労働から活動へ

2020年が明けました。今年は、オリンピック開催で一時的にお祭りムードにはなるでしょうが、社会の価値観の変化はさらに進み、やはりあの頃が転換点だったんだと数年後に振り返りそうな予感がします。様々な方も同様な話をされていて、予測というより、もはや願望なのかもしれませんね。こうして世の中は変わっていくのでしょう。

静かな年末年始

変わったといえば、先月のクリスマスは、店頭やCMでのプロモーションが随分静かだったと思っていたら、お歳暮のビールやハム、年賀状に向けた家庭用プリンターのCMも見なかったと同僚に指摘され、そう言われてみれば、と驚きました。様々な催事が盛り上がらなくなったとは聞きますが、2019年は何か突然死のように極端に減ったように感じます。ちなみに私がこのお正月に食べたお餅は3個でした。これからシーズンを迎える恵方巻きやバレンタインデーの動向が気になりますが、果たして。

資本主義、生産、雇用、労働

この年末年始に日経新聞で「逆境の資本主義」という連載がありました。タイトルに関する説明は見あたりませんでしたが、旧来の資本主義とその経済システムの行き詰まりが共通認識になったということなのでしょう。

こちらにもありましたが、従来型の雇用制度は維持できないという論調が非常に増えたように感じます。最近の金融やメーカーの人員削減なども、様々な理由があると思いますが、根本的な問題は、これまでの人を介した事業モデルが存続の危機に晒されているということ。事業の収益源だった人介手数料(開発なども含む)が、新たなテクノロジーやそれを基盤とするビジネスモデルによって代替され、徴収できなくなった。その結果として、従来型の生産、雇用、労働が、現代の生産環境にフィットしなくなったということでしょう。

ここから10年くらいで逃げ切れる(他界できる)世代を除いては、当面は、期待と不安の中で、次の陸地を探して泳いでいくことになると思います。個人的にはこれを楽しめる世の中であって欲しいですが、そのためには、全世代の再挑戦を支援するような制度(セーフティネット)や社会的合意も必要だと思います。

次の居場所を求めて

このnoteは、もともとマーケティング方面のアイデアを書こうと思って始めましたが、これまでに何度か書いてきたように、来るべき社会像について夢想することが増えています。あちらこちらで「これからは所有ではなく共有!」、「福祉社会への転換ですよ!」などと一方的にまくし立てては、相手を閉口させ、「それでもお金は大事!」などと反論されています。

私自身に来るべき社会の中に居場所を見つけたいという願望があるのでしょう。しかし、すでに十分な生産性が達成された社会で、これ以上、人間を生産力とした生産性の向上を目指すことは、例えとしては逆なのかもしれませんが、乾いた雑巾を絞るような感じがしますし、こうした社会への流れは必然であるようにも思います。テクノロジーによる生産力・生産性の向上は、これからも我々が望む限り、進むでしょうし、それは歓迎すべきだと思います。

一方で、体に染み付いた「お金」という社会基盤を簡単には手放せないという心理ももちろん理解はできます(私もその一人です)。しかし、これからの転換の軸をそこに立ててしまうと、うまく旋回できない気がしてなりません。

バケモノの登場と富の変容

こちらは先日、あるセミナーで紹介された映像ですが、これまでの人間の生産能力を前提とした世界に、全く異なる生産能力を発揮するバケモノが登場したとも言えるのではないでしょうか。こうした未来を享受するのか、拒絶するのか。しかし、自動運転も然りですが、これらが確実に我々の生活の中に浸透してきていることを、ほとんどの人は気付いているはずです。

今後の課題として、こうしたテクノロジーを前提とした社会の中で、我々はどう生きていくのか。手放すものと手に入れるもの、テクノロジーや他者との共存の仕方、これらを日々考え、試行錯誤し、着地点を探していくことだと思います。

これまでは国民の自由意志が「見えざる手」として働き、国の経済を良い方向に導くと考えられていたとすれば、これからは国民に代わって、神経網としてのIoTと脳としてのAIが、社会を俯瞰し、最適解を提供し、それに沿って身体としての機械が作業をする。それによって、より少ない資源(時間を含む)でより多くの生産が行われるだけでなく、より環境負荷が少なく、より多くの人がその恩恵を享受できるようになる。この提案された最適解を選ぶか否かは人間に委ねられるのだと思いますが、この意思決定にはブロックチェーンによる民意だけでなく、AIによる支援(歴史に学ぶ)も介入してくることでしょう。

加えて、インターネットが、情報の自己増殖の場となり、AIによる社会運営の最適化が、さらに図られるようになる。インターネットが真価を発揮するのはこれからでしょうか。ただ一方で、インターネットでは、「エコーチェンバー効果」と呼ばれるような、特定の趣向の領域に籠もり、他者の拒絶が容易になったことで、我々の不寛容さが進行しているようにも感じます。

解放された時間との対峙

冒頭の日経の連載の中で、ケインズが100年後(2030年)には、労働時間が3時間くらいになると予言していたことが紹介されており、その慧眼に驚くばかりですが、喜んでばかりもいられません。問題は、我々が労働から解放された時間をどう扱うかです。ここの将来像(ビジョン)を示せるかによって、この先の社会が、理想郷となるか地獄となるかが決まるように思います。生産労働から解放されると同時に、時間という概念が薄れていく(=時間を取り戻す?)可能性もありますが。

当初(現時点のこと)は、バケモノを生み出した人たちが、経済的な成果である富を独占します。しかし、農場から工場、オフィスへと労働の場を変えてきたこれまでとは違い、バケモノによって、多くの人間は、労働者として排除(=よく言えば免除)され、旧来の経済力を失い、バケモノが生み出すサービスを費用を払って利用することができなくなります。しかし一方で、バケモノが生み出すプロダクトの限界費用は、本来的にゼロに近いため、どんどん低減していきます。

場合によっては、ゼロを超えて、使ってもらうことだけに価値が生じるとすれば、希少性は、生産から使用(現代で言うなれば「消費」)に移ります。その時に社会は何を軸として成り立っているのでしょうか。

生産のための労働から自己実現のための活動へ

これらの点で次の記事は、非常に興味深く感じます。自己の専門性や余力を他者のために(ひいては自己のために)どう役立てるか。

働き方改革は、痛ましい事件をきっかけに突如として始まった感がありますが、実は生産性を高めることよりも、こうした社会に向けて、半ば強制的に国民から労働を引き剥がしているようにも見えます。ただ、そうしないと機械に代替されて、数も量も減った労働を人間同士が奪い合うというみじめな未来しか見えてきません。

かつては「生産のための労働」でしたが、現代では「自己実現のための労働」といった面も増えてきたように思います。労働を機械が代わってくれたとしても、我々が停止することはなく、次に現れるのは、例えば「自己実現のための活動」になるのではないかと考えています。

人間の「作る働き」と「使う働き」が、それぞれ「生産」や「消費」とは違った概念で捉えられるようになった時、本当に時代が変わったと言える気がします。

所有の中で育った我々、昭和の世代(所有ネイティブ)が、こうした潮流に対して、心から納得して価値観を変えていくことは難しいと思いますが、その子供達は、すでにこうした潮流を基本とする「共有・共感ネイティブ」です。彼らの社会に対する関心は高く、モノはあるけど、幸福感の乏しい世の中に少なからぬ疑問を抱いている。まだその多くは、今の時代に対する恐怖や不安の方が大きいとは思いますが、近い将来、彼らの中にリーダーが現れた時、大きな旋回が始まるように思います。

その時に我々、チーム昭和が、少なくとも彼らの足を引っ張らないようにしたいものです。


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