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Stay sweet home

文:永井一樹(附属図書館職員)

 マイホーム取得のために全財産をつぎこんでしまったおかげで、家計は未曾有の火の車状態がつづいている。手元にキャッシュがないというのはこんなにも恐ろしいことなのか。ここ数年、ユニクロ・無印以外で洋服を買った記憶がない。昼は職場の食堂で二百六十円のきつねうどんを啜る毎日。それすら惜しい日は、早朝梅干し入りのおにぎりを自分で握り、カップ麺と共に持っていく。これだと百数十円で済むのでより経済的だ。職場のアルバイトの送別会なんかがあると、かつては参加しなくても黙って幹事の胸元に寸志を忍ばせていた自分だが、近年はちゃっかり末席に加わりながら無言で割り勘に便乗している。コロナ以後はそういう集まりが一切できなくなって寂しい限りだけれど、内心胸を撫でおろしているのが正直なところだ。
 そんなひもじさの一方で、私はまだ結構贅沢な自分の車が手放せないでいる。リッター数キロしか走らない低燃費車なのだが、その車で週末などに、用もないのにひとりで遠出をしたりする。この非合理な行動の意味を自分でも説明できない。目下の苦境からできるだけ遠くへ逃げ去りたい。そんな心の現われなのか。つい先日も実家の加古川から京都まで車を走らせていた。高速代とガソリン代を合わせると片道でもう五千円くらいはかかっているはずなのに。そんな風に、懐と地球環境を痛めながら辿りついた京都の街で、私は駐車場代を渋りだす。ガソリン代や高速代はクレジット決済だが、駐車場代はキャッシュが必要だからだ。こればかりは問題を先送りできない。だが、今の自分には十分なキャッシュがない。結果、折角訪ねた京都の街をただ車で周遊することになる。でも、これはこれで気が楽で結構楽しい。お腹が空けば、無料で駐車できるコンビニを目指したらよいではないか。中心部のコンビニには駐車スペースがないので、たとえば大原などの郊外にまで足を運んでみるのもよいだろう。ただし、たとえ大原を訪ねたとしても、コンビニで大原の風情を楽しむことはできない。自宅近くのコンビニと大原のコンビニとは、コインの裏表のようにそっくりだ。なぜ私は京都に来たのか。なぜ大原にまで足を伸ばさねばならなかったか。
 梅干入りのおにぎりとフィナンシェとコーヒーを買う。車に戻って、運転席でそれを食べる。隣りの駐車スペースには、屋根にはしごを積んだ黒いバンが停まっていて、運転席と助手席でがてん系のお兄さんが黙々と弁当を食べている。私はよそ行きの服(ユニクロとはいえ)を着て、ひとりでおにぎりを齧っている。おにぎりの後は、お楽しみのフィナンシェと淹れたてコーヒー。本日のランチ三百五十円也。
 ふと、二十数年前の記憶が蘇る。京都の大学に入学したばかりの1996年春の記憶。親元を離れ、初めての一人暮らしで、私はなかなか大学生活に馴染めなかった。友達ができず、昼はいつも下宿に戻って、コンビニのものばかり食べていた。もしあのとき、パンデミックに襲われていたら、私は誰よりも早くステイホームに順応していたに違いない。サークル活動もアルバイトもしなかった。休日は中古の原付でちょっと遠出をするのが趣味になっていた。隣県の奈良公園を訪ねて、日がな一日大仏をぼんやり眺めて過ごしたこともある。赤い毛氈を敷いた床机の上で団子を食べた。なぜそんなことをしたのか覚えていないけれど、公園内の公衆電話から自分の部屋に電話をかけた。まだ、携帯電話なんて普及していない時代である。もちろん、誰も電話には出なかった。夜更けに下宿に戻り、留守番電話を確かめた。1件のメッセージが、あります。そこに残されていたのは、まぎれもなく私の言葉だったけれど、何だか私の声ではないみたいだった。
 ― フィナンシェを食べ終えた私は、コーヒーを片手にコンビニを出、また来た道を戻り周遊を繰り返す。夕暮れ、人通りが多くなった街の中心で信号に待たされる。サングラス越しに、真正面の赤信号をじっとみつめる。車中で「うぉぉぉ」と唸ってみたが、誰も振り向かなかった。結局一歩も街中に足を下ろさぬまま、京都を後にする。まるで惑星探査機のようだ。高速道路に出ると、夕陽がまぶしく照っている。FMラジオから、パッヘルベルのカノンが流れてくる。目からぽろぽろと透明な液体が流れるのを止められない。メーデー、メーデー。心の中で叫びながら帰る。子らの笑顔の待つ、わが地球の住処へ。


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