「黒の衝撃」より前の話
こんにちは、ひょっとこ ボウイです。
先日、山本耀司さんのドキュメンタリーが放送されていましたが、
やはり、パリで認められた一流のデザイナーの言葉は、どれもご多分に漏れず、心に突き刺さる金言だなと未だに余韻に浸っている次第です。
このまま山本耀司さんのことを書きたいところでしたが、
今回は、このYohjiYamamotoが登場するより前のことを書こうと思います。
ファッションが好きな人なら「黒の衝撃」という言葉は1度は聞いたことがあると思います。
これは、簡単に説明すると、
山本耀司さんとコム・デ・ギャルソンの社長である川久保玲さんが初めてパリでショーを行った際に、
・全身真っ黒
・左右非対称
・未完成のデザイン
・ボロボロ
など、
これまでのパリの常識だった色彩豊かで、高貴で華やかという既成概念に大きく反した服を発表し、良くも悪くもメディアに大々的に取り上げられたという出来事です。
この話があまりにも有名で、それ以前の話となると、VANの石津謙介さんや、みゆき族などのドメスティックな話題になってしまいがちです。
しかし、実際はこの「黒の衝撃」以前にも
高田賢三さんをはじめ、山本寛斎さん、あるいは文化服装学院の代名詞とも言える、小池千枝先生など海外で活躍された偉大な先駆者はいらっしゃいました。
例えば、小池千枝先生は戦後にフランスに留学し、カールラガーフェルドやイヴ・サンローランと共に学び、その後立体裁断の技術を日本に持ってきた、まさに服の遣唐使的存在ですし、
その小池先生の教え子であり、カールやイヴサンローランと友人関係にあったのが、高田賢三さんだったりします。
高田賢三さんは「黒の衝撃」より10年も前にパリで名をあげた、まさに日本人デザイナーのパイオニア的な存在ですが、
彼の自伝でもある、『夢の回想録』という本には、こんなことが書かれています。
「日本人はもともと着物の文化だから平面裁断には強いんだよね。そこに立体裁断が加われば、立体をそのまま平面の図に落とし込むことができる。フランス人でもそこまでできる人は少なかったから、僕はパリでも一目置かれていたんだ。すべて小池先生のおかげ。」
高田賢三さんは装苑賞をきっかけにデザイナーとして大きく飛躍された経緯がありますが、やはりデザイナーとしてのセンスだけではなく、日本人特有の技術というものがあったからこそ、前例のないパリで成功できたのではないかと思います。
そして、ブランドの魅力というものも本来はそこに凝縮されていると思います。
実際、デザイナーと名乗ることは誰でもできますし、
自分自身パタンナー時代、とりわけ詳細なデザイン画でなくとも、パターンを作成してきた経験も何度もあります。他にも某ファストファッションのアイテムをベースに、「ここをこうして欲しい」とだけ依頼してくるデザイナーもいらっしゃいました。
もちろん、結果だけ見れば利益を出すことが正義なのかもしれません。
しかし、やはり服好きである以上、服以上に哲学を着たいと考えてしまいます。
常に学び続け、常に何か新しいものを求め、高い技術とセンスを磨く。
そんな姿勢のデザイナーが作るものは本当に豊かな服だと思うのです。
高田賢三さんの同期で盟友でもある、コシノジュンコさんは、
「本気で遊ばなきゃだめ」
という言葉を残していますが、まさに、この一言は彼女の生きる姿勢が詰まったものだと感じます。
遊びも学びも表裏一体であり、
「楽しい」からしか学びは得られないのだと思います。
一流のデザイナーはセンスではなく、生き方が一流であり、
だからこそ、その生き方のファンになり服というフォルターを通してその人の哲学をシェアしたいのだと思うのです。
今回は「黒の衝撃」以前の話から学べることを書いててみましたが、
自分が服作りにおいて何を心がけるべきか、歴史から学び、さらに自分らしさを追求していきます。
では。