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生け花はいつも人生において大切なことを教えてくれる

花を生けるなんて、人生においては無駄な行為である。
SDGsやグレートリセットなど社会課題の解決に世界中の企業が取り組む中、花を生けたところで何も生まないし、何の解決にもならない。

なら生け花はただの自己満足の贅沢で無駄なものなのか。

なぜ人は花を生けるのか

それは花が美しいからである。道端で見た儚げに咲く野草に感動、共感し、少しでも身近に感じたい、他の人にも見てもらいたいと思うからです。そこには自然への深い愛情があります。


生け花は多くは語らない

花は何も語らないことは至極当たり前である。
口は付いていないから不平不満も言わないし、そこに意思もない。
どんな状況で花をつけようが、ただ生き、枯れると死んでいく。
一回花を生けたところでその事象をただただ見るだけでそれ以上はない。


花の意思

生け花に重要な要素として"お稽古"がある。
古(いにしえ)を稽(かんが)えるとあるように、古い事象から学び、これからのあるべき姿を知ることだが、継続することで初めてその意味を発揮する。

花をいけ続けるとどうなるか。
それは"花の意思"を感じることができるようになる。
今まで何も語らなかったはずの花が突然話しかけてくるのである。
窮屈で苦しい、そこではない、そういう声が聞こえる。
逆に落ち着き良くなると、すんなりその場所に自ら収まる感覚すら覚える。


人生におけるゆとり、ムダが真実の人の姿を磨く

意義や効率ばかり追い求めてはせっかく人間である意味が限られる。
そこには多少ばかりの遊びが必要。
一見ムダに見える行為が実は人生において大切な"何か"を私たちに気づかせてくれる。
それは向こうから来るのではなく、私たちが自分の内側から気づくものである。
その一助となるのが花である。


生け花のお稽古

私はこの7月から"生け花のお稽古"を開講することにしました。
場所はJR奈良駅からすぐの隠れ家サロン"三五夜"さん。

教室ではなく、お稽古としたのは、私から一方的に答えを与えるのではなく、大切な"何か"に気づいてもらう場として開きたいから。
それは人それぞれが自ずと感じることであってそこに答えはありません。
生け花が"華道"として今まで受け継がれ、海外にもファンが多数いる理由。
それは生け花が単なる装花技法に留まらないからです。

お稽古を続けるのには時間も労力もかかります。
時には気持ちの整理がつかないまま花と向き合う時もあるかもしれません。

ただそんな時でも花と向き合うこと、自分と向き合うことで
新たな発見があるかもしれません。

ご興味ある方はぜひ月に1度、奈良へ足を運んでください。
きっと"何か"を感じてもらえるはずです。


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