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20230212 五十嵐キリスト教会礼拝説教「憐れみのいのち」

 前回の投稿で一応事前告知させていただいた通り、今年度神学生として出席している教会で初めて礼拝説教を担当させていただきました。

当日朝。最高気温10℃に迫るかという絶好の日和でした。
教会員の方が書いてくださった説教題@案内看板
記念に原物をいただくこともあり得ましたが、荷物が増えてしまうので写真で十分かな、と(^^;;

 礼拝堂の様子は見出し画像の通りですが(間隔を空けて座っています)、この日はお誘いした友人知人等初めてお越しの方が多く来てくださり、椅子を追加しないといけないほどの人数になりました。

 この日の礼拝プログラムです。

 聖書は「新改訳2017」が使用されています。「聴くドラマ 聖書」のパソコン版(要登録のようです)やスマホアプリでお読み/お聞きいただけます。

 讃美歌については動画等へのリンクを貼っておきます。(他歌集版を貼る場合もありますが、詞・曲とも同じです)

 さて、ようやく本題の説教(メッセージ)です。これまで地域の超教派祈り会(朝祷会)でのメッセージ原稿は文字だけで公開していましたが、少なくとも日曜礼拝でのメッセージについては音声も公開することにします。そのためにstand.fmに登録しました。

 お読みくださる方はこちらからどうぞ。なお、この原稿には音源から最低限の表現の修正を行なっている部分もあります。また、参照リンク等も最低限付しています。

【初めの祈り】
 神様、今日も私達に命を与え、礼拝の場へと招いてくださったことを感謝致します。あなたが数千年の時を超えて今の私達に与えてくださっている神の御言葉が、いま説き明かされようとしています。どうか神様が語る者・聴く者すべてに臨み、あなたの光を心に照らしてくださり、あなたが伝えてくださることを一人一人がよく悟ることができますように。主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン

【挨拶】 
 おはようございます。いつも新潟聖書学園とこの者のために祈り支えてくださり感謝致します。昨年10月の後半に後期が始まって以降、お会いする方々やメールで時折連絡・近況報告をする方々に対して「神学科4年課程の前半が間もなく終わろうとしています」といった言葉を決まり文句として使ってきましたが、日々あっという間に過ぎていく中で自分自身はなかなかその実感が湧かずにおりました。しかし今月に入り、前半の2年間で最後となる行事が立て続けに2つありまして、ようやく自分でも実感が深まりつつあります。その2つについて簡単にご紹介しますと、一つは今月1日に行われた「祈りの日」という行事です。この行事は半期に一度行われるもので、その日はすべて休講となり、普段授業を行っている朝8時半から夕方4時前まで、1食だけではありますが基本的に昼食を断って祈りと黙想に専念する、ある意味修道院のような生活をする行事です。もう一つは、授業の中で行なっている説教演習です。これは大学の教職課程で行われている模擬授業のようなものですが、今年度に入ってから9・11・1・2月と4回経験し、4回目が3日前の木曜日に行われたばかりですが、毎回様々なことを気づかされる時となっています。先程模擬授業という言葉を使いましたが、私はある時まではミッションスクールでクリスチャン教員として教えることを目指して教職課程を履修し、教員免許は取得しましたが、その後いろいろとあって今の道に導かれていますが、学校教員を目指していた時のことは決して無駄になっていないということも説教演習を通して気づかされています。神様がすべてを益として用いてくださっていることを、感謝のうちに覚えるものです。(↓新潟聖書学院についてはこちらから。なお、「学園」は学院と聖ヶ丘バイブルキャンプ場で構成されます)

 また、今日は日曜日の礼拝での説教としては初めて経験させていただく機会となりました、この機会を与えてくださった皆様と神様に感謝致します。
 先程2つの箇所をお読みいただきましたが、中心箇所は民数記になりますので、お手数ですが再びお開きいただければと思います。また、説教の中では先程の2ヶ所以外の箇所もいくつか参照していきますが、それらについてはその都度聖書を開かずにお聞きいただくだけで結構です。ただ、最後に確認したい御言葉は共に聖書を開いていきたいと思いますので、その時にお知らせします。

