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経済成熟期と減らさないためへの進化

晴れ間が差したので

山口周さんの新著「クリティカル・ビジネス・パラダイム」を開き、「はじめに」を2ページほど読んだところで、ふと、これまで数年に渡ってモヤモヤしていたものに、どこか「晴れ間」が差した気がしました。
山口さんは前著「ビジネスの未来」において、現代社会を

成長の完了した「高原状態」の社会
(中略)
「経済以外の何を成長させれば良いのかわからない」(後略)

と表しており、共感しかありません。新著では、それに対する新たな提案を行われるようで、俄然、期待が高まりますが、その前に私に訪れた「晴れ間」について、書き記しておこうと思い至った次第です。しかし、振り返ってみれば、2019年秋に会社を辞めてここに書き始めたのも、このモヤモヤが大きなテーマでした。

すでに十分な生産性が達成された社会で、これ以上、人間を生産力とした生産性の向上を目指すことは、例えとしては逆なのかもしれませんが、乾いた雑巾を絞るような感じ

うん、山口さんとそれほど遜色のない、ええこと言うてる(はず)。
少しいい気になったところで、件の「晴れ間」について述べていきます。これは大量生産・大量消費から転換しうる「次の社会基軸」としての可能性が大いにあると考えます。

「増やすための進化」を終了させる

これまでの社会が目指してきたのは「増やすための進化」でした。生産を増やし、人口を増やし、さらに生産を増やす。ビジネスと経済、政治は、このために知恵を絞り、「よりよい明日」=「より多い明日」を目指して、日本に限らず、全人類が何世代にも渡って、挙党一致で取り組んできました。
それがいつからか「充分な今日」が続くようになり、目標が達成されたことを薄々感じるようになった。日本で言えば、人口減が始まり、GDP成長率が減少し始め、高度成長が終了した1970年頃かもしれません(山口さんも私もこの頃の生まれです)。しかしそれも束の間、今度は「より多く」が、我々に刃を向けるようになった。受験戦争はなぜ戦争と呼ばれたのか。もっと生産性を上げろと言われても、それは他者を死に追いやる可能性がある。しかし、手を止めると自分が落伍者になってしまう。そんな「チキンレース」が、今日まで続いて来ました。早半世紀。
これは「増やすことはよいこと」という「信仰」を捨てられない限り続きます。この「増やすための進化」を終了させるためには「新たな信仰」=「新たなゲームルール」が必要です。

「減らさないための進化」へ

増やすことをやめるのは容易ではありません。アンチテーゼとして「減らすための進化」を提案しても、ただの縮小化や我慢を強いるのでは、誰も見向きません。
そこでアウフベーヘン。ジンテーゼとして「減らさないための進化」。言い換えるなら「省消費」、むやみに横文字にするならば「レス・コンシューム」。
これは従来の「増やすための進化」の前提にある「まだ不足している」を「すでに充分にある」に置き換えるものです。やや乱暴ですが、フロー型からストック型への転換と言えるかもしれません。フロー型社会で得た利益(社会的余剰、余力)を蓄積し続けた結果、資産が充分に貯蓄され、これから当面は、その運用でやっていく、という考え方です。最小限の消費とその補完のための生産。生み方を考える「資本社会」から、使い方を考える「資産社会」へ、とも言い換えられるかもしれません。
ここ数年、老後に向けた貯蓄額について、取り沙汰されています。10年後、20年後の社会を、今の基準で推し量ること自体に無理を感じますが、おそらく、老後に得る退職金や年金を原資とする生活では、どう増やすかよりも、どう減らさないかに関心が移るはずです。つまり、現代社会も老後に入ったという見立てです。

経済成熟期の知恵

コロナパンデミック以降、世界中で紛争やらクーデターやらの人災に、地震に異常気象などの天災も重なり、異常が平常となりました。食料やエネルギーの安定確保は身近な問題となっています。加えて、この問題を大きくするのは、現代社会を牽引しうるリーダーの不在です。その結果、世界に共通するのは「どう増やすか」を軸とすることによる閉塞感と利害の反する集団間の軋轢です。インドなどのグローバルサウスの経済成長は、当面続くかもしれませんが、おそらく戦後の日本や中国の経済発展が20年程度で頭打ちになったように、これらの国でも必ず近い将来に「充分な今日」が訪れ、成長は終わりを迎えます。
2019年時点で、世界人口は今後、アフリカが牽引し、2100年頃に110億人で頭打ちになると予想されていました。しかし、その後に下方修正され、2080年の104億人がピークと見られています。個人的には、かつての低位推計の2050年頃にピークが訪れる予感がします(根拠はありません)。

しかしこうした点からも、世界全体でも遠からず、少なくとも日本では「経済成長期」をとうに終えて、「経済成熟期」に入っていると考えた方が自然です。そうであれば、「いつまでも若く」ではなく、人類の「共に豊かな老後」のため、社会の貯蓄を「いかに減らさないか」を考えるべきです。老後(成熟)のあとには、おそらく衰退期があり、次の誕生の時を迎えると思いますが、悲惨なイベントの後でないことを祈るのみです。

少子化を問題としない

成熟社会では増やすことへの根本的なインセンティブは動きにくい。当然、人口は増えません。子供を持たない人が増えているのは日本だけではありません。だから世界人口は頭打ちになるのです。
人口と生産は分けた方がいい。限界費用の充分に低減した食料やエネルギーが確保でき、予防医療でそこそこに健康で、まちづくりなどの「共」の活動に参加しながら人生を全うできるのなら、おそらく今ほどの社会福祉のためのお金は必要ありません。むしろそこに向けて制度設計するべきで、今の政策は、ギャンブルのために重ねた借金を子孫に残そうとしているようにしか見えません。
どうしても人口が必要なら然るべきルールで移民を受け入れて、日本で子供を育ててもらう。20年経てば、その子供は日本語を母国語にして、日本人のマインドで日本社会の一員になってくれるはずです。20年待ちましょう。

いや、すでに始まっていた

いろいろまくし立てたところで、いや、すでに始まっていました。
それは「脱炭素」の流れです。大量生産・大量消費による環境破壊、地球温暖化などを背景として、(人間にとっての)環境保護を図るためのムーブメント。もし、SDGsを含めて「増やすための進化」から「減らさないための進化」への転換を意図していたのだとすれば、「それ、早く言ってよ」です。
日本でも2050年のカーボンニュートラルを掲げ、国や大企業がプラスチックをはじめとするリサイクルや再生エネルギー利用に取り組んでいます。ただ、私を含めた多くの市民は、ごみの分別はしていますが、その全体像について、日常的にあまり関心を持つことはないでしょう。正直なところ、カーボンニュートラルの「実質ゼロ」には胡散臭さを感じていました。アップサイクルも大きなムーブメントになりにくいだろうと。
しかし、「使った分を戻す」をテーゼとすれば、人類の営みとして、たとえば、作らないのではなく、必要量を使い切って戻すための開発や経済活動は可能で、ある意味、ソフトランディングの可能性が見えてきます。ただ、「なぜそれをやるのか」が、環境保護のためと言われても市民には壮大すぎてピンときません。「減らさないため」は、この「なぜそれをやるのか」を説明しうるものではないかと考えています。
そして「何をどうやるのか」においては「終わり」や「共有」を思想とした設計・デザインが不可欠になってきます。成長は終わり、成熟を強く自覚する時代です。幸い、若い世代はこれを敏感に感じ取っているように思います。

それでは、これから読みます。

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