り的に交換する絶妙さを保持しつづけながらも同時に一つの平面におさまっている、ということを実現するに於ても、その絵画技術そのものの巧みさに於て卓越していた訳ではおそらくない――を経て必然的に生じたともいえようが、この洗練の或る方向性を決定的に確立(!?)した、たとえばピカソの、天才的な形や面を捉える力、描線の過不足なさ、空間に於る明-彩度の絶妙な取得、グラデーションの選定と空間への配置の的確さ、またブラックの、抜群の画面構成力、錯綜する傾斜と間隔の妙、渋い補色関係、セザンヌ的メサージュ伝達の端的さ、等々...らの能弁さを思えば、(☆非-現象学的には)彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。(☆…現象学的にはしかし、十全な表現でなかったどころか、かえって著しく漏洩させたものがある――それらを別の方途で丹念にすくい取ったのがたとえばクレーであるといえようが――とするならばなおのこと、そのキュビズム的方法を、ただ単に続々と踏襲するものが現れたところで、「この問題」が解決される訳でもない 11.01.06)

マルクやシャガールの一部の作品がキュビズムを取り込むのは殆ど無意味な面も多く、彼らは彼らで、それぞれの生きとし生けるものへの無償の愛情だとか奇特な夢幻性を追求しつつけるだけでその存在価値は充分だったように思われて仕方ない。 またこうした発想(キュビズム、また脱-具象)の延長が、案の定、ダダのような安易な※芸術否定性、たんなる※※イデオロギーへと移行していくのを見るのは、また或る種の自滅性(自殺性)へと向かって行くのは――至当といえば至当なことながら――残念なことである。

※…彼らの絵画のmessage性を思うとき、それらは単に表現の題材(宗教的テーマとそれにこじつけた裸婦像への偏り云々)、という観点から過去の芸術を否定している、というにとどまらない。何らかの意味で<創造行為そのものの否定>を含む

※※…政治的に反体制的であることはよい。が反体制的、が同時に芸術否定、創造行為否定とも癒着しやすいことには疑問を覚える。過去の芸術には、その題材、テーマの範囲や因習云々の問題を越えておのづから達成された所の、安易に一掃されざるべき創造性と自発性・合理性の追求、その次元の高さがあるからである。

2003年11月15日 (土)

一昨日の一文に就て

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前衛芸術とはやはり人間の素朴でピュアな能動性・創造性に対する諦観を抱き(それ自身はよいが)、これに対し――云ってみれば(表現者としても)自覚的に、背中を向ける傾向から生まれるもの、この傾向に少なくとも暗黙的同意をした所から生まれるスタイルであると思われるだけに、
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何故か。

人生とは偶有性を免れぬものである
芸術とは必然性を貫徹しようとする自己とそれを阻止する力との葛藤が、おのずと表現映現されるものである
こういわれる時、それらは正しい。
いかに前衛音楽以前の精神性すぐれた音楽、必然性の濃厚な音楽――それは謂わば摂理そのものの如き合理性の貫徹に見える音楽・或いは不屈の意思の貫徹に見える音楽――であろうと、それらにも偶然性の影が宿らざるをえなかったし、これを引き受ける自己の存在が現れてもいるのである。

だから前衛音楽の方法、また表現するものが、それ以前の音楽に比し安易であるとか、創造性を減退させたものであると言うことは出来ない...

だろうか?

それはバッハの音楽をどう捉えるか、またべートーヴェンの音楽をどう捉えるかという問題にも、なる。またベートーヴェン以降の(個の実人生という表現領野にかなり的を絞った、ロマン派の)音楽家たちの仕事(の質)をどう捉えるかという問題にもなる。

それを通じ、彼らの音楽的自然=合理性(不条理;異和感の表現を含む)と、前衛音楽の合理性の差異、が語られなければならないだろうし、つまり彼らの音楽的必然から逆説的ににじみ出る不条理性と、前衛音楽の不条理性との差異が語られなければならないだろう。

このことはつまり、バッハとベートーヴェン以降から前衛音楽以前、に生きていた音楽家が、これらの巨人の出現と圧倒的功績以後、如何に生きにくかったであろうとも、何とか音楽自身の尊厳、またこれを通して自己の尊厳を守ったと言ってあげられるか、の問題とも、なってくる。そしてこれを語ることを通じ、彼ら無調音楽への足がかりを与えた、また無調への過渡期を生きた音楽家たちの音楽に見い出しうる曖昧性・両義性の狭間に於る実存の真率な生きざまと、前衛音楽に於る可塑性のなかに自覚的に居ずまいを変えた実存(無秩序、或いは不条理を表記する形式の中に形骸化された存在)との差異、などが語られなければならない。

2003年11月18日 (火) (蛇足)

絵画に於て

脱-現実、ことに脱-具象の試みが、しばしば 「反」-具象、 の意味性を 帯びる/or癒着し易いという志向性…。(殊に、運動として展開される時)
また、その精神構造。

