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サボテン

「結構大事に育てたんだけどな笑」
 火曜日の夜。床に落ちた鉢の破片を拾いながら、そんなことを呟いた。
 進学を機に上京してから八年。特段不便なことがなかったため、引っ越すこともなくこの八畳一間に住み続けている。さすがに変化がないことが辛くなった私は、気持ちを紛らわすために植物を育て始めた。一応植物だったため窓際の棚に置いていたのだが、月の明かりが鬱陶しくカーテンを閉めるときに引っかかったようだ。落ちたものに触れる。親指の腹に違和感を感じた。見ると、針が刺さっていた。抜く。指からゆっくりと血が流れた。絆創膏を貼るほどのものでは、ない。いつか固まり、なにごとも無かったことになるだろう。人の回復力は素晴らしい。

「おはようございます。」
木曜日。いつものように店長に声をかける。15時にも関わらずこの挨拶をする違和感はもうない。すぐダッグアウトに入り、ユニフォームに袖を通す。今日は締め作業までだ。
 問題が起きたのはラストオーダーを取った23時過ぎだった。新人さんが取ったオーダーがどうやらまだ届いていないらしい。しかもちょうど片付けてしまったものだった。新人さんは狼狽えている。店長も出払っており年長者は私しかいない。

「揚げ物、だっけ?」
「あ。はい…。唐揚げです…。」
私とはほぼ目を合わせない。他のバイトも哀れみの視線を与えている。
「あー。なら作るよ。」
これはやむを得ない。この萎縮ようを見るとかなり詰められたのだろう。これで出さなかったら。想像は容易い。
「え。でも片付けたんじゃ…。」
「大丈夫。また片付ければいいよ。」
そう。片付ければいい。
「でも…。」
埒があかない。
「唐揚げって3番?」
「え、あ、7です。」
「了解。」
すぐに厨房に戻る。「あっ」という音が聞こえた気がしたが、聞き違いだろう。

「あの…。ありがとうございました。」
新人さんは安堵と自責とのちょうど中間のような顔を向ける。なんとも礼儀正しい子だ。
「ん?ああ、大丈夫だよ。」
ちゃんと笑えていたのか、彼女の顔は一気に晴れた。
「油処理は私がやります!」
おっと。それは話が変わる。
「大丈夫。面倒でもないし。」
「それは違います!やらせてください!」
これは強行したほうが得策だ。
「本当に大丈夫。ほら、グラスたまっちゃってる。そっちお願い。」
有無を言わせぬよう足早に厨房奥にあるフライヤーに足を進める。10秒後、煮詰まらない想いのこもった足音が後ろから聞こえた。ほらね。

 客席の明かりは消え、あとは札を数えるだけになった。30分ほど前、ダウンを着た彼女は不服そうな顔をしながら挨拶をしてくれた。なぜあんな顔ができるのだろうか。面倒事をしなくていいのだから嬉しさが溢れても何らおかしくない。何故。何故。                     「…今何枚だっけ。」
 帰りは金曜日だった。


『今年も帰って来ないのですか。お父さんも会いたがっています。連絡待ってます。』

 地方の肉親から1年ぶりのメッセージ。定型文と化したものに、ここに込めた気持ちは既にない。贈り手の旦那から1通も来ないことがそれを物語る。けれどこの人は送り続けている。非常に健気である。だからこそ返信はしない。
 大学卒業後、大手とは言えないがそれなりの会社に就職した。ある程度生活ができた。でも1年半で辞めた。別に職場に不満はなかった。いじめも無かった。優しい先輩しかいなかった。何故辞めたのか。理由なんか無かった。上司に聞かれたときに「一身上の都合」というのが精いっぱいだった。苦し紛れの嘘だった。それからは働いていた時の申し訳程度の貯金を切り崩しながら生き永らえた。それも限界が来るのはすぐだった。ガスが止まり、水道が止まり、電気が止まった。それでも私は働く気が起きなかった。私が今の居酒屋に働くようになったのはその3週間後だった。カートン買いしていたタバコが無くなったことが引き金となった。退職の相談も連絡もせず、こんな生活を送ってきた人間を息子として迎えさせるのは忍びない。そう、忍びない。
「もう夕暮れだ。」
 タッセルを外し外部と部屋を遮断した。

 火曜日から、居酒屋の居心地が少々悪い。あの新人さんがやたらと私に関わってくるようになった。少々暇になると厨房に入ってきて雑談をしに来る。正直鬱陶しい。話を逸らそうにもオーダーはすべて出され、洗い物はない。そうだと思いだし、目を向けた先には乾かされているグラスがあるだけだった。これが土曜日なのか。視線を彼女に向けると「してやったり」という顔だった。これはお手上げだ。ここは大きな川に流れを任せるしかない。そう、任せるしかない。

 日曜深夜。溜まってしまったゴミ。日頃の怠惰が1週間に1度、物体として現れる。部屋に点在するレジ袋を焼却専用の袋にまとめる。隅にあった袋を手に取ると異常な重みを感じる。知らない重みだ。甘めに縛られていたため中身が少々見えている袋を開ける。そこには白い花が咲いていた。こんな花を育てていた覚えはない。何という花だろうか……。

「なるほど」

 私はしっかりと袋の口を縛り、焼却専用の袋に押し込む。これが私の意志であると誰かに示すように。手のひらには血が流れていた。

 月曜未明。受信を知らせる音が部屋鳴り響いたが、私はゴミを出しに行っていた。それを聞いていたのは月明かりぐらいだろう。

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