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安楽死と尊厳死の違いは?簡単にわかりやすく解説

簡単にわかりやすく言いますと、以下になります。

「安楽死」:本来の寿命よりも前に、薬物投与等で死ぬこと

「尊厳死」:延命治療をやめて、本来の自然な寿命で死ぬこと


安楽死と尊厳死は、似ているようで異なることがわかると思います。

残念ながら日本ではどちらも合法的に認められていません

国民から多額の社会保険料を徴収した上で、老人に苦痛を与え続けて生き長らえさせるという拷問を平気でやり続けています。そして「延命治療するのが普通」「そうすることが倫理的に正しい」と真顔で言っているのです。ちょっと頭がおかしいですよね。


個人の自由意思と選択が尊重されるべき時代に、未だにこのようなことを行っているのです。

僕はただちに安楽死と尊厳死を合法化すべきだと思いますし、むしろ逆に延命治療という名の老人虐待は違法化すべきだと思います。


尊厳死と安楽死

尊厳死は、末期疾患や慢性疾患などにより苦しみが増す中で、その苦痛を終わらせるために、人生の最期を自ら決める権利を実行することを意味します。

尊厳死は、患者の自己決定権や尊厳を尊重する観点から重要視されています。患者が自らの人生を終えることに合意し、医療や人工的な延命処置を拒否することで、その最期の時間を自らが選択することが可能となります。これは、個人の価値観や尊厳を尊重する上で、重要な考え方です。 患者の権利や尊厳を保護するうえで、尊厳死が必要な選択肢であるという意識が広まってきています。

一方で、尊厳死には様々な倫理的な問題や社会的な懸念が存在します。例えば、尊厳死が患者の意思に基づいて行われることが重要であるため、意思決定能力の有無や精神状態などが重要な要素となります。患者の本当の意思を尊重し、公正な判断が行われることが求められます。

尊厳死の実施要件とは、医療技術の進歩に伴い注目されるようになってきました。日本では、尊厳死に関する法律は整備されておらず、倫理的な議論が続いていますが、海外ではある程度の規制が存在しています。

尊厳死の実施要件として重要なのは、まず患者自身が死を選択したいという明確な意思を持っていることです。これは精神的な面だけでなく、身体的な苦痛や病状の悪化による生活の質の低下を含めて考慮されます。また、医師や専門家との面談を通じて、患者の選択が適切であるかどうかが判断されます。

さらに、尊厳死を実施するためには、患者の病状が不可逆的であることが必要です。すなわち、医学的に治療の見込みが低い状態であることが条件となります。また、患者が精神的にも冷静であることや周囲の環境の支援があることも重要な要件の一つです。 尊厳死の実施要件は、患者の意思尊重や生命倫理の観点から慎重に考慮されるべきです。患者自身の尊厳を尊重し、苦しみを軽減するための選択として尊厳死が位置付けられます。

患者の自己決定権や人権を守る観点からも、医療従事者や社会全体が尊厳死に対する適切な規制やサポートを整備していくことが求められます。 法制度や倫理観念の違いにより、尊厳死に対する考え方は各国で異なりますが、患者の意思を尊重し、最善の選択を支援することが大切です。


一方、安楽死とは、病気や苦痛により生活の質が著しく低下し、終末期において苦しみを和らげるために、医師の指導の下で患者が意図的に死を選択することを指します。つまり、自らの意思で死を決めることで、苦しい状況から解放されることが目的となります。

死を選択する権利とは、個人が自分の人生について主体的な判断を下し、その最後の瞬間まで尊厳を保つために重要な権利の一つです。生と死は、個人の最も根源的な権利として認められており、その選択権は法的にも倫理的にも重要視されています。個人が自らの生を終える時を選択する自己決定権は、人間らしい尊厳を保つために不可欠なものと言えるでしょう。

安楽死が法的に認められるかどうかも検討すべきテーマです。一部の国や地域では安楽死が合法化されており、患者が苦しみから解放される手段として扱われていますが、他方で安楽死は道徳的な議論を巻き起こし、波紋を広げています。

日本では尊厳死も安楽死も法律上は認められておらず、医師がこのような行為を行うと訴えられたり嘱託殺人罪に問われる場合もあります。

※日本でも延命措置中止のガイドラインやリビングウィルは現状でもありますが、法的効力は不透明な状況です


医療従事者は本来、患者の生を支え、救うことを使命としていますが、患者の希望に沿った安らかな最期を支援するという側面も重要であると言えます。

人々が安楽死を望む背景には、痛みや辛さからの解放を求めるだけでなく、自らの終末期をコントロールする欲求や、家族や社会への負担を減らす意図も含まれていることも考慮すべきです。


安楽死や尊厳死が認められないのはなぜ?2つのくだらない時代遅れの理由

では、日本ではなぜ安楽死や尊厳死が認められないのでしょうか?僕は2つの理由があると考えています。

①国が抱える矛盾とダブスタ

そもそも安楽死や尊厳死に関わらず、日本で自殺が違法になってしまっている背景は「生命は社会的法益の側面を持つ」という思想が根底にあるからです。

もっとわかりやすく言えば「あなたの命はあなたの物ではありません。国や社会の物です。だから、辛くてもお国のために生きてください」ということです。

自己責任に基づいた個人の自由意思と選択が尊重されるべき時代に、時代遅れの国家主義だと思いませんか?