【前半のあらすじ】
 さて、民数記20章の朗読を聞いて暗い気持ちになった方もおられたかもしれません。今から3500年近く前の紀元前1400年頃のことです。長い間エジプトで奴隷のように苦しめられていたイスラエルの民は、数々の不思議な出来事を通してエジプト脱出を果たし、神が約束の地として与えると言われたカナンに向けて荒野を旅していました。そこで、運命共同体と言っても過言ではないであろう一団のフォロワーとリーダー、従うべき者と導くべき者が立て続けに罪を犯してしまったのです。しかも、40年という長い年月を経ていよいよカナンを目前としていた時のことだったのですから、もう少し辛抱して、信仰をもって乗り越えていれば…と思ってしまいます。しかし、そのような負の歴史が今日まで聖書に残されているということは、今日この箇所を開いた私達にも神様が教えてくださろうとしている大切なことがあるということです。そのメッセージに耳を傾けていきたいと思います。
 1節に、イスラエルの民がとどまっていたのはカデシュという地であったと記されています。この地には泉があったと注解書に記されていますので、普段は飲み水に苦労しなかったと想像できます。しかしこの時は、気候の問題だったのでしょうか、泉にも水がありませんでした。エジプトを出てから、民は何回もリーダーのモーセとアロンに敵対して不平を言いました。その様子をご覧になった神様はその時々に様々な反応をされました。多くの人々に知られている、海が左右に分かれた奇跡。映画「十戒」のワンシーンでもありますし、ドラえもんの一話でも「モーゼステッキ」というひみつ道具が出てきます。

民はその奇跡が起きる直前にも、せっかくエジプトを出たばかりだったのに早速不平を言ったのです。しかし、神は民を驚くべき方法で助け出してくださいました。その後、マナというパンのような食べ物と肉を通して毎日民に食料を与えてくださり、今日の箇所の出来事のように水が岩から湧き出たことが旅の序盤にもありました。民の不満に対して神様は深い憐れみを示してくださったのです。しかし、神様は「カナンの地を与える」という約束を民が疑った時には大変厳しい報いを与えられました。それは、民が40年間荒野をさまようことになり、第一世代は約束の地に入れずに死を迎え、その子どもたちがカナンに導き入れられるというものでした。エジプトからカナンまでの距離は、言ってしまえば300kmしかなく、どう考えても普通なら40年かかるとは思えない距離なのに、そのようになったのです。
 そして今日の箇所では、終盤の12節でリーダーのモーセとアロン―2人は兄弟でしたが―が約束の地に入ることができないと宣告されました。リーダーとして人一倍苦労したことが容易に想像できる2人が、よりによってそうなってしまったのです。

【厳しいだけなのではなく】 
 神様はなぜ、このように優しい時と厳しい時があるのだろうかと思われた方もおられたかもしれません。しかし、それぞれの箇所を注意深く見ると、神様は厳しい対応をされるのと同時に憐れみも示してくださっているのです。憐れみは聖書の神のご性質を表す時によく用いられる言葉で、他にいつくしみ、恵み、愛といった言葉も同じような意味合いで用いられます。
 先程触れた「40年」の宣告は民数記14章に記されていますが、神様はこの場面で一度「民を疫病で打」(12節)つ、すなわち滅ぼし尽くすと言われました。しかし、モーセは神様に訴えるようにして祈りました。

もし、あなたがこの民を一人残らず殺すなら、あなたのうわさを聞いた異邦の民は、このように言うに違いありません。
『主はこの民を、彼らに誓った地に導き入れることができなかったので、荒野で殺したのだ』と。
どうか今、あなたが語られたように、わが主の大きな力を現してください。…この民をエジプトから今に至るまで耐え忍んでくださったように、どうかこの民の咎をあなたの大きな恵みによって赦してください。」

