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【読書感想】ファン・ジョンウン「年年歳歳」 | あまりに膨大な個人の記憶

韓国に順子(スンジャ)という名前の女性が多いのはなぜか。
この本は、そんな著者の疑問から「スンジャ」という名前を持つ女性へ取材し、その聞き書きをもとに作られた作品である。

「聞き書き」とは、インタビューをして、まるでその人が語っているような口語で書かれた文章のことである。その人の体験を元に発する言葉で、時には口癖なども聞き書きには表れる。
それゆえ、「聞き書き」で書かれる文章は生々しいと、私はいつも思う。

それはこの作品においても同じで、描かれるひとつひとつのエピソードは、やけに鮮明で生々しい。
しかも、ぶつ切れだ。これは誰の、いつの話なのか、急に分からなくなる。

でも、記憶というものはぶつ切れだと私は思う。
順序立てて考えるまでもなく、脈絡なく思い出される過去の記憶、その時の思いがいくつかある。たとえば、大学を卒業後に訪れるとその瞬間に、今は亡いゼミ仲間が笑っている姿を思い出したり、よく晴れた春の日は、地震が起きて避難した体育館の肌寒さを思い出したり。

それらの記憶は何度も頭をよぎることもあれば、今まで思い出したこともなかったのに突然やってきたりする。

「なくなったわけでも、なくしてしまったわけでもなく、忘れてしまっただけでそこに全部あるはずなのだから」
「なくしたものは忘れたものということにしておいた。そうすれば、それはそこにあるのだった。」(イ・スンイル)

ファン・ジョンウン「年年歳歳」より

これはイ・スンイルが部屋に溢れた物について語る言葉だが、記憶とはまさしくこの通りだと思う。

この作品では、「忘れる」ことについて、色々な視点が描かれる。

忘れることを受け入れるイ・スンイル。
忘れろ。それが人生の秘訣だというハ・ミヨンの父。
忘れないためのサウスプール、ノースプール、トリビュート・イン・ライト。

「忘れる」「忘れない」が見え隠れする本作で、下記の場面が強く印象に残った。

何で今ごろ探すのさ。使いもしないで箱に入れっ放しで、腐るまで放っておいて、何であんたは、ばかみたいに、今頃になって、あんなものを。

どうしてなのと、ハン・ヨジンは聞いた。
何で黙って私のものを使って、捨ててきたのかと。私のものを。
使うとも何とも言わず、黙って持っていって、壊して捨てるのかと。
何で捨てるのだと。
イ・スンイルはそれが質問ではないと知っていて、口をつぐんだ。

ファン・ジョンウン「年年歳歳」

忘れていたものは、忘れているだけで、自分のものとして大事に持っているもの。
それを勝手に取り出して使うことは、自分以外触れることの許されない領域を侵してしまうことと同意である。
その、侵されてはいけない領域をイ・スンイル自身も持っているはずなのだ。ずっとそばにいた妹のこと、もう1人のスンジャと奪われた夢のこと、叔母の家で多忙な生活に耐えてきた若き日のこと。
それでも、「家族」「娘」であるからこそ、そこに一歩踏み込んでしまう。

この時のハン・セジンの怒りは、イ・スンイルも知っているはずなのだ。まさしく、おじいさんの骨や、それに対するイ・スンイルの信仰心を村の人たちに無下に扱われた時の怒りそのものなのだから。
ハン・セジンの怒りを受けて口を紡ぎ、後日、謝ろうと新しい登山靴を買うイ・スンイルは、老いてもなお聡明だと思った。

無くなったわけではない。
でもそれは、誰かに言えるものではない。
自分自身の「侵されてはいけない領域」のものだから。

そのように、忘れられないし誰かに伝えることもできない思い出が人生にはいくつかあって、あり続けて、それでも日々は忙しく過ぎていく。
あまりの目まぐるしさに、それらは埋もれてしまうかもしれないけれども、なくなったわけでも、なくしてしまったわけでもない。
忘れてしまっただけでそこに全部あって、今の自分がかたちづくっているのだから。

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