ところで、――これはデ・スティル、シュプレマティズムなどの方法論にもつながるのかも知れないが――

絵画に於て、具象――これは、つまり処遇の記述(己を状況づけているものの書き込み;状況づけられ方の痕跡記述)である(11.01.02)――を捨て去ることは、もともと抽象芸術・時間性芸術であった音楽が元来内包している所の暗示性を生かした表現行為としての抽象性とは、おのずから、「=(equal)」の意味を持たないように思われる。

絵画が具象を完全に捨て去ること( ‘ 芸術 ’ として ※※※これが成り立つ、のだとして)は、音楽がそうであるのと同様に自発的、でありうるだろうか

そうでないとすれば、それはもともと具象の空間から出発したもの、視覚芸術として出発した表現のもつ、条件と宿命のようなものがどの程度左右しうるかの問題

また、自発的におこなわれていった、というよりは寧ろ運動として・主義として、実験的,解体的に行われる場合に帯びがちな挑発性と恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題

完全な抽象主義、には、真摯な運動に於ても――私自身の好き嫌いを越えて――或る種の観念主義への陥穽を見い出す...。

それは考え続けなければならないだろう

※※※…
形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
 
上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異


2003年11月19日 (水)

昨日の一文に加筆

※※※…
形態、色彩、空間、運動、質量の、具象からの独立可能性
 
上記の、表現としての意味性(乃至、可能性)と 芸術としての意味性の間に生ずる差異
これに加え、

具象そのものがもつ尊厳
表現の方法やレベルによってそれが最大限に発揮された時の、尊厳の大きさ。「状況づけられている、ということ自身が語りうる存在としての意味性」(11.01.06。シェーンベルクら無調派に比しヒンデミットの音楽により顕著に温存されていると感じるのはこうした点かも知れない…)

これらはたんに古びた様式とか因習の問題に還元しえないものを包含するだろう

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14日の一文に就て

彼らによってすでに語り尽くされた感もあるというのが正直な所感である。

これに就て。
ピカソからは、どちらかというと、ここからさらに運動性を強調した未来派、ダダイスム、また立体派(彫刻界)などに派生-延長し易かったであろう

ブラックからはモンドリアンやマレーェヴィチらの運動へと通じていく要素がより強かったであろう

何れにせよキュビズムに代表される脱写実,脱具象の発想は(フォーヴから形而上絵画、幾何学抽象様式などの幅を持ちながら)全く以てこの時代を制覇したのであるが、これと同時期になお具象にもとづく表現者、芸術家が出現しつづけ、才能があれば認められつづける、という土壌、自由な空気があるべきであったし、そのようなキャパシティが時代に無いという不安、過去のものとされつつある様式で自己にとって意味のある表現をし自己実現しようという自由と自発性にプレッシャーをかけ、危機感を与えるような風潮――音楽界に於て或時点(27歳当時)のグールドがそれを感じていたように――が、やはりあるべきではないと思われる。

その問題は、当時もさることながら、現今に於ても相変わらず当てはまる所があるだろう

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前述のこれらの一文に就て
芸術否定性
他意性――挑発性・恣意性(一部、存在への嘲笑性)の問題
etc.etc.


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添付部分

2017.06.23 Friday | My Blog  category:素描・メモ書き
Schumannのop80の関連。前記事参照

Webernの1905(STRING QUARTET)

(Anton Webern: String Quartet (1905) Anton Webern (1883-1945):String Quartet 1905, performed by the MultatuliStringQuartet.)

偶然この演奏がヒットしたのだったが、いい動画を選んだようだ。

ヤコブベーメ絡みで どきっとする文字が登場する。

作曲家同士の秘義(秘技)を、共感しつつ世々代々暴露し合い、という感じだろうか

WEBERNが1:27辺りから着手し、明確には1:30以来2:35くらいまで執拗に繰り返している音列

(これ=2:35 以降は、よりブラームス-メソッドぎみに傾斜しつつ転回対位法的=上昇志向に変容させていく。それは直接には弦楽四重奏五重奏の境域。この際元の土台はこのRSchumannのOp80よりはむしろOp44,47に近づく=扱う主題自身が移行する、ことにもなるのであるが)とは...

しかし要するに、RSchumann Op80第四楽章の終末、パロールとしては、例のフレーズ(※)であり、エクリチュールとしては、これを原基とするクロマティクな霊性であるが、<それ>とはそもそも「何」の展開(変容)であるのかといえば、(Op80の最初の主題が示唆してもいるところの)ベト遥かなるであり=Favoriに由来し、よって幽霊(Geist)でもあり、つまりはやがてRSchumannの54年幽霊の主題による変奏曲のテーマと帰していくところのものである

※...RSchumann op80 26:24-27(分:秒)

Piano Trio No. 2 in F Major, Op. 80 - Robert Schumann

df)エリーゼ

上記関連

2016 5/23 FB に書いていたこと。

(再度 冒頭 Webern にもどって)

