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人は天使であろうとすると獣(けもの)になる

わたしたちは、「正しさ(正義)」を目指して人が動けば、世の中はよくなると思っています。しかし、これはたぶん思い違いです。なぜ、思い違いなのかを、今回は考えてみたいと思います。

人は天使であろうとすると獣(けもの)になる

十七世紀フランスのブレーズ・パスカルは、その有名な『パンセ』の中に、こんな印象的な言葉を残しています。

「人間は、天使でも獣(けもの)でもない。そして不幸なことに、天使であろうとすると獣になる」(L'homme n'est ni ange ni bête, et le malheur veut que qui veut faire l'ange fait la bête.(ブランシュヴィック版 358))

もちろん、これはさまざまな意味を含みうる言葉ですが、十六世紀フランスの血なまぐさい宗教戦争(ユグノー戦争)を知っている者は、どうしてもそれを思い出さずにはいられません。神のために、「正しさ(正義)」のために、現実的には政治的支配力を得るために、人々は果てしなく殺し合ったのです。愛とゆるしの教えを説いたイエス・キリストを信じる人たちが、なぜこのような殺戮をしあったのか、どうすればこのような愚かで悲惨な争いを起こさないですむのかは、現在のわれわれにとっても大きな問題です。

このようなことを言うと、それは宗教のせいだと考える人もいるでしょう。無神論の人ならば、「神などという、ありもしないものを信じるから、そんな愚かなことが起きるのだ」と思うかもしれません。しかし、宗教を信じなければ、神を信じなければ、同じようなことは起きないと考えるのは、あまりにも一面的な考えです。宗教や神を信じていなくても、たぶん「唯一絶対の正しさ(正義)」を信じる限り、人は同じように愚かで悲惨な争いをくり返すからです。そう考えれば、先ほどのパスカルの言葉は、「人は正しくも悪くもない。ただ、不幸なことに、正しくあろうとすると悪を実現してしまう」と言い換えることもできるのではないかと思うのです。

「正しいこと(正解)」はたった一つだと人は思っている

今、「唯一絶対の正しさ(正義)」という言い方をあえてしました。実は、この「唯一絶対の」という修飾語はつけてもつけなくても同じことです。「正しさ(正義)」を信じるということは、それ以外の考え方や価値観をすべて「間違っている」と否定することだからです。「正しいこと(正解)」は常にたった一つだと人は思っているからです。自分が信じている「正しさ(正義)」を唯一絶対のものだと思い、それ以外の考え方や価値観をすべて否定することから、人の愚かで悲惨な争いが生まれるのです。(一般に「正しさ」が一つだと考えられていることについては、「『正しさ(正義)』と『よさ(倫理)』の違い」などをご覧ください。)

「正しさ(正義)」は今でも戦争やテロを生んでいる

そうは言っても、二十一世紀になった今でも、そのような「正しさ(正義)」は人によって信じられているのでしょうか。答えはイエスです。十六世紀に比べれば、宗教や神を信じる人の割合は減ったかもしれません。しかし、今でも宗教的な対立は世界のいたるところで、さまざまな殺戮、テロ、戦争を生んでいます。伝統主義や民族主義、ナショナリズムなどの、一般に「主義(イデオロギー)」と呼ばれるものもまた、宗教や神と同じように終わることのない争いを生んでいます

「自然科学」などの「正しさ」も、一種の「信仰」

さらに、「自然科学」や「経済学」や「資本主義」や「デジタル化」など、多くの人たちが「正しい」と思っていることも、よく考えてみると、人がそれらを無条件で「正しい」と思ってよいほど、それらが本当に議論の余地のない「正しさ」を持っているかどうかは、充分、検討してみてよいことです。そこに「思い込み」の要素がないとは言えないからです。おそらく、無条件で「正しい」と思っている人の割合が上記の四つの中でも一番多いのは、「自然科学」でしょう。しかし、「自然科学」のさまざまな説や理論も、厳密にいえばすべて仮説であり、その説や理論に反する事象が観察されるまでの、とりあえずの「真理(正しさ)」でしかありません。仮説であることの一番わかりやすい例は、人間の体に関する「自然科学」の理論です。たとえば健康医学の理論はすべてが仮説なので、それにもとづく健康理論は数年で変わっていきます。

わたしがこういうことを言うと、なにか屁理屈を言っているように思われる方もあるかもしれませんが、そう思ってしまうのは、われわれの多くが「自然科学」や「経済学」や「資本主義」や「デジタル化」などを、あまりにも、「疑いなく正しいもの」と思い込んでいるからです。いわば、「自然科学」や「経済学」や「資本主義」や「デジタル化」への「信仰」とでもいうべき思いがわれわれを支配しているからです。その結果として、「自然科学」や「経済学」や「資本主義」や「デジタル化」への疑問を口にすると、すぐに頭から軽蔑され、人々の集団から排除されてしまう傾向も生まれてきます。

