テゼの歌、祈り、黙想…
ここ数年間、9月後半に礼拝音楽に関する思い出深い出来事がよく起きています。去年は、初めて結婚式で奏楽させていただいたのが9月末でした。その準備をする中でアイディアが降ってきた創作曲を、改めてご紹介させていただきます。
テゼの黙想と出会ったのは、5年前(2015年)の9月22日。見出し画像は、その時の会場だったカトリック麹町聖イグナチオ教会(東京都 千代田区)の小聖堂「マリア聖堂」です。
この時のテゼの黙想は、「第39回日本カトリック『正義と平和』全国集会・東京大会」のオプションプログラムとして行われたものでした。それに参加する以前からテゼに関するいい評判は聞いていましたが。テゼ目的で大会に参加した訳ではありませんでした。
大会2日目の最後に行われたテゼの黙想は、ギターとフルート(だったと思いますが、とにかく管楽器系の何か^^;)による伴奏によって進行しました。まずはその伴奏に魅了されました。
ここまで「テゼの黙想」と書いてきましたが、概略的説明を引用します。(引用元については後述)
集いの開始前に司会の方がテゼの黙想について説明してくださったんですが、その中で印象的だったのは、マザー・テレサが「テゼの歌は何回歌えばいいのか」と質問された時のエピソードでした。マザーの答えは、「数えられないくらい繰り返しなさい」だったそうです。
テゼで作られた歌は、近年発行された日本の賛美歌・聖歌集にも多く採用されています。五十音順で、曲名だけ紹介します。
それ以外にも、日本で作られた歌がテゼの黙想に用いられることもあります。「キリストのへいわ」(こどもさんびか改訂版34、聖562)や「わたしはなりたい」(聖563)、「見よ、兄弟が」(21-162)等です。
大元と言いますか、テゼの歌集も日本で2冊発行されています。
奇跡的に1冊残っています。そして続編も出ています。
こちらは自主出版の形のようです。リンク先の問い合わせ先までご連絡ください。こちらのブログは5年以上更新が止まっていますが、私が今年4月に問い合わせた時点では改訂増補版の在庫がまだありました。
輸入CDはこれ以上の数出ています。それを参考にすることもできるかと思います。
日本窓口の公式YouTubeチャンネルはこちらです。(もう少し更新頻度が高いとありがたいんですが^^;)
11/27追記:日本キリスト教団出版局発行の月刊誌「信徒の友」で、下記2号に3編のテゼ関連記事が掲載されています。体験談も含まれるので、読みやすいと思います。ぜひお買い求めください。
・テゼ共同体が目指すもの 世界の苦悩する人々と連帯する祈りの道…打樋啓史(関西学院大学社会学部教授・宗教主事)
・テゼの祈りに集う若者の証し 祈りと賛美で人とつながる喜び…佐藤有喜(東京・頌栄教会員)
・歌って祈り耳を澄ます─テゼの歌と神との対話のひととき…柳本和良(兵庫・塚口教会牧師)
22.3/10追記:Spotifyの再生リストをようやく見つけました。オンラインで聴く方法としては最もデータ量を消費せずに聞けるものではないかと思います。
次に、実際の集いがどのように行われるのかをご紹介したいと思います。
こちらは、2017年のGWにマリア聖堂で定期開催されている集いに参加した際の式次第です。(右頁は英語版)
「祈りの順序」の各所作の前後に歌が面々と連ねられるのです。たしか、ここに記載されていない歌も歌われていた記憶があります。多くの歌を歌う点や、曲によって重唱や輪唱ができる点では先日紹介したヒム・フェスティバルと同じ特徴を持ちますが、その方向性というのは動と静で見事なまでに対照的なのではないかと思っています。(もちろん、それぞれ良さがあるからこそこうして紹介している訳ですが)
これはたまたまでしょうが、この日は毎年末にテゼで行われる世界青年大会に参加した方の証しが開始前にありました。
最初に紹介した歌集のpp.6-7から、集いの構成の仕方について説明されている文章を箇条書き・要約でご紹介したいと思います。
YouTubeで検索すると、実際の集いの映像がいくつか出てきます。それを参考にしていただくといいかと思います。
22.3/10動画追加
引用した「構成」以外にも「テゼの歌」「祈りの場を整える」「歌」「ギターコード」に関する解説が計3ページに渡って展開されています。「歌」の中には、「伴奏楽器があると助けになりますが、必ずしも必要ではありません」と書いてあります。私は鍵盤を多少弾けるだけで、ギターは数回触った程度の経験しかありません。もし本格的に練習する機会が与えられれば、テゼの伴奏のためにそれをしたいと思っています。
これまで私が参加したテゼの黙想は、すでに紹介した15年と17年@麹町の他、18年と19年には日本基督教団の教会での集会でのことでした。コロナの影響で集会情報が変更になっているかもしれないので教会名は紹介しないでおきますが、いずれの教会も「テゼ」のテの字も記されておらず、夕礼拝や祈祷会の名称で行われていました。そこで歌われていたのが、賛美歌ではなくテゼの歌だったということです。
こちらのサイトで、国内で行われているテゼの黙想が紹介されています。(当分は要問合せでしょうが…) 本記事での最初の引用は、このサイトからのものでした。
私がなぜテゼに惹かれたのかを改めて考えてみると、一つは既述の通り「伴奏の美しさ」だったと思いますが、より根源的な点としては「黙想についての考え方に新たな視点が与えられた」ことにあるんじゃないかと思います。
沈黙についての解説もすでに紹介していますが、以前はまさに「強引に作ら」ないといけないものだと思っていました。もちろん文字通りの静寂が集いの中でも設けられますが、それだけではない訳です。祈りの言葉による黙想はまだイメージできましたが、歌を通した黙想という世界が存在するとはテゼに触れるまで全く想像していませんでした。それも、賛美歌・聖歌のように(いくら同じ旋律の繰り返しでも)歌詞が節ごとに変わる歌ではできないことだと思います。マザーの言った「数えられないくらい」歌えば、集いの中ではもちろんのこと、日常生活の中でも唱えることができるようになります。
少々語弊があるかもしれませんが、沈黙はやろうと思えばいつでもできるということなのではないかと思ったのです。「いつでも」というのは、神が私たちと共におられる(=インマヌエル)ことにも通じます。インマヌエルはキリストが誕生する前に父ヨセフに預言された言葉(マタイ1章23節)ですが、復活のキリストが天に昇る前は、弟子たちにこう約束されました。
そういう「完全な」状況の中にはあるものの、人間は信者であろうとなかろうと「不完全な罪人」です。そのような私達の課題は「やろうと思う」ことなのかもしれません。様々な誘惑がひしめく中で選び取るべきものを選び取って… そういった試みをしようとする第一歩が「信頼」なのではないかと思います。
締めくくりとして、直接テゼには関係ないものの思い出したことがあります。教会では洗礼を受ける前の人のことを「求道者」と呼ぶことが多いと思いますが、洗礼を受けた後もこの世での生涯が続く限り「求道者」としての日々が続くと言えるのではないかと思うのです。罪の誘惑は日々押し寄せてきますし、自分の力だけではそれに打ち勝つことはできません。神が直接与えてくださる助けもあれば、何か・誰かを通して与えられる助けもあります。テゼの歌もその一つと言えるはずです。
最後に、先程「構成」について引用した部分の次にあるブラザー・ロジェの祈りから、最後の段落を引用します。(歌集p.9)
テゼの歌に全く触れたことのない方には、紹介したものを通じて音楽に一度触れていただきたいと思います。そのようにして、テゼの魅力が一人でも多くの方々に広がることを願っています。
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