Webern のベートーヴェン 後期——幽霊 路線、と同時に!(この暗号を秘匿的に曝露した)シューマン中後期(Op80)によせる視線

最終版 26:24-27 ! Webernがこだわっていたのは、案の定ここである。

この場所とは、ベートーヴェンの暗号の急所——幽霊Op70-1・遥かなる恋人に寄す(←含:関連 AndanteFavoriなど)・エリーゼ(テレーゼ&ジョセフィネ。ベートーヴェンの熱情はジョセフィーネとの出会い以来一生彼女に捧げられていたが、これを表現するのに「エリーゼのために」を原型とする多数の由来旋律-transformationと、姉テレーゼ+妹ジョセフィーネの合体、もしくはテレーゼ+ジョセフィーネ+ベートーヴェンの精神(霊)の合体という形をとる必要があった。これは幽霊Op70-1自身で告白されている他、彼の多くの作品に様々に変容されつつ現れる)のテーマ・後期ベートーヴェンetc..のキマイラの統合的急所——であり、したがってシューマンも(メンデルスゾーンやショパンも同様に気づいていたように)キマイラの発現として当然ながらこだわっていた場所であり、この暗黙の伝達作用はブラームスに受け継がれ、ウェーベルンもまたしかりなのである。

個人的感想としては、十二音技法に完全に移行してしまう前のこうした作品は、作品そのものとしてユニークであり音楽的質も高い。

この歴史的な急所と、豊かな音楽性への「表現力」への変換作用は、その意味作用が大きくまた偉大であれば受け継がれて当然であるし、音楽や音楽史というものが、(巨人とその遺産から「全く独立した新しい転換」を遂げなければならないという心理上の禁制的亡霊に纏われる必要は必ずしもなく、)こうした遺産を率直に継承していく事、継承しつつも己の個性的作品と化すこと、またその姿勢に何ら負い目を負うものではないと感じる…。


グールドも作曲家をめざしたのであれば当然こうしたことに気付いていたであろうが、彼はシューマンを弾くことは殆どなかった(室内楽くらい)。理由は単に好き嫌いの問題なのか、自分と同じ根を持ちながら採った表現(方法)としてはこの同根をまったく裏返しにしたような存在であるホロヴィッツを意識したための回避か、等 考えさせられるが、まあそれはそれで面白い。


※ウェーベルン自身がこうして注目したように、のちの調性拡張問題の揮発点となったであろうシューマンのOp80周辺については、クライスレリアーナの追記やOp68など(つまりメンデルスゾーンの死の前後)とともに別途blogに記載してあるので近いうちに触れたいが、一言だけ言っておくと

Op80が何故調性拡張問題の揮発点となると感じるか、またWebernもここに可能性を見いだしたかのようにこだわったか、について言うと

RSchumann Piano trio no2は、op80と番号が振られてはいるが

実際には、op68(子供のためのアルバム)のかかれた年の前年、1847年に書かれている。47年というのは微妙な年だ。メンデルスゾーンが11月に亡くなる。メンデルスゾーンの死は、おりしもこの作品(op80 Piano trio no2)作曲の「直後」!だったのだが(※先週だか先々週に判明...。2017 6/22付記)、

いずれにせよこの年は、メンデルスゾーンの姉ファニーがすでに5月に亡くなってはおり、その際のメンデルスゾーンのショックの激しい神経の昂奮・精神状態の上下向をシューマンは当然察知しているであろう...。そのためかシューマン自身も、曲想自体は愉しげにみえて、その実は不安定。

(聞き慣れていた時は、シューマンにしては、さして短調もないしリズミカルで愉しげな曲想だなあという感覚だったが、よく聞くと、やはりなにか精神の拠り所・支柱がない感じ...謂ってみれば「あとのなさ---追い詰められていく予感」ともいえる精神の不安がよぎる…。覚束ぬ愉しさ。それが調性の拡張、という形で出ている!——こういうところがシューマンらしい。つまりシューマンにとって調性の拡張~崩壊(の予兆)といった問題は、自己の精神・身体と切り離された<方法論的>なものなどではなかった。

通常の作曲家は——ブラームスやフォレでさえ——調性の拡張・逸脱を、(機能和声進行の転機を迎えつつあることから)作曲の方法論としてある種割り切っている面があり---時代がそれを向かえてしまったのだ、というわきまえもあったのだろうが---、その点での健全さ(メソッド、スキーム、ストラテジー等々としての構え)が前提になっているが、シューマンという人間においては、(調性拡張、という)方法の問題と精神-身体の問題とは不即不離である以上にむしろ全く一致している。むしろシューマンの「音楽性(精神性)そのものが」、調性の拡大(新しい時代)を要求していたとさえいえるのだ。

偶然とは感じられない。

それこそがシューマンらしさでもあると思えるのだ。

機能和声進行の逼塞からの逸脱こそが、人間精神の逼塞と逸脱=転機そのものが、いわば集約的に一人の人間において、きわめて裂開的に具現(表徴)されているようである。




 

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