民数記14章15~17a、19節

 咎は罪と同じような意味合いで使われる言葉ですが、赦しを願ったモーセの祈りに対して、神様は赦しを宣言し、民を滅ぼし尽くすという計画を思い直してくださったのです。
 
 話を民数記20章に戻します。水がないという状況で民が言い放った文句が2~4節に記されていますが、「死んでいたらよかったのに」という言葉には強烈なインパクトを感じます。4節にはいくつもの植物の名前が記されていますが、これは約束の地・カナンに生えていると、以前偵察隊が報告した植物でした。目の前の水のことだけでなく、「早くカナンに入れさせてくれなかったからこうなったんだ」と恨み節を言い放っているかのようです。私達からしてみれば「何とわがままな…」と思ってしまいますが、神様はそれでも水を湧き出させてくださいました。

【2つのいのち】 
 神様がなぜこうしてくださったのか―理由は明記されていませんが、「命を大切にしてほしい」という神様の願いがあったのではないかと思うのです。聖書は66の書簡で構成されていますが、その最初にある創世記は、神が天地と生き物のすべてを創造された記録から始まります。最後に人間を創造された神様は、創造したすべてを見渡して「非常に良かった」(1:31)と言われました。神様はわがままな民一人一人の命をも自ら造られました。そんな神様が、自分の作品である命を「もう要らなかった」と民が言うことに対して悲しまれないことがあるでしょうか。いや、ともすると「自分が造った命に対してなぜそんなことを言うのか」と逆に怒ってしまうような場面かもしれません。神様は民の言うことを聞いて水を湧き出させてくださいました。それほどに大きな愛を、今の私達にも注いでくださっているのです。
 最初は神様が「非常に良かった」と評価されたこの世界でしたが、その後アダムとエバがエデンの園で起こした事件によって、罪が世界に入り込んでしまいました。神様が園で唯一食べてはいけないと命令された木の実を食べてしまったのです。神様はアダムに「食べてはいけない」と予め命じられた時、食べてしまった場合どうなるのかも予告されていました。その部分をお読みします。

神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

創世記2章16~17節

 反したら「必ず死ぬ」と言われた命令を破ってしまったのに、以降数千年に渡ってなぜ人類は生き永らえているのでしょうか。古今東西の研究者がいくつもの考えを打ち出していますが、数ヶ月前にこの教会の礼拝で下川先生が紹介してくださった説を聞いた時に、私はハッとさせられました。それは、人類が最初に罪を犯した瞬間から神様の憐れみは始まっていて、当初の計画を思い直して命を与え続けてくださっているというものでした。先程紹介した神の「思い直し」は、人類史の最初にも起きていたということです。
 しかし、これで一件落着、万事解決ということではありません。人類最初の罪を犯したアダムとエバはすぐにエデンの園から追放されました。この出来事は「失楽園」と呼ばれることがありますが、楽園というのは単に木々が豊かに生い茂り、食べるための果実がたくさんある…という表面的な意味にはとどまりません。神と人とが非常に親しい関係にあったという意味こそが大切なのです。造り手と作品が親しい関係にあるということは、作品が造り手の意図をしっかりと反映しながら存在することができるからです。しかし、人類が罪を犯してしまったために、神と人との間には深い断絶が生まれてしまいました。ですから、先程は肉体的には死ななかったことを強調しましたが、同時に霊的には死んでしまったと言えるのです。その状態を回復し、神と人との間を再びつなぎ直す架け橋となるために、神の子であるイエス・キリストはこの地上に生まれてくださいました。そして、回復が実現した瞬間にイエスがどこにいたかと言えば、あの十字架上だったのです。イエス様は大いなる犠牲の死を遂げただけではなく、その死に勝利して3日目に復活されました。
 先程は、民数記だけではなく新約聖書のヨハネの福音書もお読みいただきました。短い箇所ですが、イエス・キリストの有名な言葉の一つです。ヨハネの福音書4章全体を通して、ある女性とイエスとの関わりについて記されていますが、女性は水を汲みに来た井戸のほとりでイエスと出会いました。そして会話が展開されていく中で、イエスが「わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません」(14節前半)と言ったのに対し、女性は次のように返しました。

