見出し画像

盲目になりたくない『盲目的な恋と友情』

この恋は病気だ。というのはなんだか想像がしやすい。
身近な友人にはそういう人はいないのだが、漏れ聞こえてくる話からすると、なんとなく現実にもありそうだと思える。
一方で、この友情は病気だ。というのは想像が難しい。
私が淡白な人間なだけかもしれない。
確かに中高生の頃、ニコイチっぽい子たちは確かにいたり、他の子と仲良くしていると嫉妬しているみたいな風景は見たことがある。
でも、全然この話に出てくるほどじゃない。
おそらくだけど、その子たちには心を許せる家族や彼氏がいるから。
友人がほぼ唯一の心の繋がりになってしまうと、恋と同じような病的な領域に入ってしまうことがあるのかもしれない。

恋と友情と、そして愛情は何が違うのだろうか。
友情と愛情はあまり変わらないように思う。
言葉の意味は違うけど、友情と愛情は両立しうるというか、愛情の方がより広義の言葉で、友情の中にも愛情がある。
友情があるからといって、愛情があるとは限らない。
友情は愛情よりも簡単に使っていい言葉な気はしている。
愛情なんていうと、ハードルが高いし、気恥ずかしい。
だから、誰かがわざわざ友情という言葉を作り、それによって気軽に繋がりを示せるようにしてくれた。
友達に愛しているとは言わないけど(言う人もいると思うが)、困っているときに力になりたいとかそういう気持ちは愛情と本質的には変わらないと思う。

では、恋とは、いったいなんなのか。
本の中での登場の仕方だと、時に運命であり、時に依存であり、不安定なイメージがある。
永遠に続くものではなく(もちろん愛情も永遠とは限らないが)、どこかで何かに変化する。
一時的であるとするなら、人間という種が保存されるための、仕掛けなのかもしれない。

たぶん、その仕掛け単体ならそんなに深みにハマることもないんだろう。
だけど人間は社会性のある生き物になってしまったので、いくつも事情が交差しあって、解けなくなってしまうことがあるのかもしれない。
『盲目的な恋と友情』の中だと、ほぼ初恋であること、相手と付き合うことが自分の所属する集団内でのステータスになること、ひとつの恋の中に、自分が格の高いと思う人に勝てること、自分が負けてないはずの相手に実質負けていること、でも社会的には自分が正式な立場であること、途中から立場が逆転すること、といった多くの要素が入っている。

この作品においては、友情についても多くの要素が入っている。家族とうまくいっていないこと、恋人がいたことがないこと、自分の容姿へのコンプレックスが強すぎること、コンプレックスを他の女性のせいにしていること、友達もたぶん多くないこと、などが重なっていることで、盲目的な恋と同じぐらい、盲目的な友情になっているように見えた。

盲目の仕組みはよくわからない。
恋愛に関するプライドが高くもなく低くもなく程々で、人間関係を分散させてバランスをとっていれば、恋と友情のどちらの盲目にもならなさそうではある。
でも、盲目もこの本に登場した種類だけではないだろう。
他者が絡む部分はどこまでいっても自分ではコントロールできないので、プライドを下手に持ってしまうとドツボにハマりそうだ。
仕事や趣味といったある意味物的なものにプライドを持つのとは性質が違う。

エンディングを読んだ時は少しズーンとした。
感じたことを書いてみるといつの間にか盲目について考えさせられていた。
たぶん私は盲目とは距離が離れていそうだが、あんまりなりたいものではないなと思った。

容姿へのコンプレックスはこの本に登場するほどの強いものは持っている人も少ないだろうが(さすがに気にしすぎ感)、女性はコンプレックスめいたものを多かれ少なかれ持っていると思う。(よくこんなに嫌な部分を上手く書けるなと感心の気持ちが強かった。)
『アイフィールプリティ』を思い出して心を浄化したい。

この記事が参加している募集

#読書感想文

189,937件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?