現代社会では自由意思と自己責任が当たり前になりました。僕は底辺の氷河期世代おじさんですが、僕が非正規雇用で貧乏なのは僕の自由意思と自己責任の帰結だと非難されます。しかし一方で、「僕の命なので僕の自由意思と自己責任で死にます」が許されないのは矛盾していると言えます。

なぜこのようになるのかというと、経済競争の文脈における「自由意思と自己責任」は国にとって都合が良いが、安楽死の文脈における「自由意思と自己責任」は国にとって都合が悪いからです。

安楽死を禁止するのはダブスタを抱えたフェアではない考え方だとご理解いただけたと思います。

②お気持ち倫理

さらに、安楽死を選択することが一般化すると、社会全体において個々の死生観や価値観が問われることになります。国は、国民の生命倫理に対する一般的な価値観や社会全体の倫理が変化し、生きることや生を終えることに対する考え方が曖昧になることを恐れているのでしょう。

しかし、これは裏を返せば「命は大切です」というのはお気持ち・大衆心理にすぎないことを示しています。国民全体に広がっている「命は尊い教」というカルト宗教です。

人の命は尊い、お金に代えられないと主張する方に、
「人の命が尊い根拠をデータで実証できますか?」
「お金がダメなら、命の価値はどのように定量評価すればよいですか?」
「昆虫より人の命のが尊い科学的根拠を遺伝子工学的に説明できますか?」

と問いかけるとだいたい回答に窮します。

既に科学・データなどのファクトに基づいた情報が大切であること、論理的思考力や数学的思考力が大切であることは、現代社会では当たり前になっています。

しかし、一方で「人の命」などの都合の悪い話になると、途端に思考停止し、時代遅れのお気持ち志向に走る人達が一定数存在するのです。

彼らは「科学だけでなく倫理も重要」とよく言いますが、そういう人に限って"倫理"の厳密な定義や定量的基準を示しません。「論理で考えるべき課題」と「倫理で考えるべき課題」の切り分けも画一的な基準や定義に基づいていないように見えます。結局、お気持ちやポジショントークのために"倫理"を都合よく使っているだけなのでしょう。

これもまたダブスタを抱えたフェアではない考え方だとご理解いただけたと思います。


人の命が軽くなる時代だからこそ、コンビニを利用するように死ねるべき

高齢者の医療費負担が増加する中で、社会保障改革が必要不可欠です。高齢者の割合が増えるにつれて、医療費の負担はますます重くなっています。今後、高齢者の数はさらに増加し、医療ニーズも増加する見込みです。

現行の社会保障制度では、このような状況に対応するのは困難と言わざるを得ません。 高齢者の医療費負担が増加する背景には、高齢化に伴う慢性疾患の増加や医療技術の進歩による医療費の増大があります。このままでは、国民が医療費の負担を支払うことが困難になり、社会リスクが高まる可能性があります。

このような状況を打開するためには、社会保障制度の改革が不可欠です。財源の削減や効率的な財政運営が必要とされます。また、医療制度の見直しや効率化も重要です。医療分野における無駄なコストを削減し、効率的な保健・医療サービスを提供することが求められます。

特に無駄な延命措置や延命治療をやめて、尊厳死を基本としていくことは日本にとって最重要の課題だと思います。


また、将来的には安楽死の合法化も積極的に考えるべきです。重病患者や障碍者に限らず、僕はもっと手軽に自分の自由意思と自由選択で安楽死できる時代になって欲しいと思います。

例えば、コンビニで楽に死ねる薬が1000円くらいで買えて、カラオケやボーリングに行く感覚で天国に行けてしまうような社会です。※実際には死体の処理とかもありますので、死ぬ場所を火葬場に限定したり処理費用の負担も必要になるでしょうけど


AI技術の発展に伴い、人はどんどんいらなくなっているのが現代社会です。少子高齢化問題が話題ですが、実は今のペースでAIが進歩するならば「未来では、人間が少ない方が逆に国家にとって有利ではないか?」という専門家も出てきています。

「人の命は尊い」はお気持ち・宗教にすぎず、実際は需給の面でも人の価値はどんどん下がっており、人の命はどんどん軽くなっています。


倫理という曖昧な感情論を理由に、現代社会で起こっている事実に目を向けないのは愚かと言わざるを得ません。

考えてみてください。

AIに仕事の大半を奪われ仕事もありません。格差は極限まで広がり、人工知能をたくさん保有する富裕層と99%の一般市民との差は信じられないほどまで広がります。

ベーシックインカムやAI税を導入すればよい?そうやって役に立たなくなった人を無理やり生かすことに意味があるでしょうか?地球に人という動物を増やすことの意味は?

生かされた人に尊厳はありますか?AIに生かされAIに対し劣等感を覚えAIが全領域を支配して、大半の人がやれる事がなくなる世界で無気力に生きていて楽しいですか?

僕達は、自分の人としての価値がなくなっていくほど、生きることの意味を自問することになるでしょう。そして、この「人の価値の下落と尊厳の剝奪」はこれから徐々にですが確実に進んでいきます。安楽死の問題というのは、これから先のAI時代に生きる人にとって他人事ではないのです。


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