「主よ。私が渇くことのないように、ここに汲みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。」

ヨハネの福音書4章15節

 女性がイメージしたのは「超科学的で万能な水」だったようですが、イエスが意図したのはそうではありませんでした。その真意を簡単にまとめてみると、次のようになります。「この世のもので心を満たそうとしてもいつかまた足りなくなってしまう。しかし、神こそがあなたの心を真に満足させ、肉体の死を経てもなお続いていく永遠のいのちを与えるのだ」。このことを表すために、たとえとして水が用いられたということです。
 ちょうど先週、いま教会学校の中高科で使っているテキストの中で印象的な表現を見つけました。

それは「永遠のいのち(神との交わり)」というものです。シンプルですが、非常にストレートだなぁと感じました。私達はどうしても東洋的な天国観にとらわれてしまいますが、「永遠のいのち」は死んだ後のことにとどまるのではなく、この地上での歩みからすでに始まっているものなのです。そして、一度肉体の死を経験することになりますが、やがてキリストが再臨してこの天地が滅ぼされた後に、もはや罪を犯すことのない者として復活させていただくことができるのです。
 つまり、神は私達にこの地上における肉体的な命を与えてくださるだけではなく、霊的な永遠のいのちも、どちらも与えてくださるのです。

【変わらない現実の中でも】 
 神様が憐れみ深い方だとお話してきましたが、だからと言って人間が罪を犯す前の状態にリセットされた訳ではありません。そのことはわがままな民だけを見ても明らかですが、、5節以降では逆にリーダーの側が罪を犯した様子が記されています。
 旧約聖書には神殿という建物が登場します。神殿は今の私達にとっての教会と同じような役割を持つ建物で、神を礼拝するために欠かすことができない場所です。荒野を旅していたイスラエルの民にとっての神殿は、テントのような天幕というものでした。民の不平を聞かされたモーセとアロンは、その天幕の入口でひれ伏しました。すると神の言葉がモーセに告げられます。

「杖を取れ。あなたとあなたの兄弟アロンは、会衆を集めよ。あなたがたが彼らの目の前で岩に命じれば、岩は水を出す。彼らのために岩から水を出して、会衆とその家畜に飲ませよ。」

民数記20章8節

 2人は、杖を取り、人々を集めるところまでは命令に従いました。聖書において杖は権威を象徴するのですが、9節で「主の前から杖を取った」とありますから、ここで現わされているのが神の権威なのは言うまでもないことです。さらに。そのような状況で岩から水が出るのですから、それが人間の業ではなく神が起こしてくださる奇跡であることも想像に難くありません。しかし、モーセはそのような大事なポイントを忘れてしまい、「我々が水を出さなければならないのか」と民に言ってしまったのです。岩から水が出ることが分かって安堵し、気が大きくなってしまったのかもしれませんが、あたかも自分が神であるかのように発言してしまいました。さらに、岩から水が出るようになるために必要な行動は「岩に命じる」ことだったのに、モーセは岩を杖で二度打ちました。岩を杖で打つというのは、荒野の旅が始まった40年前に岩から水が出た奇跡の時に神様が命令した方法でした。その時は神様が「杖で岩を打て」と言われましたが、今回は違った訳です。モーセは、過去の成功体験が頭をよぎり、それを自分の手柄のように勘違いして頼ってしまったのです。
 しかしここでも神様は、カナンの地に入ることができないという厳しい宣告と共に憐れみも示してくださいました。モーセをすぐにリーダーから解任したり、あるいは命を奪ったりするようなことはせず、その後もモーセはリーダーを続けました。そして、山の上から約束の地・カナンを望むことができるほど近いところまでイスラエルの民を導く役割を与え続けてくださったのです。
 私達にもこのような神様の憐れみの中に生きる道が与えられています。神の絶対的な赦しを受け取り、その神に信頼して生きていきたいと願う―それが信仰の第一歩です。私達が神の意思とは違う思いや行いに走ってしまう罪人としての性質はこの地上で生きていく限りつきまとうものですが、罪を引き起こす悪の力を神は圧倒するのです。神の赦しの中で、神と共に歩む人生は、どれだけ心強いものでしょうか。