「人としての正しい生き方・あり方」への「信仰」が人権トラブルを生んでいる

現代のわれわれを支配している「正しさ(正義)」への「信仰」のひとつが、このnoteでずっと取り上げてきた、「人としての正しい生き方・あり方」への「信仰」です。つまり、「人はこうでなければならない」「人はこうするのがあたり前だ」という考え(思い込み)が、人権侵害や差別を生んでいるのです。(くわしくは、「あなたの『正しさ』は相手を動かせない」などをご覧ください。)もしかしたら、数百年後の人々が、今述べたような現在のわれわれのさまざまな「信仰ぶり」を見れば、ちょうどわれわれが十六世紀の宗教戦争をしていた人たちを見るのとまったく同じような、「こんなことを『正しい』と信じて、人と人が傷つけ合うなんて」という感想を持つかもしれません。

自分の「正しさ」に、相手を従わせようとすると悲惨な争いになる

ただ、どのような「正しさ(正義)」への「信仰」であっても、実はそれだけであれば、あまり問題はないのです。悲惨な争いが生まれるのは、自分の信じる「正しさ(正義)」によって、別の(それとは相容れない)「正しさ(正義)」を打ち破ろうとすることによってです。相手の「信仰」を「間違っている」と考える者は、自分の信じる「正しさ」を見せつければ、相手はその「正しさ」にひれ伏すだろう、それでも愚かにもひれ伏さなければ、そんな「愚か者」は「間違っている」のだから、打ち倒してしまえばいいと考えてしまうのです。

ただ現実には、人をひれ伏させることも、打ち倒すことも容易にできることではないために、結果として愚かで悲惨な戦いがひたすら続くのです。その一番わかりやすい例が、宗教戦争ですが、パワーハラスメントをはじめとするさまざまな人権トラブルでも、同じことが起きています。人権トラブルとは、ふたつの対立する「正しさ」(たとえば、パワーハラスメントでは、加害者の主張する「働く者の常識」と被害者の主張する「人権や個性の尊重」)のぶつかり合いなのです。そう考えれば、パスカルの言う「人間は天使であろうとすると獣になってしまう」ということは、今も、われわれの周りの至るところで起きています。(「正しさ」のぶつかり合いについては、「高校生のための人権入門(22) 『正しさ』のぶつかり合いから抜け出すこと(その1)」などをご覧ください。)

パスカルのねらいと、われわれの目指すもの

「人間は、天使でも獣でもない。そして不幸なことに、天使であろうとすると獣になる」

おそらくパスカルは、この言葉で人々に人間の「悲惨さ」を自覚させ、そのような「悲惨さ」から人間を救えるのはキリスト教の神(絶対の存在)だけだ、だからキリスト教の神を信じようと言いたかったのでしょう。『旧約聖書』にあるように、神と同じような知恵を身につけ、神と同格になりたいと思う人間の「欲望」(いわば「自己愛」からくる不遜な欲求)が、人間の「原罪」を生んだのであれば、パスカルはおそらくそのような「欲望」、「自己愛」を捨てて神を信じることが、人間の「悲惨さ」からの救いになると言いたかったのでしょう。

しかし、わたしがこの言葉から考えることは、パスカルのような「絶対なる神」に向かうものではありません。「人間は、天使でも獣でもない」のであるならば、人間はその中間状態にとどまろうとするのがよいと思うのです。人が天使になろう、人が「正しさ(正義)」を実現しようとすることは本来、不可能なのだから、そのような「正しさ(正義)」に支配されない方がよいということです。ただ、人の信じる「正しさ(正義)」は、人の「自己愛」と深く結びついていて、「自己愛」は人の「生きる力」の根源なのですから、頭でわかっていても人はそう簡単に自分が信じる「正しさ(正義)」を捨てることはできません。(「自己愛」については、「自己愛とどうつき合うか」などをご覧ください。)

人間の「悲惨さ」から抜け出るただひとつの道

だとすれば、現実にわれわれができることは、自分の信じる「正しさ(正義)」には常に括弧(「 」)をつけて考えたり、行動したりすることです。「正しさ(正義)」に括弧をつけるとは、自分は自分の考えをあくまで「正しい」と思うけれど、相手は別の「正しさ(正義)」を持っていて、しかもそれを自分とまったく同じようにあくまで「正しい」と思っていることを、「事実」として認めることです。

そして実際にはこれが、「天使であろうとすると獣になる」という人間の悲惨さから抜け出るただひとつの道のように思うのです。それは、違う言葉で言えば、自分の中の「自己愛」の動きに制限と限定を加えることです。(「自己愛」については、「自己愛とどうつき合うか」などをご覧ください。)

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