【憐れみを感謝し、分かち合う生き方】
 今日を生きる命をいただいている私達は、その命をどのように生かしていくべきでしょうか。神様は私達の生活に必要なすべてのものを与え、祈り願うことに対してご計画に従って応えてくださいます。かけがえのない人や出来事との出会いを与え、困難な道を切り開き、悲しみには慰めと励ましをくださるお方です。そのような神様の恵みの中で最も大切なものは何かを最後に確認したいと思います。
 この箇所は皆さんにもお開きいただきたいと思います。旧約聖書の詩篇103篇です。私の方でお読みします。

わがたましいよ 主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ 聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。主は あなたのすべての咎を赦し、

詩篇103篇1~3節冒頭

 その後も「主が良くしてくださったこと」がいくつか続きますが、最初に挙げられているのは咎の赦しです。もちろん日々の生活が守られることも、病気から守られることも私達には大切なことですが、究極的には罪の赦しがなければ私達はどうにも立ち行かなくなってしまいます。
 そのことを思い起こし、感謝を表すための不可欠な機会が毎週日曜日の礼拝です。この礼拝で、私達は聖書の解き明かしを聞き、自らの弱さを知らされると同時に、それをはるかに超えて力強くあられる神様の働きを思い起こします。そして、キリストが十字架に死なれたことをパンとぶどう液を口にすることを通して体感する聖餐式を2000年近い教会の歴史において守り続けてきたのです。また、日曜日の教会は礼拝だけをする場ではありません。今はコロナ禍のために時間や方法が制限されてしまっていますが、思い思いに互いの近況を語り合い、その中で神から与えられた恵みを互いに喜び合いながら、新たな一週間を力強く歩んでいくために励まし合う交わりも私達には欠かせないものです。信仰の歩みは一人だけでは成し得ないものだからです。
 礼拝や交わりを通して、また日常の出来事や日々開く聖書の言葉を通して与えられる、神様の大きな、また数えきれない恵み。その一つ一つを感謝をもって握りしめ、特に困難に襲われた時に思い起こして再び立ち上がる力をいただいていきたいと思います。「望みも消えゆくまでに 世の嵐に悩む時 数えてみよ主の恵み」という賛美歌の通りです。

そして、自分を造ってくださった神様が私に与えてくださっている役割は何だろうかと日々尋ね求めていきたいと思います。今日何回か登場した「憐れみ」は、神様が人間に与えてくださるだけのものではなく、私達にも周囲の人々に分け与えるように求められているものです。このことは、朗読されたヨハネの福音書の言葉にも表れていると言えます。14節後半で、イエスは「わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」と言われました。永遠のいのちという神様の究極的な憐れみを自分のところだけでせき止めていてはもったいないのです。
 とは言え、私達には大きなことはなかなかできません。しかし、どんなに小さなことでも愛と真心をもって取り組んでいきたいと思います。また、時に大きな決断を必要とする選択を迫られることもあるかと思います。その時は祈りと信仰をもって、また神からの励ましをいただきながら決断していきたいものです。私達の言葉や行いが神様によって用いられ、他者を生かしていくことができればと願うものです。そのようにして、神を中心とするいのちのつながりを、共に広げていく歩みをしてまいりましょう。

【終わりの祈り】 
天の父なる神様、御言葉を通してあなたが数千年の歴史の中で人類に対して限りない憐れみ、恵み、愛を注いでくださっていることを教えてくださり感謝致します。それは今ここにいる私達すべてにも注がれており、それを周囲に分かち合う務めが託されていることを覚えます。
弱く小さな私達ですが、あなたからいただいている憐れみ・恵みへの感謝を胸に抱きながら、少しでもそれらを分かち合って生きていくことができますように。あなたとの交わりを日々深め、祈りつつ人や物事に向き合っていくことができますように。今週一週間も、どのような時にもあなたを信じ、見上げながら歩んでいくことができるよう。私達を支え導いてください。
主イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン

 最後に教会の紹介です。

 駅から歩こうとすると結構かかりますが、路線バスだと「グリーン団地」「五十嵐二の町東」からそれぞれ徒歩3分以内。JRからバスの乗換には越後線内野駅を推奨します(内野駅前(東側)~二の町東は6分前後)。

より多くのアウトプットをするためには、インプットのための日常的なゆとりが必要です。ぜひサポートをお願いしますm(_ _)m